第6話 現地入り
セブマクタン国際空港に着陸したのは、夕方の六時を過ぎた頃だ。
空港から外へ出た頃には、すっかり陽が落ちていた。
空港からセブシティーへ向かう途中、私がフィリピンを初めて訪れたと思っているグレースは、街の事を色々解説してくれる。
例えば空港がある場所はセブ島の脇にある小さなマクタン島であるとか、有名なセブリゾートはそのマクタン島にある事や、マクタン島とセブ島を繋ぐ大きな橋は、日本の援助で作られた事である。
私は素知らぬ振りをして、彼女の説明をぼんやり聞いていた。
しかし、マンダウエの住宅エリアに入った途端、彼女の解説がぴたりと止まる。確かにそこは、解説するべき観光的要素は皆無だ。
逆に私は、裸電球に照らされた街並みの様子が懐かしく、感慨深くその景色を眺めていた。
私が余りにその場所へ執着しているように見えたのか、グレースが言った。
「すごく貧乏で驚いたか? これが私の育った街。多分日本人は、こんな場所嫌いよね。でも、ここが私の街」
私は窓の外を流れる景色に、視線を固定したまま答えた。
「俺は嫌いじゃない。涙が出そうなくらい懐かしい」
彼女は如何にも意外そうに、「えっ?」と声を出した。
「懐かしい? あなた、ここ初めてじゃないの?」
グレースの声が上ずっていた。流石に驚いている。
「ああ、ここで一年暮らした事がある。もう十年も前の事だ」
「そうなの? 十年前だったら、私もまだここにいたよ。もしかして私たち、会った事があるかもしれないね」
グレースは、明らかにはしゃいでいた。
どうやら彼女は、私が自分の故郷へ住んでいたという事実が嬉しいようだ。
たったそれだけで、妙な連帯感が生まれる事もあるのかもしれない。
「佐倉さん、どうしてフィリピンに住んだ?」
私はまたしても、面倒な説明を省略して答えた。
「子供を殺して、フィリピンへ逃げたからだ」
実際に、そのようなものだった。あれはまさしく、現実からの逃避だ。
「またその話か。私信じないよ。誰が
良い人でも、誰かを殺す事はある。そして今回の仕事にしても、誰かと殺し合いになる可能性があるのだ。
私はそのくらいの覚悟を持って仕事を受けているが、修羅場を知らない彼女には、それが分からないのだろう。
実際に世界の中には、今でも凄惨な殺し合いが行われる場所がある。
私は、余計な御託を全て飲み込み言った。
「俺が良い人か悪い人かは知らないが、受けた仕事は真面目にやるから心配するな」
「心配してない。私、佐倉さん信じてる」
他人を簡単に信用するなと言いかけて、私はその言葉も飲み込んだ。彼女に俗世間の汚さを、必要以上に教える必要はない。
暫くして、車がマボロというエリアを抜けた。もうすぐ予約したホテルへ到着するはずだ。
道沿いには、日本のラーメン屋や焼肉レストランが見える。以前、そんなものはなかった。やはり街は随分変わっている。
そういえば、道路を走る車やバイクの量も、随分増えていた。
それなりに、経済発展があるという事だろう。
フィリピン人には悪いが、私は経済発展という
数々の紛争地域へ行った私は、悲惨な闘いの裏に、いつも利権に群がる人たちの影を見た。
つまり私は、そういった人たちの手先として働いていたわけだ。
貧しい国の発展には、いつでも裏に暗躍する人が見え隠れする。発展は国民のためというより、一部の政治家や財界人のものという色合いが濃い。そんな物のためにフィリピンの持つ素朴さが失わるのは、見るに忍び難いのだ。
彼女はその事を了解し、経費節減で私と同じ部屋へ泊まると言った。
同じ部屋へ泊まる事を、彼女はあまり気に留めていないようだ。普通は警戒するものだと思うが、フィリピン人はそんなところもおおらかだ。彼女は私に襲われるかもしれない事など、
もっとも、私に全くその気はないのだが、一緒の部屋ともなれば色々気を使うだろうから、それが少し面倒だ。
予約したホテルは、以前宿泊した事のある四つ星だった。
ロビー正面に、広々としたラウンジがある。夜にはピアノの生演奏が流れる優雅な空間だ。
全ての床が絨毯敷で、ホテル内には立派なプールやレストランも入っている。従業員の教育が行き届き、部屋は清潔で落ち着いている。ゆっくりくつろぐには最高のホテルだ。本来は、バカンスで利用したいところである。
自分一人なら雨風をしのげれば何でも良いが、彼女も一緒に泊まるなら、それなりに信用の置けるホテルにすべきだった。誰がどこでどう繋がっているのか分からないからだ。こんな国では尚更で、少なくとも海外資本のホテルでなければならず、必然的にハイクラスなホテルとなってしまう。
ホテルの予約は、フランスパスポートの名前で取った。これは偽名の正式パスポートだ。つまり、偽造パスポートではない。
フランス外人部隊の中には偽名制度があり、誰もが偽名を使う事になっている。その後のフランス国籍取得も全て偽名で通しているため、私は簡単に別人となる事ができる。
フランスでは、この偽名で正式身分証明書が発行され、社会保険ナンバーや銀行口座まで全て偽名で用意される。そうなると、それが偽名かどうか怪しくなるほど、本物のような偽名だ。
二重国籍を認めない日本では、本来フランス国籍を取得した時点で日本国籍を放棄しなければならないが、私は手続きをせずそのままにしている。
ホテルで偽名を使うのは、セキュリティーのためだった。宿泊者リスト上、私はフランス人である。しかし見た目は東洋人だ。そうなると、仮にホテルへ問い合わせが入り内通者が調べたとしても、東洋人としての私は宿泊していないのだ。
私の計画には、こうしたセキュリティー対策が盛り込まれている。全てが杞憂で終われば良いが、下手を打てば命に関わる。リスクは事前に、極力潰しておくべきだ。
あとは現地の連絡用に使う携帯と、武器を入手しなければならない。
銃については日本から、既にある人物へ連絡済みだった。現地の密造拳銃を、十丁注文している。
コルトガバメントの名前で知られるコルト四五オートマティックが、一丁百三十ドルだ。
セブシティーから海沿いを三十キロほど北上した所に、ダナオという田舎町がある。ここが密造拳銃で有名な場所だった。
政治家や警察もその実態を知っているが、不思議とこの地場産業は連綿と受け継がれている。
選挙の期間になると、政治家が暗殺者を雇い対抗馬に攻撃を仕掛けるようだが、そこで使われる大半の銃も、このダナオ製だと言われている。登録された正式拳銃を使用すれば、足が付くから当然だ。急ぎの注文でなければ機関銃や他のタイプの銃もお願いできる。
携帯と新しいシムは、近所のモールで簡単に買える。シムを購入する際の身分証明書も、勿論フランスパスポートを使う。
二人で部屋へ入った。お願いした通りのツインルームだ。
広さは五十平米近くとゆったりしている。家具もベッドも申し分ない。
絨毯が部屋の静けさを作り出し、それが高級感を高めている。歩く際に足音が響かない事は、意外と人間の空間に対する印象を左右する。
私に言わせると、このホテルの難点は、この足音の出ない絨毯敷だった。人の気配を殺してしまうため、誰かがひっそり忍び寄っても、察知し難いというセキュリティー上の欠点がある。
しかしグレースは、豪華なホテルを単純に喜んだ。
「佐倉さん、こんな立派なホテル、私、初めて泊まるよ」
そう言いながら、彼女は部屋の備品を珍しそうに点検する。
「パスポートと日本の携帯や財布は、全てセキュリティーボックスに入れろ。明日からは持ち歩くな」
グレースは私の言い付けに、不満そうだった。
「どうして? お金がないと困るよ。それに二人が離れたら、どうやって連絡する?」
「金は俺が持つから問題ない。お前はパンツのポケットに、最低限の現金を突っ込んでおけ。携帯は、明日連絡用を買うから心配するな。こういった場合、万が一を考えて、身元の割れるものは持たない方がいい。それと携帯は、コールしたら全ての履歴をすぐに消してくれ。最後に、身内であってもこの場所の事は絶対教えるな。家にも帰らない方が良い」
私はフランス名義のクレジットカードと、現金を入れる現地用の財布を別に用意している。万が一拉致されたら、相手は真っ先に財布や携帯を調べるからだ。
自分の素性は最後まで隠した方が良い。そうでないと、家族の事を含め敵に弱みを握られるようなもので、次に反撃のチャンスを掴んでも上手く動けない事になる。
もっとも、殺されずに逃げる事ができたら、という事になるが。
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