18話 ※神様視点
かつて呼ばれた母の名に、失われた記憶が揺れる。
大神たる父の死が、脳裏に焼き付いている。
腐り落ちた大地と、悲鳴を上げる人間たち。
人間を背に立つ一人の娘と、娘を守るあの男の姿を――ときおり夢に見るようになったのは、いつからだろう。
思い出せ、という声がする。
すでに
役目を果たせ。それが人間たちへの慈悲になる。
それでも、と否定する声がする。
決断を急かす声よりも、ずっとずっとかすかな
あともう少しだけ待ってほしい、と。
――なぜ?
もう一度、誰とも知れない声がする。
なぜ、今さらそうも必死になる。
なんのためにそんなことをする?
この目に映る人間たちの姿は、少しも変わらないというのに。
「――勘違いしないでいただきたい」
アマルダの屋敷に滞在して、三度目の夜。
もう寝ようかという頃に訪ねてきた神官たちに、彼は苦い笑みを浮かべた。
「アマルダ様は、あなたを気の毒に思ったに過ぎません。聖女として、仮にも神であるあなたへの仕打ちはあまりにも哀れだと。ただそれだけのことです」
「はあ」
広い客室には、月の光も入らない。
燭台の火がぼんやりと照らす中、部屋の半ばまで入ってきた神官と、彼は真正面から向き合う形になっていた。
神官たちは五人。全員、アマルダと特に親密な者たちだ。
いかにも純朴そうな若い神官たちで、神である彼から見ても整った顔立ちをしているが――今はその顔を、いびつな表情に変えている。
穢れを見るまでもない。神官たちが敵意を持っていることは、表情から一目瞭然だ。
「アマルダ様は、最高神の聖女であらせられます。神殿からの信頼も厚く、民からは慕われ、王家に近しい公爵家からも求められるお方。穢れに苦しめられている現在、この国にもっとも必要とされているお方です」
おわかりでしょうか、と神官の一人が歩み出る。
隠すことのない苛立ちを浮かべながら、彼は慇懃に笑ってみせた。
「……本来、あなたのような些事にとらわれる時間はないのですよ、無能神様?」
挑むような視線に、彼はただ困っていた。
無能神として扱われることには慣れている。今さら腹を立てることもない。
ただ、『やっぱり』と思うだけだ。
「いかに姿が変わろうと、無能神は無能神。ご自分の立場をお忘れなきよう。アマルダ様に必死に縋って、いったいなにを期待しているかは知りませんが、無駄な努力です。アマルダ様があなたに振り向くことはありませんので」
やっぱり、人間たちは変わらない。
悪意を持ち、穢れを生み、他者を踏みつけなくては生きられない。
そのくせ救いを求めながら、救いを求めていることにさえ気づかない。
「アマルダ様はお優しい方ですから口には出しませんが、本心では迷惑に思っているんですよ」
無言の彼に嘲笑を浮かべ、神官はまた一歩足を進めた。
どろりと揺れる彼の穢れに、屋敷に渦を巻く穢れも揺れる。
神殿内でもとりわけ濃い穢れの気配に、彼は静かに目を伏せた。
――気持ち悪い。
「身の程はおわかりいただけましたか、無能神様? まさか、明日以降も居座るつもりではないでしょうね?」
「……いえ」
吐き気を抑えながら、彼は首を横に振る。
明日で約束の三日は終わり。
なにかを得られた気はしないが、これ以上長居をするつもりはなかった。
だが――。
「私は、明日には――」
「――――なにをやっているの! アルマン様! シャルル様たちも!」
それを告げるよりも先に、別の声が割って入る。
穢れた屋敷に凛と響く、アマルダの声だ。
「カミル様から聞いたわ、みんなが悪いことを考えているって! 私がいないうちに、クレイル様を追い出そうとしているって……!!」
カミルというのは、この場にいる神官たちとは仲の悪い別の神官だ。
アルマンと呼ばれた神官たちと同じようにアマルダとは親しく、言ってしまえば歓心を競い合っている。
今回も、アルマンたちの信頼を落とすためにアマルダに告げ口をしたのだろう。
予期せぬアマルダの登場に、神官たちの心がどろりと歪んでいく。
「あ、アマルダ様……これは……その……」
「言い訳なんて聞きたくないわ! クレイル様にこれ以上ひどいことをしないで! ――ああ、かわいそうなクレイル様……!」
アマルダは頭を振ると、それ以上は周囲の神官たちに目をくれず、まっすぐに彼へと視線を向けた。
そのまま駆け寄ってくるアマルダの姿に、凍り付く神官たちの顔が見える。
穢れに染まったその顔に浮かぶのは、嫉妬と羨望、後悔と――。
救いを求めるような、哀れな目。
「アルマン様たちの言うことなんて気にしないで。私、迷惑なんて思っていませんから」
一層濃くなる穢れにも、神官たちの視線にも気が付かず、アマルダは彼の正面で足を止めた。
おもむろに伸ばすのは、細くて白い手だ。
立ち尽くす彼の手を取って、アマルダは優しい笑みを浮かべてみせる。
「ずっとここにいてくださっていいんですよ、クレイル様」
溺れるような穢れの中で、彼女の姿だけが澄んでいる。
向けられた悪意も、隠せない下心も、救いを求める視線さえも、彼女の心を穢さない。
「私はグランヴェリテ様の聖女ですけど、あなたに選ばれた聖女でもあるんですから」
まっすぐな瞳で告げる彼女は、暗い穢れの中で輝く、光のようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます