ミムラス

 書類をめくる手が止まる。初夏の日差しが事務室に差し込み、いつもならうとうとしかけるような、そんな穏やかな時間なのに、心がまったく休まらない。昨晩、彼氏と交わした、と言うよりもお互いに投げつけあった言葉の応酬が脳裏に蘇って、ため息が出る。

「本日6度目のため息ですね。何かあったんですか。どうも集中出来ていないようですが」

 隣のデスクに座る同僚の冷めた視線に、私は急いで姿勢を正す。いつも冷静な彼女は、きっと恋人と喧嘩しても、冷静に仕事ができるんだろう。いや、そもそも喧嘩自体、しないかもしれない。

「ちょっと落ち込むことがあって。でも、そんなの関係ないですよね、仕事ですしね」

 言いながら再び手を動かそうとした私の耳に、意外な言葉が聞こえた。

「いえ、気分の落ち込みは如実に仕事に反映します。私にも、そういうことがあります」

 私はここに数年間勤めてきて初めて、彼女の顔をじっと見つめた。冷静な顔、けれども、私が思っていたよりも、ずっと温かな眼差し。

「落ち込んだときは、笑うことです」

「笑う?」

 はい、と彼女は頷く。細縁眼鏡のフレームが、きらりと光る。

「人間は楽しいと笑いますね。その逆もあって、笑顔を作ると、脳が騙されて、楽しい気分になるらしいんです」

 こんな風に、と、彼女は、ぎこちない笑みのようなものを浮かべた。思わず吹き出した私に、怒りもせずに続ける。

「そう、その調子です。人間の脳なんて、そんなことで騙される程度のものです。そこで感じる落ち込みなんて、そこで打ち消してやれば良いんです」

 その方が仕事が捗りますから、と彼女は言い、私は早くも笑顔の効果が出始めているのを感じた。

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