第16話
「きゃああああああああああっー!」
霧島先輩が確認できた地点に向かう途中、女子生徒の悲鳴が上がる。
階段の踊り場だ。
感染者は一人。それも俺が背後から忍び込むことができる状況。
いずれにせよ通らなければいけない道だ。
その過程で一時的にでも救命できるなら儲けものだろう。
俺は右回りに身体を捻り、勢いよくバールで感染者の頭をブチ抜く。
血しぶきが真っ白な壁に飛び散り、感染者は階段を転がり落ちる。
「ケガはないか?」
「あっ、はい……」
俺は尻餅をついた女子生徒の全身を見定める。
スリーサイズは――なんて場違いな測定ではなく奴らに噛まれた跡や引っ掻かれた傷がないかだ。確認したところ、それらしいものはない。直視するのが躊躇われるほど綺麗で真っ白な肌をしている。
パンチラどころかパンモロしているせいで太ももの裏までよく見える。
やがて俺の視線を感じた女子生徒はスカートで前をバッと隠し恥ずかしそうに顔を染める。
この状況下で恥じらいが残っているとはな。色々と優先するものが間違っているような気もするが。
「霧島先輩を見なかったか?」
「いえ……見ていません」
……ハズレか。
「そうか。それじゃ気を付けてな」
「ちょっと待ってください!」
もしかして彼女も守って欲しいとか口走るタイプか?
生物学上、そう言いたくなる気持ちもわからないことはないが、感心はしないな。
さすがの俺もこの環境下で他人を庇うのは厳しい。
早いところチームを組まなければ人命救助の余裕すらないわけだ。
「……なんだ?」
「私を図書室まで連れて行っていただけないでしょうか」
「理由は?」
「妹と逃げている途中、逸れてしまったんです」
「なるほどな」
恒例のシンキングタイムだが結論から言って答えはナシよりのナシだ。
なぜなら彼女の妹はすでに奴らの餌になっている可能性が高いからだ。
二手に別れなければいけなかったというのはそれなりの事態が発生したということ。
姉がこうして無事なのは奇跡と言っていいだろう。
なによりもしも妹が感染者となって彼女の前に現れた場合。
精神を崩壊させる可能性がある。
大声で騒ぎ立てたり、泣き叫ばれてはたまらない。
だが、だがである。
姉妹の絆などという曖昧で抽象的なものになぜか感じるものがあった俺は彼女の目から視線を剥がすことができなかった。強い眼差しだ。
俺は知っている。この目を。この目を向ける人間の想いを。
冷徹、冷酷に徹しきれなかった俺は条件付きで彼女を引き連れることを考え始めていた。
だからこんなことを口走ってしまう。
「考えられることをいくつか最初に伝えておく」
「聞かせてください」
「妹はもうこの世にいない可能性が高い」
「……はい」
唇を噛み締めながら頷く女子生徒。感じるものがあれど取り乱すまいと我慢しているのが見て取れる。高評価だ。理性は働いていると見ていい。同行の第一条件はクリアと言ったところか。
「次に俺が他人を庇いきれるとは限らない。二、三人程度なら守ってやれるが、それ以上は断言できない。場合によってはお前を餌にして奴らを巻くかもしれない。利用されるかもしれないってことだ」
「構いません」
ほう。即答か。きっと仲が良くて信頼できる姉妹だったんだろう。眩しいな。
彼女はまっすぐと俺の目を見据えながら告げてくる。
「覚悟はできています――と言い切ってしまうのは嘘になりますが、それでも逸れてしまった場所に戻りたいんです。私には妹の最後を看取る義務があります」
「……感染者の仲間になっていたとしてもか?」
「はい」
彼女の瞳の中に偽りはなさそうだった。これでも俺は政治家の息子だ。人を見る目にはそれなりの自負がある。
図書室まで連れていけという真意は本当に妹に会いたい一心だろう。それが彼女の知っている妹とは違う姿だったとしても。
「分かった。全力は尽くそう。ただしどうしようもない状況になったら見捨てられる覚悟もしておくことだ。それが必須条件になる」
「かしこまりました。そのときは自分の運命を受け入れる所存です」
彼女のそれは決して誇張ではなく本気で言っているように感じられた。
もしかしたら妹と逸れる際に何かがあったのだろう。
「二年生の秋葉瑛太だ。短い間かもしれないがよろしく頼む」
俺は倒れた女子生徒に手を差し伸べる。手を掴んで起き上がった彼女の名は、
「
秋野幸。彼女との出会いが霧島先輩との再会を握る鍵であり、
――俺が一生涯忘れることのない少女になった。
☆
「瀬奈聞こえるか?」
『……』
「瀬奈?瀬奈っ!」
『聞こえているわよ』
反応速度がイマイチだった瀬奈を心配していると、なぜか不機嫌になっていた。
心なしか声音に棘が入っているような気がする。
思い当たる節は――まああるわな。というかそれしかないわ。自分でも引くぐらい人使いが荒いんだから。
「怒っている……よな?」
『別に』
怒ってんじゃねえか。いつの舞台あいさつだよ。
「寄り道をしたい」
『どうぞお好きに』
やべえ。どうやら本格的にお怒りでいらっしゃる。
たしかに瀬奈はヒヤヒヤしっぱなしだろう。
俺は目の前のことに集中しているからいいが、彼女は音や監視カメラの一部、場合によっては何も分からない中で応答を待っているわけだ。
むしろ瀬奈の方がストレスが溜まっていても不思議じゃない。というより当然か。
「あの……秋葉さん?さっきから独り言でしょうか?どちらかと言えばどなたかに話しかけているように見えるんですが」
秋野は俺の一歩退いたところで首を傾げながら聞いてくる。
そりゃ気になるか。曲がりなりにも協力を求めた相手が一人でぶつぶつぶつぶつ。頭のおかしいやつだと思われても仕方がないわけで。
だが人間というのは
俺はこの質問が瀬奈に聞こえているであろう環境を利用して感謝の意を伝えることにした。
「あっ、ああ……。実は遠隔地から色々と調べてくれる
「オペレート、ということでしょうか」
「そうだ。俺が信頼できる数少ない協力者だ」
我ながら人たらしだな、と思う。あからさまかな、とも。
しかし本音であることには変わらないわけで。感謝や愛というのは言葉にしなければ伝わらないものだ。露骨だとしても伝えない手はない。
『
「頼むよ瀬奈。俺とお前の仲だろ」
なんて言っているが、口から出まかせだ。俺はどちらかと言えば隠している爪を暴こうとしてくる瀬奈と霧島先輩、そして村雨先生から距離を取ろうとしていたぐらいだ。都合が良いにもほどがある。
『はいはい……図書室でしょ?もう調べてあ――なによこれっ!』
突然瀬奈の声音に焦燥が入り混じる。何を見たのかは分からないが、決して良いものではないだろう。それはイヤホン越しでも感じ取るのに十分だった。
だがここで大きく事態が一変する。
「
背後から声を張り上げる秋野。ずっと探して求めていた人物に出会い、無意識に叫んでしまうそれだ。振り向く俺を追い抜かすように廊下を全力で疾走する。
「待て!止まれ秋野!」
急いで彼女の後を追いかける俺に、
『ダメよ秋葉くん!止まりなさい!』
「はあっ⁉︎」
なんと瀬奈からの
たしかに考えなしに後を追おうとした俺も思慮に欠けていただろうが、このままじゃ――!
『秋野さんが向かった先に感染者が湧いているわ。そっちには階段があるはずよ。ざっと見た感じだと十人以上はいるわよ⁉︎』
この情報を耳にした瞬間。まるで時間の流れが十分の一になったような錯覚に襲われた。
おそらく無意識に全神経を集中させていたのだろう。
この先は音楽室があるだけだ。すなわち行き止まり。鍵が開いていなければ袋の鼠になる。覚えたピッキングもそれに集中する時間がなければ施錠など不可能。
さらに階段には十人以上の感染者がいるという。どう考えても飛んで火に入る夏の虫だ。
リスクが高過ぎる。いやリスクしかない。
しかしこうしている間にもぐんぐんと秋野との距離は離れていく。後先考えずに走り出すぐらいだ。面影のある大切な人が視界に映り込んだのだろう。
柄にもなく即断しきれない俺。
やはりしょせんは人の子ということだろう。
心がないわけでも、まして神でもない。
見捨てるという判断に至れない。かといってこのまま彼女を追いかけることを是と承認しない自分もいる。今世紀史上、最も決断に悩んだことだろう。
だが気が付けば答えは見つからないまま、
「クソッ!」
俺は彼女の後を追うように走り始めていた。考えるよりも身体が勝手に動いていたわけだ。
不思議な感覚だった。頭と心で反対のことをしているんだから。
我ながら馬鹿だなとも思う。
けれど走り始めたら止まらない。
気が付けば俺たちは階段まで来てしまっていた。
秋野は女の子座りをして目を見開いていた。まるで信じられないものでも見つめるように。
「み…さき……何をしてるの美咲」
そこには変わり果てたのであろう秋野の妹が踊り場で人間を食らっていた。内臓をほじくり出し、まるでソーセージのように齧り付いている。
目も当てられない悲惨な光景。それが大切な家族が引き起こしているとなれば腰も抜かすだろう。だが、今は悲しみに暮れている場合じゃない。
瀬奈の忠告通り階段には奴らがうじゃうじゃと湧いている。上も下も悲惨だ。
秋野にとっては受け入れ難い現実だろう。だが、俺は彼女の頬を平手打ちし、
「音楽室に向かって走れ秋野!泣くのはそれからにしろ!」
腕を掴み無理矢理立たせた後、彼女の背中を押すように叱咤する。
しかも運の悪いことにバンッと教室の扉が押し倒されたかと思いきやそこから五体以上の感染者が雪崩れてきた。
おいおいおい……いよいよ引き返すのも無理じゃねえか。
俺は腰から二本のバールを引き抜き、考えるより早く感染者の息の根を止めにかかる。
せめて秋野だけでも。気が付けば俺は自分らしくないことを考えて始めていた。
☆
ゾンビを退けながら対処していくものの、やはり数の暴力に後退を余儀なくされていた。
やはり数が多過ぎる。しかも一方通行に追い込まれていくという絶対絶命。
どこで判断を誤ったか。そんな思考ばかりが脳をよぎる。
「秋野!音楽室の扉は開いていたか⁉︎」
「いえ、やはり施錠されています!」
「瀬奈、音楽室に監視カメラは――」
『あったら中の状況をとっくに伝えているわよ』
さーて、マジでやべえぞ。背後は行き止まり。正面は強行突破できないほど感染者の行進。
こうなりゃ音楽室の扉を強引にこじ開けるか?
だがそんなことをすればバリケードを張ることができなくなる。
音楽室にはピアノがある、なんとか秋野と俺二人で扉の前に運ぶことができれば多少は保つはずだ。扉を壊せば後退する距離が伸びるだけ。根本的な解決には至らない。
「痛っ……やべっ!」
バールが感染者の頭に変な入り方をしたのだろう。引き抜けない状態で無理矢理引こうとしたからか手首に痛みが走る。俺はバールが突き刺さった感染者の腹を蹴り飛ばして後退りながらスペアのバールを引き抜く。リロード終了。ストックはない。
気が付けばもう音楽室まで距離がない。それほどまでに追い詰められていたということだろう。それに今気付かされたことが何よりの証拠だ。
「ごめんなさい秋葉さん……!」
扉の前で縮こまって謝ってくる秋野。クソッ……!これ以上は……。
やはり扉を破壊して後退するしか生き延びる道は――。
バリケードさえも捨てる選択肢が頭によぎった瞬間だった。
――バキッ!ボキッ!ドゴォッ‼︎
感染者の背後から響き渡る鈍い音。
その正体に不安と恐怖を隠せない。
やがてその音はドンドンと近づき、疾走の音へと変わっていく。
気が付けば足音は床から壁に。
すかさず白い壁に注視すると
さすがの俺もこのときばかりは鳥肌を抑えられることができなかった。十七年生きてきて最大級の感動だ。
「助けが必要ならば手を差し伸べようと思うのだが、どうかな秋葉くん?」
まるでヒーローのように姿を現したのは霧島先輩だった。
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