第7話 便所サンダル

 何時間待っても、何も起こらない。


 皆で食事をしていて、倒れてしまったらしい隣の方の組は、私より後に来て、私より先に帰っていった。


 何かの障害を持った娘の母親は、娘が入院慣れしているらしく、入院のための着替えや洗面器などを既に持参して待っている。救急隊員と親しげに話をした後、入院が決まったようで、慣れた様子で手続きに向かった。


 指定された待機場所は、ちょうど時間外通用口とエレベーターとの導線の角だった。仕事を終えた明けの看護師が帰る際に距離が近くなってしまうので、一つ向こう側にずれた。


 真っ白な壁に最低限の調光で浮かび上がる、四角いアイコンの案内表示をぼやっと見つめ続けること数時間、ようやく声がかかった。身分証を提示され、私はこれこれこういう者ですと説明を受けたが、説明が早すぎるのと、私の頭が回らないのとでよくわからない。風貌から察するに、研修医だろう。


 彼は私に、カミサンの状況を説明した。脳内で少しの出血があるようだけれど、積極的に脳梗塞を疑う状態ではなく、もしかすると、今日帰ることができるかもしれないと告げた。


 私は彼の説明を信じ、一安心した。しかし翌日に、ここで子宮頸がんの診察予約をしているので、今度はその事が気になった。


 もうしばらくお待ち下さいと言って、その研修医は去って行った。



 一時間以上待っただろうか、再び声がかかった。案内されるがままに付いていくと、そこは救命救急棟の入り口だった。キャスター付きのストレッチャーに横になったカミサンは、点滴を受けながら、目を閉じている。カミサンだけ中に入り、私は病状の説明を受けることになった。


 当直の脳神経内科医がカミサンの状況を説明してくれた。検査をしたところ、脳内で脳症を発症し、若干の出血が見られ、今後もしばらくは予断を許さない状況が続くかもしれない。状況によっては容体が急変し、マヒや痺れなどの後遺症が出る可能性もある。しばらくは点滴をして様子を見ながら対応していく。休み明けにまた状況を説明するので、時間を決めて欲しい、と言われ、来週の火曜日に予約をした。


 明日、子宮頸がんの検診を予約している事も告げたところ、それは臨機応変に対応しますから、との説明を受けた。総合病院に運んでもらって、本当に良かったなと思った。


 私はこの時点でも、あまり状況が掴めていなかった。ただただ、明日の子宮頸がんの診察の予約が気になって仕方なかった。でも、実際にはもっと状況は悪かった。


 ドクターの説明を受けた後、看護師さんからは事務的な事柄の説明を受けた。コロナで面会はできず、救命救急棟のために洗濯物を届ける時間も数時間しかなく、荷物は最低限にとのことだった。


 時計を見ると11時半を過ぎていた。この病院は駅に隣接しており、もしかすると電車で帰ることができるかもしれない。終電は12時7分。大丈夫だろう。


 作業着に便所サンダル、カミサンのバッグと自分のカバンを持ち、さらに、看護師から渡されたビニール袋に入ったカミサンの服を手にした私は、急ぎ足で駅に向かった。


 

 

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