第22話:マヌーの湖沼地帯

 


 遮蔽物のない広々とした世界

 青い空に流れる白い雲

 それらを映す美しい湖沼の水面

 無数の湖や沼に映る鏡の世界

 澄み渡る美しい湖沼の世界



 ■コークリットの視点



 目の前が広い。

 どこまでも続く青い空と白い雲が、心を和ませてくれる。

 広い理由は、ここには森がないからだ。あるのは、空の青さと雲の白さを映す湖の群れ。清々しい世界。

 そう、湖の上に俺はいる。正確には湖沼地帯か。


 俺はあの雄大な滝を何とか乗り越えて、大小さまざまな形と大きさの湖沼地帯へと差し掛かった。

 舟の上に立ってグルリと顔を回せば、見渡す限りの大湖沼地帯が広がっている。湖沼地帯は畦道に似たわずかな陸地で区切られて、水田のようにも、網の目のようにも、虫食いの葉のようにも見える。

 不思議だ。水の迷宮のようなこの湖沼地帯はどうできたんだろう?


 大きな湖から沼に入る。沼といっても泥沼ではなく透明度が高い。

 舟から手を出して水に触れると、ひやりと冷たい。舟から顔を出して覗き見れば、透明度の高い水が水底まで視線を透過する。ああ、時が止まったかのようで胸がグッとくる。

 深い沼底に揺れ動くのは、緑鮮やかな長い藻。ああ発色の美しい緑だと思う反面、揺れ動くその様子は海で亡くなった女性の長い髪の毛のようでもあり、少し不気味な感じもする。

「魚が多いな」

 沼底の藻にはたくさんの魚が泳いでいて、生態系を支えていると分かる。その魚を狙う水棲動物がいて、水棲魔獣がいるようだが……

「静かだ」

 そう、水の迷宮はとても静かだ。動くものがない。遠くで水鳥が飛ぶ音くらいだろうか。澄み切った湖沼と動くもののない止まった水面。

「明鏡止水か」

 元々は精神的な状態、澄み切った、落ち着いた心を表すものだが、そう表現したい景色が広がっている。

「明鏡止水」 俺は鈍い痛みを放つ胸をおさえた「そうありたいな」

 俺はため息をついた。

 今の俺には無理かもしれない。

 静かな湖畔を眺めていると昨日のことを思い出す。

 子供たちのことを。

 森の中で、子供たちの亡骸を見つけたのは昨日のことだ。五人。そう、五人の子供たちの亡骸を見つけた。エマの他、草葉に埋もれ帰らぬ姿となった子供たちと、今にも消えてなくなりそうな子供たちのこころに触れた。


 悲しかった。

 助けて上げたかった。

 親元へ、元気な姿で連れて帰りたかった。なぜ、年端もいかぬ子供たちが犠牲にならねばいけなかったのか……

 だが子供たちの霊が澄み切っていたことだけが、せめてもの救いだった。


 そう、霊の状態によって『 魂 』の行き先が分かるから。

 人は亡くなると、生命力の根源たる魂は生前の行いによって善良な魂の世界『 清冥界 』に昇天するか、穢れた邪な魂の世界『 腐冥界 』へ堕ちる。

 清冥界は天国であり、腐冥界は地獄だ。

 子供たちの霊に触れた時、その澄んだ清らかさによって皆の魂が清冥界へと昇ったことを感じた。


 一方で、心であり魔法力の根源たる『 霊 』は多くの場合、霧散し儚く消えて行くが、時に想いの強さから形を留め、そこに縛られることがある。

 今回のように。

 肉体という器があってこそ心たる霊は自由に動き回れる。エマが「動けない」と言ったのはそういうことであり、聖職者はそれを地縛霊と言う。


 俺は亡骸を集めて、引き返した。親の元へ連れ帰るため。

 親にとっては……つらいことだ。無事を信じ、祈る親には……

 でも、安否が分からないまま、行方不明だということの方がつらいだろう。いつまでも前を向けない。前へ進めない。

 何よりも、子供たちだ。子供たちは自らの霊を世界に留めるほどの強い想いがあった。強い想いが。

 それは父母への想い。

 父母に会いたいという想い。

 その想いを叶えずにはいられなかった……

「はあ」

 エマの両親の元に亡骸を届けた際、両親は泣き崩れた。当然だ。

 胸が痛かった。エマを助けてやれず。

 情けなかった。不甲斐なかった。

 叱って欲しかった。責めて欲しかった。

 でも両親は、そんな情けない俺を責めもせず、感謝してくれた。


 夜が明けた今日、ラーディン領の騎士と兵士の一団が滝の周辺をさらに捜索することとなった。

 俺も捜索したかったが、子供たちを操った青い砂はさらに上流から来ていることは、魚や貝類の調査で分かっていたため、そちらの捜査に専念すべきだと判断した。

 これ以上、被害者を出さないため。

 この先の調査は俺にしかできないからだ。

「必ず、突き止めるんだ。前を向け、前に進め」

 決意を新たにすると、これからの調査の方向性を考えた。

 どうやって調査するか? まずこの湖沼地帯は広大過ぎる。一つ一つの湖沼を一人で調べていたら何年かかかるか……

「もし湖沼地帯の上流から青砂が流れてくるんだったら、湖沼地帯の調査が徒労に終わるな。上流から調査するか」

 そう上流。人跡未踏のリートシュタイン山系の方まで行かないとは思うが、ここよりもさらに上流に行くのではないだろうか。

「待てよ。上流ってどこだ?」

 見渡す限りの大湖沼地帯だ。どのぐらい広いんだろうか? どこから流れてきて、これほどの湖沼地帯を形成しているんだ?

 千里眼で上空から眺めよう。

「『 千里眼 』」

 出現した千里眼は俺を中心に見下ろしながら、グングンと高度を上げて行く。俺が芥子粒のように小さくなっていくと、おおおっ!


「何だって!?」

 何てこった! 途轍もない広さの湖沼地帯だ!

 上空から眺めると、もう見渡す限りに湖と沼が広がっていて! こんなに広いとは予想外だ! おそらく東西南北に五十キロ以上は広がっているだろう! 端が霞んで見える。

 と、千里眼が巨大な湖を泳ぐ魔物の姿を捕らえた。蛇に似た巨大な竜のシルエットだ。海竜ならぬ湖竜か。そのような影がそこかしこの湖に見える。

「あれ!?」

 俺はハッとした。さらに高度を上げて眺めると、湖沼地帯は周囲をはるか壮大な森の海原に囲われているようだが……

 あれ!?

 その湖沼地帯には無数の川が流れ込んでいる! あれ? 大小凄い数だぞ!? ぐるりと回りながら、ざっと数えると……

 千くらいないか!?

「マッ、マズイぞ!?」

 俺はハラハラし始めた。

 この湖沼地帯は、周囲から流れてくるあの無数の川によって出来ているんだ!

 青砂はあれのどこかから流れてきているのか!? 流れ込む川の一本一本を調査する必要があるということか!? 一人で!?

 一人で!?

「いや、待てよ。やはり湖の中に問題があるとしたら、どれだけ川を調べても徒労に終わるぞ。川と湖、どちらも調べないといけない!」

 マジか!? どう考えても人海戦術が必要じゃないか!

 ヤバイ! ヤバイッ! 一人じゃヤバイ! 思わず呼吸がっ!

「はっ、はっ、はっ」

 呼吸がっ! 心臓が早鐘のようにっ! でも背筋は嫌な汗で冷たく!

 バクバクと激しさを増す心臓を手でおさえるも、手にまで嫌な汗が!

 お、落ち着けっ! 深呼吸だ。まずは冷静になれ!

「すううーーー、はああーーー!」

 沼独特の湿り気を帯びた空気のおかげか、何度も吸い込み吐き出すと、不思議と早く気が落ち着いた。

 その落ち着いた心に一つの言葉が思い出される。


『お前は孤立無援だ』


「くっ!」

 一人でできると思っていた!

 大丈夫だと!

 俺ならできると!

 平民から初めて聖戦士になった俺なら、と!


 自惚れていたのか!?

 心のどこかで自惚れて!


「このような事態は予想できていたハズだ。それでも俺は神殿騎士になりたかったんだろ!?」

 そうだ。俺はそれでも神殿騎士になりたかった!

 神殿騎士になって、誰かを助けたかった!

「落ち着け、頭を切り替えろ」 俺はさらに何度も深呼吸して頭と心を切り替える「まずは湖を調査するか、流れ込む川を調査するか、どちらが先か決めよう」

 そう、どちらを先にするか。

 青砂は魚貝類を解剖する方法なら、霊従者でも黙視で調査可能だ。一方、探索圏魔法は俺しか使えない。人海戦術が必要なら、霊従者を活用しない手はない。とすると川の調査がいいだろう。湖の調査には舟が必要だが人数分はないから、必然的に川を先にした方が効率はいい。結果、川に原因があればその川を遡ることができるし、川に原因がなければこの湖沼地帯のどこかに問題があることが分かる。

 そうだ、地道に! 俺にはそれしかない!

「よし、湖沼に流れ込む川から先に調査しよう」

 まずは東側の湖沼の端の川から行ってみるか。俺は霊従者に舟を漕がせた。



 ◇◇◇◇◇



 東の岸辺へ向かう俺。

 そんな俺を珍しい獲物だと思ったのか、幾度となく水棲魔獣や昆虫獣が襲ってきた。やはり生態系を支える魚貝類が溢れている分、魔獣も結構な数がいるようだ。

 おそらく、この水棲魔獣たちも解剖すれば青い砂が出てくるんじゃないだろうか?

 だとすると人間や鳥、子豚との違いはなんだ?

 何の違いがある?

 まあその点は、仮説が一つあってラーディン領の実験室に残してきた霊従者に実験させている。分離するのに非常霊力を使ってしまったが、対価はあるハズだ。

「よし、着いたな」

 そう湖沼地帯の最も東の岸辺に到着した。

 岸辺にはとんがり頭の針葉樹とふわりと広がる広葉樹が競うように生えて、見事に調和しながらどこまでも続く岸辺を彩っている。さあ、一本目の川はどこだ?

 岸辺と並行して舟を進める。

 と、先の方に森から流れ込む川を発見!

「よし、あの川に接岸だ」

 岸辺に舟の舳先を乗り上げて固定する。よし、上陸。半日ぶりの大地だ。

「ふむ、なかなか豊かな川だな」

 川幅は十五メートル、水深は一メートルといったところか。水質はとても綺麗で透明度が高いのは森が永い年月濾過したからだろうな。

 さて千本近くある川を最も効率よく探る方法は、霊従者を一つ一つの川に派遣して同時に調べることだろうが、予想だにしない問題や課題が出てくる可能性がある。まずはこの川でどのような課題が出てくるか、さらにどのくらいの時間がかかるかなど、実験だ。

「これより、川の貝類調査を開始する」

 霊従者の一体を川へ入らせようとしてふと考える。

 湖沼に近すぎるとマズイか。湖沼から移動した貝類の可能性もある。二百メートルほど遡ろう。

「よし、ここでいいだろう」

 霊従者に川へと入らせ、貝類を探させる。川底は泥砂底のようで、霊従者が歩くとモウモウと砂が舞い上がる。ううむ、探しにくいか? おっ? 砂底に手のひらサイズの巻き貝が出てきたぞ。うわ、触角とかワシャワシャしてるし、デカすぎて気持ち悪いな。おおデカイ二枚貝も砂底から出てきた。半径二メートルくらいの範囲で七つの貝類が採取できた。

「念のためもう少し奥へ行くか」

 サンプルの貝類は二十くらいにしよう。そしてもう少し奥の地点からも貝類の他に魚も獲るか。

 とその時。

 ユラリ。

 湖の方からこちらに向かって、何かがやってくることに気がついた。

 俺は索霊域を張ってるから、見えない水の中でも何かが侵入したと分かる。大きな霊力反応だ。霊力は体の内に満遍なく広がるゆえ、索霊域に入り込んだ生物の形がハッキリ分かる。

 亀だ。ワニに似た細長い亀。

 頭から尾まで全長五メートル、厚みはワニ並み。甲羅からは刃物に似た突起が生え、顔は亀だが肉食獣の牙、甲羅以外の皮膚には竜の鱗!

 肉食のファングタートル! 川底の砂か霊従者の動きを感じて狩りに来たな。

 俺は川岸でしゃがむと、左手を水面に向けてかざした。

「『 波動掌 』」

 魔法陣が出現。ゴバッ! という水のくぐもった音がすると同時に水面が一メートルほど盛り上がる。盛り上がった水の勢いで泥砂が川面を全て覆う。この魔法は衝撃波を発生させる聖魔法で、敵を気絶させるのに効率がいいので、俺は好んでよく使っている。

 と、腹側を浮かせたファングタートルがプカーッと浮いて来た。

「魔獣が多い。調査に支障がでるな」

 霊従者一体で一本の川を担当させようとしたが、駄目だ。分担が必要になるな。こんなところだ。


 ①貝類採取、

 ②見張り兼護衛、

 ③解剖調査、


 分担が必要なら、一本の川を皆で一気に調査するか。はじめは一体で一本を担当し、並列に複数の川を調査しようとしていたが。うん、全員で一本を一気に、がいいな。

 さあではさっそく霊従者が採取した貝類を早速解剖しよう。二十個あるから広い作業スペースが必要だ。

「作業スペース。解剖台をどうする?」

 そう台、テーブル。ずっと大河一本をさかのぼるだけだと思っていたから舟の上でいいと思っていた。

 何か台になりそうなものはないか? 周囲を見回すが何もない。当たり前だ、人外の地なんだから。いきなりつまずいてしまった。次来るときは持ってくるとして、今回はどうする? 地べたでやるか?

 と、川岸の草地に巨大な岩が突き出ている。

「この岩を切って、テーブルにするか」

 俺の背丈くらいある大きな岩だ。とりあえず立ったままやるなら、高さはヘソより上くらいだな。目星をつけたあと、剣を引き抜き左手を刀身に添え魔法を使う。

「聖剣技『 波斬なみきりの太刀 』」

 左手に魔方陣が出ると、すぐに刀身に魔法の輝きが。

 これは波動掌の魔法と剣技を融合させた魔法剣で、刀身に高周波の振動を纏わせることで斬撃の鋭さを増す技だ。

 俺は腰の高さに構えた剣を左から右へ振り抜き一閃した。

 スヒュンッ!

 岩を斬っているはずなのに、剣は何の抵抗もなく岩の中を通過する。熱したナイフをバターに刺した感触だ。振り抜くと岩の横面にくっきりと一線が入る。俺はさらに線から上を縦横斜めにざく切りにしたあと「『 波動掌 』」と手を当て岩を炸裂させる。よし、跡には鏡面のように美しい岩の台ができた。

「解剖開始」

 霊従者二体に解剖させる。四体出すと霊力の消耗も、脳内の処理負担も大きいので二体だけだ。

 俺と霊従者は巻き貝を壊し、中身を取り出し、内臓を開いて砂粒を掻き出す。大きいからやり易い。一人あたり七個。一個十分程度で、約一時間ほどで解剖が終わった。

「霊従者と俺の目視では、青い砂粒は存在しない」

 念のため、この極小範囲で探索圏の魔法を使う。一メートルくらいだから霊力はそれほど使わないですむのは助かったな。昨日のように川幅いっぱいまで探索圏の魔法を広げていたら消耗が激しいからな。このことは良い誤算かな? 探索圏の結果、探索圏の最大感度でも青い砂粒はなかった。

「この川は無関係だ。次の川へ行こう」

 と、川を渡ろうとして、ふと立ち止まる。どう渡る? 深さは一メートルあるが、濡れたくない。この先、まだまだ長いからだ。

「舟を使って移動か、霊従者に肩車か」

 折角舟を岸に上げたから、肩車か? しかしバランスを崩すとドボンと行くか? ああ、樹を切って橋にするか。近くにある針葉樹を見上げると幹から四方八方に伸びた枝が邪魔で落とすのに時間がかかると気づく。仕方ないので、やはり舟を出すことにした。

「次の川への移動も大変だな」

 地味に時間がかかる。岸辺付近は浅瀬もあって、岸に横付けできない場所もある。おいおい結局、霊従者におんぶされて岸辺に到着なのでかっこ悪いな。一本目の川の調査完了から次の川に着くのに一時間くらいかかった。

「予想外のところで、地味に時間を食うな」


 移動に三十分~一時間。

 貝類採取と拠点準備に三十分。

 貝類解剖に一時間。


 一本の川にかかる時間は二~三時間か。天候や魔獣の襲撃でどうなるか。朝昼晩と飯を作る必要もあるし、日が出ているうちに野営準備も必要だから、朝八時~夕方四時までの八時間が調査に割ける時間だ。

とすると、一日三~四本が限度だろう。

 一日四本の川を調査できたとして、千本の川を調査するのに要する時間は……


「二百五十日……約八ヶ月」


 俺は天を仰いだ。


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