第25話

 美術室に足を踏み入れるや否や、俺は室内を見渡す。

 俺の行動の意図を読み取った霧島先輩が口を開く。

「柿谷淳士、柴田英二、大鳥健太と付き合っていた者はいるか?」


 教室の隅で丸くなっている女子生徒がゆっくりと手を上げる。

 俺は先輩に警護してもらいながら彼女たちの元に歩み寄り、例の物を手渡す。

「これは……?」

「あなたを大切に想う人が命を賭けて手に入れた物です」


 恋人が美術室を追い出される光景を目撃していたのだろう。

 袋の中身を視認した途端、それが何を意味するのか悟り、涙を流す。

「……もう会えないんですね?」

「残念ながら」

「うっ、ううっ……!」


「彼らの死を無駄にしないためにも逃げてください。泣くのはその後からでも遅くないはずです」

「……彼の言う通りよ。三人でここから逃げましょう」

 彼らと付き合っていた女子生徒の中に三年生がいた。自分だって悲しいはずなのに後輩たちを説得し、美術室を後にしていく。どうにか生き延びて欲しいと願うばかりだ。


「……おいおい。いつからヒーローになったんだよ。お前は感情の起伏がない、もっと冷たい人間のはずだっただろうが」

「それは今も変わってないよ」

「チッ。相変わらず気に食わねえな」


「先輩、村雨先生をお願いします」

 白衣を纏った先生は感情の読み取れない表情で腕を組んでいた。

「なるほど。。ふふっ。無事に帰還できれば忙しくなりそうだよ。君の診断にね」


 俺の肩をポンと叩き、全てを見透かした目で視線を送ってくる村雨先生。

 白銀の髪が憎たらしいほど美しい。

 とはいえ、過去との決別か……。

 相変わらず他人の心にズカズカと踏み込んでくる。


 村雨先生を連れて美術室を後にしようとする霧島先輩だが、

「おいおい。どこに行く気だよ霧島」

 兄の取り巻きである一人が先輩に歩み寄ろうとする。


「それ以上近づくな東堂」

「あアん?」

「そこから1㎝でも動いでみろ。二度と上がらない肩にするぞ」


「女のくせに調子乗ってんじゃねえぞ。剣道で優勝したぐらいで――」

 東堂が先輩の忠告を無視して近付こうとした次の瞬間だった。

 ――バキッ、バゴォッ!


 それは耳に入れるだけでも激痛が走る音だった。

 霧島先輩が目にも留まらぬ速度で放ったのはハヤブサ斬り。

 両肩の骨を木刀で砕いた先輩は目と鼻から汁を垂らす東堂を見下しながら、


「それ以上近付くなと警告したはずだぞ――外道!」

「ひっ、ひぃっ……!」

 すたすたと後ずさる東堂。あまりの激痛に言葉さえ出ない様子だった。


 先輩の鬼気迫る空気に完全に恐れていた。

 あれだけのことをしておいて肩が潰れた程度で済んだんだ。恐れおののくのではなく、感謝すべきだろう。本当なら殺されていてもおかしくない。


「傑!俺の肩が……俺の肩がぁっ!」

 仇を取ってくれ。そんな目で乞う東堂。

 やれやれ。この後に及んでまだ兄のことを仲間だと思っているのか。


 断言しておくが兄はお前のことを感染者をまくための餌としか考えていないと思うぞ。

 どうしてわかるかって?

 俺があいつの弟だからだよ。


「彩綾……まさか俺じゃなく瑛太の側に付くとはな。どうだ?もしよかったら俺と――」

「――断る」

「なに?」

「ただでさえ外は化け物で溢れている。にも拘らずプライベートまで人外と過ごすつもりはない。貴様はここで本物に破れて散れ」


 本物を兄がどう捉えたかはわからない。

 だが少なくとも霧島先輩の挑発に気分を害したのは間違いないだろう。

 兄は取り巻きに先輩を襲うよう指示を送り、下衆の笑みを浮かべていた。


 この後に及んでまだ他人に命令することしかできないのか。

 俺は兄にうんざりしながら襲いかかる彼らに割って入る。

 もちろん今回は容赦しない。バールも使用した上で制圧する。


 ――バキッ、ゴキャッ、ゴンッ‼︎


 腕に太もも、肩に頭など、死なない程度には加減したつもりだ。

 まあ穴という穴から汁を漏らす彼らを見ればそれなりには痛かったんだろう。

「どういうことだよ……なんでこいつ……こんなに強いんだよ!」


 俺を虐げてきた一人、三井祐介が声を枯らしながら言う。

「まあ最後なんで打ち明けますけど……実は俺、ずっと先輩方にやられたふりをしてました――さーせん」

 気だるけに言う俺に霧島先輩は口の端を持ち上げながらその場を後にする。


「合流地点でまた会おう秋葉。再会を楽しみにしているよ」

「了解です。村雨先生と瀬奈をよろしくお願いします」

「ああ。任せておけ」


 ☆


 いつからだろうか。兄のことを哀れに思い始めたのは。

 今でこそ俺たちの仲は壊滅的だが、何も最初から破綻していたわけじゃない。

 俺たちにも仲の良い兄弟と呼べる時期はある。


 というよりも俺は兄のことを尊敬し、慕っていたのだから。

 秋葉傑という人間は家族の贔屓目を抜きに優れた人間だ。

 とにかく何をやられても上手い。異常なまでの上達力。順応力もズバ抜けていた。


 明るい性格で常にクラスの人気者。口も頭も良く回る。

 読書も好き、運動も好き、何に対して前向き。

 そんな彼の周囲には老若男女問わず人が集まった。いや、集まらないわけがない。

 一方、俺は幼少期から捻くれていた。他人と話すのが嫌いだった。仲を深める努力というものをしたことがなかった。


 友だちは誰か?という質問には好きな本の名前を口にしていたほどだ。

 今思い返してみても、大丈夫かと心配されるような子どもだった。いや、今もそうかもしれない。

 つまり、傑が太陽のような存在だとすれば俺は陰――月のような存在。


 正直に言えば兄を羨ましいと思ったこともある。憧れ、に近いかもしれない。いつか兄のようになりたい。けれど、なれないだろうとも思っていた。

 俺たち秋葉家は複雑な家庭だ。

 まず父。秋葉純一郎。第九十八代内閣総理大臣。現職だ。


 彼の経歴は人間を超越していた。

 小学生でありながら東京大学に合格できるほどの学力を持ち、中学生のときには二、三ヶ月の集中特訓で全国レベルにまで到達することができる運動神経、異常なまでに発達した脳は一度見聞きしたものを忘れない。


 政界の都市伝説にオンライン会議や専門委員会で八つの画面を同時に聞き分け、それぞれ的確な指示を出し、死者や傷病者を最小限にまで抑えたというものがある。

 真偽は不明だが、俺は真実だと思う。そう信じさせるだけの生き様は見てきたつもりだ。

 内閣の最高指示率は驚異の八十九%。これはありえない数字。もはや神の領域だ。


 衝撃的な事実を打ち明けると俺と傑は血の繋がった兄弟でありながら、腹違いだった。

 俺は父の愛人の子どもだ。

 これは後になって純一郎から聞かされた話だが、実母は俺を出産後、衰弱して息を引き取った。俺には実母の顔を中学生になるまで知らなかった過去がある。名を桐生真由美というらしい。

 写真を見ても感情が湧き上がってこない。ただ女性が写っていると、それ以外の感想が見当たらなかった。


 純一郎は愛人の子である俺を正妻に育てさせるという暴挙に出た。

 当時、純一郎は政界における重要な役職に就任していたこともあり、スキャンダルはあってはならなかった。

 だからこそ、愛人の子を正妻の子として育て上げることにしたわけだ。


 俺にとっての母、秋葉三葉みつばが実の母ではなく、育ての母であったことを知ったのは皮肉にも三葉から「お前が憎い」と告げられたときだった。


 三葉は愛人の子という忌み嫌うべき存在の俺にも愛情を注いでくれた。

 なにせ三葉の実子である傑は才能の塊である。

 やはり出来のいい我が子は可愛くて仕方がなかっただろう。


 一方、愛人の子はまともに友人すら作れない哀れな子ども。

 愛人を最後まで憎んでいた三葉にとって出来の悪い俺は不謹慎だろうが、彼女の優越感を満たす存在だったのだろう。今になって思えば。


 我が子に比べて、あの娘の子どもは――。

 愛人の子を育てるという異常からそうやって精神を保っていたのだろう。

 だが、幸せな家庭は長くは続かなかった。


 俺が小学六年生の頃だ。

 父、純一郎が忙しい合間を縫って学校行事のスポーツ大会に見学に来たことがある。政界の大物ということもあり、安全面の観点から体育館でバスケットボールの試合が行われた。


 これまで純一郎はずっと傑のことを可愛がっていた。

 だが俺には父親の兄を見る目にどこか失望が入り混じっているように見えた。仕方なく、やむを得ない、そんな感情が見え隠れしているようで恐かったことを思い出す。

 できれば俺の思い違いであって欲しかった。だが、結論から言って俺の勘は当たっていた。


 当時、他人と協力してスポーツをすることに何の価値も見出せなかった俺は図書室にこもって読書をしていたのだが、担任の教師に見つかってしまい強制的に試合に参加させられてしまった。もちろんやる気なし。とにかく試合時間が終わるまでボーッとしておくつもりだったが、俺は人生で最大級の失態を犯してしまう。


 兄を妬んだ上級生グループとの試合。悪質な嫌がらせを何度も受けた俺はつい本気を出してしまったのだ。それも父、純一郎が見ている前で。これまでずっと抑えていた実力を一瞬だけ解き放ったつもりだったのだが、試合終了後、俺は一人で百二十五点ものシュートを決めて勝利してしまったわけだ。


 このとき純一郎が歪んだ笑みを浮かべながら、「……見つけた」と呟いていた光景を俺が忘れることはないだろう。


 家族に不穏な空気が流れたのはこの翌日からだった。

 父はあからさまに俺に構うようになった。

 まるで兄、傑のことは最初から居なかったと言わんばかり。会話はおろか、視線すら合わせない。それはまさしく無関心。実子にここまで冷徹になれるものかと俺は幼いながらに恐怖を覚えた。


 真っ先に壊れたのは俺の育ての母、三葉だ。

 彼女は夫が愛人の子に深い愛情を注ぐ光景に自我を保つのが難しくなったのだろう。


「あんたなんか生まれてこれなければ……傑は、息子は幸せになれたんだ!あの人に選ばれてさえいれば!」


 包丁を突きつけられ、死を覚悟した。

 俺が死ぬことで三葉の望むべき現実が待っているなら――。不思議と怖くなかった。これで母と兄が幸せになれる。なぜかそういう気がしていたからだ。


 けれどそれを阻止してくれのは兄だった。

「やめて!やめてくれ母さん!瑛太は俺の、俺の大事な弟なんだ!」

 母の腕に飛びつき包丁をふるい落とそうとする兄。

 けれど神という存在は残酷だ。

 三葉は足を滑らせて彼女の胸に突き刺さってしまう。


 一命はなんとか取り止めた。

 それから兄は必死に三葉の看病をした。

 しかし長くは持たなかった。食事は喉を通らず、みるみる痩せ細っていき、うつ病の発症から言葉を発さない。すぐに認知症になった。


 やがて兄と俺のことがわからなくなってしまった。

 このときばかりは神を呪った。どうして二人一緒に忘れているんだ、と。

 俺一人でいいじゃないか。兄のことだけは最後まで覚えてあげてくれよ、と。


 やがて裁判の日は訪れる。

 延命措置をすべきかどうか。

 純一郎は即座に断った。自然の成り行きに任せると。しかし兄は必死に抗議した。

 足元に駆け寄り涙ながらに必死に訴えかける。


 今でも鮮明に覚えている。できれば思い出したくもない。

 純一郎はこれまで可愛がっていたはずの兄を蹴飛ばして、こう告げた。

「出来損ないが。瑛太がいる以上、お前に価値はない。母親離れもできないような弱い人間は秋葉家には不要だ」と。


 ――それ以降、俺と兄が笑って暮らせる日は一日たりとも訪れなかった。


 ☆


「お前さえ……お前さえいなければ俺は幸せだったんだ!返してくれよ!母さんを……父さんの愛情を返してくれよ!」


 決闘が開始してからどれだけの時間が経っただろうか。

 俺を仕留めようとしてくる兄にいまだトドメをさせずにいた。

 いつか来るであろう決別の日。俺は今日を迎えるまでずっと先延ばしにしてきた。


 俺がやられた振りをしていれば。

 俺が虐げられてさえいれば。

 少なくとも兄の優越感を満たすことができた。


 そんなことで罪滅ぼしを、報いを受けたつもりになっていた。

 感情なんて不要なもの。機械的に割り切って日々を過ごした。

 けれどそれも今日で終わりにしなければいけない。


 兄が――俺がずっと好きだった兄さんが――目も当てられない人間に落ちぶれてしまったのは弟である俺のせいだ。


 兄の意識が遠のいていく。息が荒い。よだれが出ていることに気が付いていないのだろう。犬歯がむき出しになっている。瞳孔も開いて、焦点が合っていない。

 信じられないことに兄は美術室に籠城する前、感染者に噛まれていた。


 自分が奴らの仲間になることを知っていた上で生存者と共に過ごしていたらしい。

 その事実を知ったとき、俺がやらなければいけないと、改めて思った。

 れ秋葉瑛太。俺が兄の最後を見届けるんだ。


 バールを構えた瞬間、

(いいか瑛太。お前ならできる)

 夏休み。逆上がりができなかった俺にコツを教えてくれる兄の姿。遠い記憶だ。


(瑛太をイジメるやつは俺が許さない!)

 ひねくれ者の俺が上級生五人組に嫌がらせを受けているとき、一人で立ち向かってくれた兄。ボロボロになりながら、俺のことを必死にかばってくれた。


(瑛太。俺たちでいつか母さんを幸せにしてやろう)

 母の日に一緒に貯めたお小遣いで花を送ったとき。


 かつては優しい兄。忘れきれない俺の脳にフラッシュバックする。

「うがああああっ‼︎」

 ――時間だ、秋葉。


 兄が俺を餌だと認識した刹那。

 霧島先輩の言葉が脳裏によぎる。

 気が付けば俺はバールを振り終えていた。


 過去との決別。

 村雨先生の言った通り、彼女には合流したあと、ひと仕事してもらわなければいけないようだ。心が――精神が――壊れそうだ。

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