~79~ 寂しさからの浮上
しばらく脱力したようにベッドに横になっていた羽琉は気分を変えようと、明日の退所のために整理していた荷物の中からスケッチブックを取り出し、寝ながらパラパラと捲り始めた。
懐かしい自分の絵に思いを馳せていた羽琉は、ふとあることに気付きスケッチブックを捲っていた手を止める。
「あれ……ここまで風景画が多いけど……」
いや。全体的に比較しても風景画の方が圧倒的に多いのだが、ある日を境に人物画を描いていることに気付いた。
最初に描いているのは……。
「そうだった。笹原さんが優月くんに手話を教えてもらって、初めて手話で会話した時の……」
正面玄関の待合室で突如始まった優月の手話講座。それは笹原が教えて欲しいと懇願したことがきっかけだった。最初は手の表現に苦戦していた笹原も、段々分かってくるようになると、優月と短い会話をするようになった。
その時の嬉しそうな2人の満面の笑みが印象的で、羽琉は部屋に置いていたスケッチブックをすぐさま取りに行き、その場で走り書きするように描き始めたことを思い出した。
もう少しじっくり描きたかったのだが、2人の表情がコロコロ変わるので、結局落書き程度のものにしかならなかった。それでも思い出深い1枚であることに変わりはない。
「楽しかったな……」
気分転換に開いたスケッチブックだったはずが、逆に寂しさに拍車が掛かってしまった。
長嘆を洩らしスケッチブックを抱き締めるように抱えた羽琉は、ベッドの上で蹲るように体を丸める。
駄目だ……。やっぱり寂しい……。
目を瞑っても優月との楽しい思い出ばかりが瞼に浮かび、全く浮上出来る気がしない。
いつから自分はこんなに弱くなったんだろう。
前はどうやって気分を上げてたっけ。
どんどん気持ちが塞ぎそうになってきた時、部屋のドアをノックする音が届いた。
怪訝気に眉根を寄せた羽琉は時計を見たが昼食にはまだ早い。
何かの用事で笹原が来たのだろうかと思い、羽琉が「はい」と返事をすると、思わぬ人物がドアを開けて中に入ってきた。
「こんにちは。ハル」
にこやかに登場したエクトルに羽琉は絶句する。
「すみません。今日は会わない日だったのですが、結局会いたくなって来てしまいました」
「……」
サプライズが成功したかのように目を丸める羽琉に優しい眼差しを向けるエクトルだったが、ベッドに広げられたスケッチブックの絵に目を止めると、切なげに目を細めた。
「受付でササハラサンに聞きました。ユヅキは無事に退所しましたと」
「……はい」
「ハル。私に遠慮などいらないのですよ。私はハルの恋人です。こういう時に私がいます」
寂しいのなら頼っても良いのだと、そのために自分がいるとエクトルは羽琉に伝える。
「ハルが呼んでくれれば、私はいつでもそばに駆け付けます」
エクトルの言わんとしていることを頭の中で解釈しつつ、羽琉は不安そうな表情になる。
「……電話を掛けても?」
迷惑にならない?
「もちろんです。ハルからの着信なら大歓迎です」
当然とばかりに肯くエクトルに羽琉は安堵の息を洩らした。
エクトルはベッドの上に座っている羽琉に近寄ると、包み込むようにふわりと抱き締めた。
「ハルに頼られるのは恋人である私の特権なんです。それは私にとってこの上ない幸せなんですよ。その特権をたくさん私に行使させて下さいね」
羽琉の髪に顔を埋めたエクトルが甘く囁く。
「…………」
頭上から聴こえる声音に羽琉はゆっくりと目を閉じた。
包み込む腕の強さも、羽琉を安堵させる優しい言葉も、ずっと浸っていたい気持ちになる。
不思議とエクトルに抱き締められることへの嫌悪感は全くなかった。今の精神的な状態でそんなことを考える余裕がなかっただけかもしれない。だがそれでもエクトルの腕の中にいる心地良さを感じている。羽琉の中に存在していたはずの他人に対する拒絶する衝動は少しも起きることはなかった。
自分の腕の中でじっとしている羽琉の頭を、エクトルは慰めるように撫でる。
相当心細い思いをしていたんだな……。
エクトルはすぐに来所しなかったことを深く後悔した。
普段の羽琉なら抱き締められる前にエクトルから距離を取っていたはずだが、今の羽琉にそうする様子は一切ない。
エクトルの背に羽琉の腕が回ってくることはなかったが、自然に羽琉の体が自分に凭れかかっていることにエクトルは不謹慎ながらも至福を感じる。羽琉が全く拒絶しないことから、出来るだけ触れていたいエクトルは、すっぽりと自分の腕におさまっている羽琉の温もりをここぞとばかりに堪能していた。
「……本当は」
しばらくして呟くように羽琉が口を開いた。
「エクトルさんに電話を掛けようと思ったんです。声を聴いたら少しでも気持ちが変わるかなと思って……」
「私の声で、ですか? なら、こうして会ってみてどうでしたか?」
頭上からのエクトルの問いに、ふと顔を上げた羽琉は端正なエクトルの微笑を目の前に仰ぎ、その近さに驚き瞬きを繰り返した。
「私を思い出してくれたのは嬉しいのですが、ハルにはわがままを言って欲しいです。いや……わがままではないですね」
エクトルは少し体を離すと、羽琉の頬に手を添えた。
「私には本音を言ってくれると嬉しいです」
「……」
「どんなことでも良いんです。些細なことでも、くだらないと思っていることでも、ハルが感じていることを私も知りたいんです」
真っ直ぐ自分を見つめて話すエクトルの真剣さを、羽琉は間近で受け止める。
「恋人に甘えられて幸せを感じこそすれ、気分を害することなどありえませんから」
人との付き合い自体苦手な羽琉に、恋人としての付き合い方を今すぐして欲しいと願うのは焦らせるだけであることをエクトルも理解している。本音を言い合える相手になるまでに時間が掛かることも。
しかしはっきりと口に出して伝えることも必要だとエクトルは思っていた。言わなくても分かるだろうは、恋愛初心者の羽琉にはハードルが高い。現に今、こうして伝えたことで羽琉は安堵の表情をしている。エクトルの言葉を羽琉も理解してくれたことが窺えた。
羽琉を抱き締める腕を少し強めると、俯いた羽琉がまた体を預けてくる。
幸せそうに目を細めるエクトルが、再び訪れた至福の時間を堪能しようと思っていたところに、廊下から配膳車のキャスターの音が聞こえてきた。
深い安堵感に浸っていたのか、その音に羽琉は気付いていなかったが、エクトルは「ランチタイムになりましたね」と残念そうに呟く。
名残惜しそうに羽琉から離れたエクトルがにっこりと微笑むと、抱き締められていた状況をやっと把握した羽琉が動揺に顔を赤らめる。
「え、あ、えっと……す、すみま……」
狼狽えつつ恥ずかしそうに謝ろうとした言葉を、羽琉の唇に人指し指を軽く押し当ててエクトルが制した。
「恋人なのだから当然です。それよりも会えて嬉しかったと言われた方が、私は嬉しいですね。でも……ハルにはまだ無理だと思うので、その表情だけで我慢しておきます」
冗談っぽく笑って言うエクトルに、自分がどんな表情をしていたのか気付かされ、羽琉の頬の熱が上がる。
「フランスまでは12時間ほど掛かるので、今日はゆっくり休んで下さい。眠れない時はいつでも連絡して下さい」
羽琉からの着信なら真夜中でも嬉々として取りそうだ。そんなことを思いながら羽琉はコクリと1つ肯く。
にっこりと微笑んだエクトルは羽琉の額にチュッと軽いキスを落とすと「では、また明日」と手を振って部屋を後にした。
しばらくして配膳のために部屋に入ってきた厨房のスタッフに「あら。顔が赤いわよ。熱があるんじゃない?」と言われるまで、羽琉は額に手を当て顔を真っ赤にして固まっていた。
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