21話

「エレノアさん。私には、なにもなかったように見えません」


 神様は静かに、だけどはっきりとした声で、私の言葉を否定した。

 首を振るようにゆるゆると震えると、彼はぬるんとベッドから滑り降りる。


「なにかあったのでしょう。いったい、どうされたのですか」


 彼はそう言いながら、這うように私に近づいてくる。

 真剣な彼の言葉に、私は手の中の雑巾を握りしめた。


 ――わかっているわ。


 神様は私を気遣ってくれている。

 私の様子がおかしいことに気が付き、心配してくれている。


 嬉しいことだ。

 ありがたいことだ。

 頭の中ではわかっている。


 ――でも。


「……どうもしていません」


 目の前で立ち止まった神様から、私は目を逸らした。

 ぷるんと揺れる神様の姿を、今は見ていたくなかった。


「本当に、なにもありませんでした。だから気にしないでください!」


 吐き捨てるようにそう言うと、私は神様に背を向けた。

 そのまま適当な壁を睨みつけ、手に持った雑巾で乱暴に拭う。

 だけど苛立ちが収まらない。

 渦を巻くような黒い感情に、私は荒い息を噛み殺した。


 ――今日も、休めばよかったわ。


 昨日の今日で、まじめに神様の部屋に来たなんて、今から思えば馬鹿馬鹿しい。

 一日様子を見ていなくて心配だったとか、食事を届けなきゃとか――どうして私が気にしなければいけないのだろう。


 ――私は代理なのに。


 考えるほどに、苛立ちは増していく。

 壁を拭っても拭っても、頭の中は昨日のことばかりが思い出される。


 ――選ばれたのはアマルダなのに、アマルダに押し付けられただけなのに。


 本当は――ここにいるのはアマルダのはずなのに。

 汚れの落ちない壁を見つめ、私は苦々しさに頭を振る。

 知らず目を伏せれば、日当たりの悪い部屋の薄暗い影が目に入った。


 神様の部屋は、昼でも暗い。

 おまけに狭くて粗末で、ひどく古びている。

 部屋に不釣り合いな家具は、全部リディアーヌからのもらいものだ。


 食事も自分で得られない。

 神殿からの扱いも悪く、聖女どころか、まともな人間扱いされているかすらもわからない。


 それに、なにより――。


「エレノアさん」


 背を向けた私に、神様が呼びかける。

 ひどく気遣わしげなその声に、私は知らず奥歯を噛んだ。


「気になりますよ。今のエレノアさんを放っておけません」


 壁を見つめる私に、神様の姿は見えない。

 だけどきっと、いつも通りに震えているのだろうと想像がつく。

 黒くてまるい、人ならざる体で、私のことを窺い見ているのだ。


 誰もが嫌悪するような、醜い姿で。


「なにがあったか話してください。私には、聞くことしかできませんが――」


 背後から聞こえる声は優しい。

 穏やかで、遠慮がちで、親しさのこもった柔らかい声音を――だけど今は、聞いていたくない。


 ――こんなこと、考えたくないのに。


 頭が考えることを止められない。


 絶世の美貌で知られる、最高神グランヴェリテ様の聖女アマルダ。

 神官たちからは特別扱い。父やエリックも彼女に夢中で、いつだって気にかけられている。


 対する私は、暗い部屋の中。

 醜い醜い――人の姿すら持たない無能神だけにしか、気にかけてももらえないのだ。


「エレノアさん」


 どろりと心の中が粘りつく。

 止めようもなく、感情があふれてくる。


 考えたくないのに、言いたくないのに――。


「私は、あなたの力になりたいんです」


 強い言葉に振り返れば、私の正面にある黒い塊が見える。

 ゆるく震えるその姿に、私はあえぐように息を吐く。


「力なんて」


 呼気と一緒に、震える言葉が零れ落ちた。

 神様がはっとしたように強張る。


 だけどもう遅い。

 口から出たものは、もう止められない。


「あなたに――」


 あふれ出す感情は、まぎれもなく悪意だ。

 醜悪な神様よりも、なお醜悪な自分自身に、私の表情が歪む。


「無能神なんかに、なにができるって言うのよ!!」


 部屋は一瞬、しんと静まり返った。

 神様はなにも言わず、ただ傷ついたように大きく震えた。

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