バイカウツギ

 もう逢えない恋人が座っている。

 そう思って声をかけた女性は、よく見ると別人だった。

「す、すみません……知人に似ていたもので」

 狼狽しながら頭を下げる私に、彼女は微笑んで首を振る。

「人違いは、慣れておりますの」

 まだ若そうなのに、ひどく落ち着いたその態度に、私はすっかり面食らってしまった。彼女は、彼女が腰掛けているベンチの隣を示した。

「良かったら、私をどなたと間違えたのか、聞かせてくださいませんか。人違いをされたとき、いつも聴くことにしておりますの」

 面食らったまま、私はそこに座り、随分昔に別れた恋人の話をした。互いに互いを思う気持ちは本物だったのに、どうしようもない事情によって別れざるを得なくなったということまでも。誰にも話したことなどないのに、まるで旧知の相手に相談するかのように、ぺらぺらと打ち明けてしまった自分に驚く。

「素敵な方でしたのね」

 そう相槌を打つ彼女は、見れば見るほど、恋人には似ていない。なぜ最初、似ているように思ったのかが分からない。

「私はどうも、人が、会いたいと願っている相手を、投射しやすいようなのです。有り体に言えば、無個性なのでしょう。だから、よく人違いをされるのです」

 彼女は静かに、簡潔に、今まで遭ってきた人違いについて話した。誰かの娘、母、姉、妹、叔母、祖母、憧れの人、先輩、後輩、上司、部下、仲間、ライバル……。

「最初は、そりゃあ嫌でした。私は私で、他の誰でもない。……けれど、私に声をかけた瞬間の、その人たちの嬉しそうな顔を思うと、例え一瞬でも、私がその人の大切な人の代わりになれて良かったなと、そう思うようになったのです」

 別れ際、私は振り返って、彼女の後姿を眺めた。別人だと分かっていても、嘗て愛した人の背中が重なる。滲む視界の中、その背中に、深々と礼をした。

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