5章

第35羽 小鳥、少し遅れて家を出る

「小鳥遊、一つお願いがあるんだが……」

「はい、何でしょうか?」

「小鳥遊の小説を文芸部のみんなにも見せたいんだ。面白かったから」

「!」

「ダメか?」

「……先輩のお願いなら、大丈夫です」

「! ありがとう」


 そんな会話をしたのが7月29日の朝食時。いつも通り美味しく朝食を平らげたロクは、すぐとある作業に取り掛かった。


 原稿用紙にどっさりと書かれた『花束に微笑んで』をデータ化する作業である。


 ロクとしては合宿中、文芸部員に是非とも読んで欲しかったのだが、この紙束を鞄に詰めて持っていくのは億劫だ。重い、かさばる、何より読むのに手間がかかる。


 そのためデータ化しない手はなかったが、文字数は10万字以上あり、8月1日からの合宿に間に合わせようとすればたったの3日間しか猶予がない。


 幸いだったのは夏休みで授業がないことと、合宿までは文芸部の活動が一切ないことだろう。


 ロクの定位置は自室のパソコン前となり、そこに小鳥が冷えたお茶を時々持って行くという、そんな3日間が続いた。


(話を考えなくて良いぶん楽だと思ってたけど、コピーって大変なんだな)


 誤字や表現のズレがないように模写するのは思いの外時間がかかり、作業が完了したのは結局7月31日の21時過ぎ。これから合宿の用意をして入浴して、歯を磨いてとしていればそれだけで就寝時刻を回る。


 ――いよいよ明日だぞ!


 ――ワクワク


 ――海だぞ!


 ――ドキドキ


 ――ちゃんと起きるんだぞ!


 ――ぐーぐー


 文芸部のトーク画面は盛り上がっていて、画面越しに高坂すみれと水野雫のテンションの高さが伝わってきた。御堂蓮はいつも読むだけでメッセージを送信しないタイプだが、彼も気分上々に違いない。


 ――分かりました

   ちゃんと起きます


 ――ちゃんと小鳥遊くんを連れてくるんだぞ!


 ――連れて来なければ死刑

   海に引きずり込む


 やはり雫の物言いは物騒だった。『ちゃんと連れて行きます』と返信してロクは寝る。



 そして8月最初の朝。何だかんだで楽しみにしていたロクは、目覚ましアラームを頼りに早起きする。窓から入ってくる日差しは強く、絶好の旅行日和である。


 しかし気温も高そうだ。


 晴れたのは良かったが暑いのも嫌だなと、そんな贅沢な悩みと共にロクは階段を降りる。早起きしたロクだが、それでも小鳥の方が朝は早く、キッチンで既に朝食を作っていた。


「おはよう」

「おはようございます。早起きできて偉いです」

「褒められてるのか舐められてるのか」

「どっちでしょう?」


 そう言って笑う小鳥を見ていると、仮に舐められていたとしても許せてしまう。なるほど、こうして旦那という存在は嫁の尻に敷かれるようになるのかもしれない。


「今日の朝飯は?」

「プレーンオムレツです」


 早起きした甲斐もあってのんびり食べることができ、まったりとした朝食を過ごした。食べ終わってもまだ1時間強の猶予がある。


 さて、動画でも見て時間を潰そうと思っていたロクだったが、


「あの、先輩」

「?」

「その……」


 小鳥が目を伏せがちに予期せぬことを言い出した。


「先輩は、先に家を出ていてくれませんか?」

「え?」

「それで、改めて『あの場所』で待ち合わせしたいのですが……」


 あの場所とはきっと、ロクと小鳥の出会った場所だ。


 ロクには何故そうしたいのかさっぱりだったが、そこまで手間でもないので、「まあ、別に良いけど」と了承する。しかし小鳥は嬉しそうにする訳でもなく、何やら照れたような顔を見せるだけで、真意は掴めないままロクの出発時間が来た。


「じゃあ、先に行って待ってるな」

「はい。ありがとうございます」


 スーツケースと共に家を出る。たちまち照りつける日差しにさらされ、思わず手で目の上を覆った。


「まぶしっ」


 更に熱気がじりじりと肌を焼いてきて、これではすぐにでも汗が吹き出そうだ。ポーチにハンカチでも入れてこれば良かったと反省する。


 ゴロゴロゴロゴロ。


 キャスターがアスファルトの上を転がるやかましい音を鳴らして、ロクは歩く。文芸部員との集合場所は学校の最寄駅で、そこまでの道中に小鳥と出会った場所はあった。


「ふう」


 ここに来るたびロクは思い出す。小鳥の無表情なあの顔を。


(最近は少しずつ、表情が豊かになってる気がする)


 もしそうなら、それはきっと喜ばしいことなのだろう。


「にしても暑いな」


 パタパタと胸元を煽ぐ。


(小鳥遊の出る10分前に出たけど、早過ぎたか)


 このまま10分もここで待っていれば、熱中症で倒れてしまうかもしれない。そう大袈裟に考えたロクは近くのコンビニに一時撤退を決めた。あの折り畳み傘を購入したコンビニだ。


 ティロリロリロ。


 コンビニ入店の音がして、続いて「いらっしゃいませー」と店員の声がする。せっかく入店したのだからとロクはアイスを買うことにした。


 アイスの種類は豊富にあったのでじっくりと見定め、結局は一番シンプルなミルクバーを選ぶ。


 会計を済ませて外へ。今からあの場所に戻ればちょうど良い時間だ。


 レジ袋からミルクバーを取り出して開封し、大口を開けて齧ると、アイスの塊によって口の中が一気に冷やされる。


「ひゅめたっ!」


 ひゃふ、ひゃふと口の中で溶かしながら、例の場所に戻った。この日差しの下ではたちまち溶けてしまいそうで、急いで食べねばまずいだろう。


 それでも一口で食べようとすれば今のように口内が大変なことになるので、少しずつ齧って食べ進めていく。半分ほど食べたところで、


「先輩」


 声が聞こえた。この一、二カ月間ですっかり聞き慣れた声。振り向くとそこには、案の定後輩が立っていて、


「……!」


 ロクの時間が止まった。


 まず目に入ったのは白くて透明感のある衣。涼しさを感じさせる生地が首から膝下まで伸びていて、裾の部分は風に煽られひらひらと揺れている。


 次に目に入ったのが藁で編まれた、稲のように淡い黄色の帽子。帽子の周りを青色のリボンがくるりと一周しており、蝶々結びでしっかり巻き止められている。


 目が釘付けになった。あまりの暑さに陽炎でも発生したのだろうか。背景がぼやけたように錯覚してしまい、その立ち姿だけに焦点ピントが合う。


 夏。麦わら帽子。白いワンピース。そして頬を染めて、目を下向きがちに照れている小鳥。


 言葉が出てこない。


「お待たせ、しました」

「…………」

「先輩?」


 返事がないことを不思議に思った小鳥が首を傾げる。そんな仕草も卑怯で、見惚れているうちに食べかけのアイスがぽろりと落ちてしまう。


「あ。先輩、落ちましたよ」

「え? あ、ああ。そうだな」

「……先輩、先ほどからボーッとして、もしかして具合でも悪いんですか?」

「いや、そうじゃないんだ。ただ」


 あまりの奇跡マリアージュにロクの思考回路はショートしていた。


「すげえ可愛くて……放心してた」

「!」


 頭で考える前に口に出してしまう。それを聞いた小鳥の頬はさらに赤くなる。


「や、やっぱり先輩は、すごく恥ずかしい人です!」


 そこでロクの思考回路が再稼働を始める。


「……へ? あ、あ!」


 一拍おいて、自分が何を言ってしまったのか理解する。


「いや、これはその、ちが……くはないんだが、えっと……」


 しかし言い訳が出てこなかった。再稼働しようと何の役にも立たない思考回路。


「……このままじゃ遅刻するし、行くか」

「……はい」


 二人は歩き出す。気まずい空気のまま。


 ムードを考えることなど一切しない無機物のスーツケースが、またゴロゴロと音を鳴らし始める。


 会話はなく、徐々にロクの額から汗が滲んできて、それは暑さから来るものなのか、この気まずい緊張感から来るものなのか。きっと前者に違いないと決めつけたロクは、ふと志穂の言葉を思い出した。


 ――小鳥遊さんの水着、期待していいわよ


(っ!)


 小鳥の私服姿を見ただけでこれだ。合宿の本番はまだまだこれから。別荘に行って、海で遊んで、すみれたち曰く花火もするらしい。どれも小鳥とは初めての経験で、初めて見る表情や仕草も多いのだろう。


 もう一度胸元をはためかせる。


(あっちぃ……)


 嫌でも期待してしまう自分が、ここにいた。

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