221、外伝 地獄の釜よりなお赫く/Ⅵ

 人の命はあっけないと知ったつもりではあったけど、このときほど『だけ』なのだと思い知らされた瞬間はない。


「――――ッ!」


 ニーカが飛び出すのではないかと心配したのはモーリッツだった。動きを止め一点を凝視する少女の肩に手を置くと、真っ赤に腫らした目元を認め、ゆっくりと首を振った。その仕草や顔色で、相手もまた同じものを見ていたのだと知った。

 モーリッツがニーカの変化に気付くのが遅れていたら、もしかしたら飛び出していたかもしれない。ライナルトの後を追い始めた彼らだったが、口元は絶えず震えていたし、周囲を気にかける余裕など消え失せていた。

 奥歯を噛みすぎて顎が痛くなった頃、ようやく広場から抜け出すと見張りの目がなくなった。大量の汗を流すニーカの目元が赤いのは、決して暑いからだけではないのだろう。頭からつま先まで泥だらけ、無言で大粒の涙を流す少女を気の毒そうにみやるモーリッツは、手袋を外し、鞄の中からハンカチを取り出すと差し出した。未使用のそれは細やかな刺繍が入っており、布の質からも一目で高値の品だと見て取れる。無言で少年を見返すニーカに、ぐいっとハンカチを押しつけるとそっぽを向いた。

 小さく鼻を啜り、目元を押さえるニーカ。彼らのやりとりを意外そうな眼差しで見つめるライナルトに、少年は答える。


「いいんです。物には替えがあります」


 母から贈られたハンカチだからこそ綺麗にしまい込んでいただろうに、なにも言わず渡したのだ。もしニーカが万全の状態であればすぐにハンカチを返しただろうが、この時はただただ涙を拭い、目元を押さえつけていた。上体を折り曲げると大声を出さないよう肩を上下させている。おそらくこれまでに溜まった様々な感情がこみ上げているのか、落ち着くには時間がかかりそうだ。

 本来ならそっとしておくべきところだろう。しかしライナルトは容赦なかった。


「いつ人がやってくるかわからない。泣き止むなら早くしてもらえないだろうか」

「ライナルト様!」


 どちらも小声だが、モーリッツの声音には明らかな非難がある。


「お前のいいたいことはわかる……つもりだ。だが私はこの場を生き延びることを優先したい。一人のために足止めを食らっている時間はないんだ」

「おっしゃりたいことはわかります。わかりますが、それではあまりにも……」

「情がないか?」


 ライナルトの問いに、モーリッツはやや時間をかけて頷いた。少年の返答にライナルトは「そうか」と呟くと、腕を組んで頭を捻る。

 その間にも少年達のやりとりは聞こえていたのか、時間を掛けて深呼吸を繰り返したニーカが起き上がり、しゃがれた声で言った。


「時間、とらせた。……大丈夫だから、いこう」


 ライナルトとモーリッツが実地演練に赴き、もっとも収穫があったといえばニーカとの邂逅だろう。少年少女の出会いは彼らの運命を大きく左右するのだが、このときはお互い知る由もない。

 もう足を動かせないかもしれない。そんな恐怖がじわじわと全身を蝕み始めると、封じ込めていた弱気が全身に行き渡る前に拳を握りしめた。ここで帰れないなんてあるものか、絶対家に帰るのだと最後の涙を乱暴に拭っていた。


「ごめん、これは洗って返す」

「別に気にしなくていいけど……」

「私でも高いやつだってわかるよ」


 いますぐここから逃げ出したい感情と、いますぐにでも戻って生きている人を助けに行こう! そう叫びたい心がせめぎ合っている。友人を見捨てる罪悪感、自分たちに殺意を持つ者達に見つかるかもしれない不安。そんな心を直視したらいますぐ己は駄目になるだろうと、帝都で帰りを待つ家族の顔だけを思い浮かべた。

 前に進むことを決めたニーカだが、今度は肝心のライナルトが動こうとしない。モーリッツとニーカも怪訝そうにしつつ待っていると、不意に顔を上げて言ったのだ。


「連中にひと泡吹かせてみるか?」


 思いも寄らぬ一言にどちらも声を忘れた。そんな二人にライナルトは首を傾げるけれど、それはこちらの台詞である。その証拠にモーリッツが慌てふためいた。


「ラ、ララライナルト様なにをおっしゃってるんですか? ひ、ひと泡吹かせるって僕らにそんなことできるわけ……いやほんとになにを言ってるんですかっ」

「そんなにおかしな話か? 退路の目はそろそろ見えてきた。このまままっすぐ街道に出られるようなら、最後に仕返ししていってもいい。そう時間もかからないし、やるにしたって嫌がらせ程度だ」


 無論脱出は最優先だから、全滅は難しいが、と独りごちるライナルト。これに身を乗り出したのはニーカだった。


「なにをするつもりだ」


 彼女の問いに、ライナルトは自らの考えを説明し始める。その間にさらに離れた場所に移動したが、哨戒にでたモーリッツは当初の予定通り、街道に出られるはずと判断した。報告に戻ってくるとライナルトとニーカは話し合い中である。なにを話していたかはしらないが、ニーカはやたら興奮していた。涙もひっこめてライナルトに食い下がっていたのである。


「生存者がいたら連れて来ていいか」

「さっき言ってた君の友人か? 状態によるけど、普通に考えて動けない人を連れて行くのは厳しい。それに連中の気を反らせるのも一瞬だけかもしれない」

「わかってる。でもさっき見た感じ、生きているのは一人だけだった。一人だけならなんとかなるんじゃないか」

「無謀すぎる、賛成できない」


 顔を曇らせさらに付け加えた。


「運んだ後はどうする。逃げ出すことができないということは、動けないんだろう。大の大人ならともかく、追われながら人一人抱えて走るのか?」

「お前達は自分を優先してくれていい。だから助けられた人がいたら、私が残るし彼女も抱えて走る。お前たちが助けを求めてくれたらいい、それならどうだ」

「正気か? 救援を求めるにしたって何日かかるかすらわからないんだぞ。逃げ隠れるにしたってどうやって連中の目をかいくぐるんだ」

「それはあとから考える」


 ニーカは彼らが逃げること、友人の救出に全力を尽くす。ライナルト達は逃げ切ることができるのだから、助けてもらっただけの恩もここで返せる。眼差しに宿る意思は強く、だからこそライナルトには理解できなかった。


「きみは家に帰りたいんじゃなかったのか」

「帰りたいよ。言ってることがころころ変わってるのわかってる。それはいまもかわってないし、残るって言ったけど、ぶっちゃけぜんぶ強がりだ」

「ではどうして?」

「ここで見捨てていったら、あとでもっと後悔する」


 さっきまでの弱気はどこにいったのか、きっぱりと言い切った。どうやら譲るつもりはないらしく、そのあとはライナルトとモーリッツが二人がかりで説得しても折れる気配がない。最終的には「嫌がらせ」をやめるといったら、ならば自分が残って二人が逃げるための時間を稼ぐと言い切った。


「一時的にせよ二人と一人に別れて動くんだ。だったら私があいつらの気を反らすから、その隙に逃げてくれ」

「それだと救出と両方こなすのは無理だ」

「やる価値はあるよ。手持ちの道具次第だけど、あんたの話が本当なら稼げる時間も増えるはずだ」


 はは、と乾いた笑いを漏らすが強がりなのは明らかだ。それでもひとたび友を助けると決めたからには、てこでも動くつもりがないらしい。

 最終的には「ひと泡吹かせる」案は採用になったのだが、ニーカの意地に負けたライナルトがぽつりと呟いた。

 

「……私は君が復讐したいのだと思って提案したんだが、君は他の人の命を優先するんだな」


 これにニーカは首を傾げた。もしかしてライナルトは彼女のために先ほどの発言をしたのだろうか。だとしてもと己の考えを告げる


「私はひよっこだし、見捨てようとした身で偉そうなことはいえないけどさ、もしかしたら助けられるかもしれないって時に仲間の命を見捨てて帰るなんてできないよ。相手が生きてるってわかったらなおさらだ」

「……私にはよくわからないのだが、たとえ合理的でなかったとしても、部下の命を見捨てない上官を兵士は求めるんだろうか」

「いや、いま言っただろ。私はひよっこだって。現場に出てる兵士はもっと違う意見かもしれないぞ。それに合理的っていうのも場合によるし、それにいまだって私は自分が正しいとは思ってない」


 あれだけ頼もしかったライナルトが、なにを突然問い出すのだ。正しい答えなどニーカにはわからないし間違いだらけではあるが、彼はいまニーカに答えを求めている。だったら答えないわけにはいかないと照れくさそうに鼻の頭を掻いた。


「……でも、少なくとも私は、仲間や部下を見捨てるんじゃなくて助けてくれる人がいい。そういう上官がいてくれたらどんなことがあっても付いていきたいって思うよ」

「生存者を帰す。そのために逃げるのが正解だ。大多数の命を助けることが正しい判断されていてもか?」

「正しいだけじゃついていけないよ。ええと、そうだな。……だって私たちは生きてるし、感情のある人間だ。兵士だって同じだろ、守るものがあって戦うのが仕事ってだけで、そこになんの違いもありゃしないよ」

「ライナルト様、流されないでください。上に立つ者なら多くの人命を優先するのは当然です。こいつの意見は末端の人間が言ってることであって、正しくはありません。下手をしたら全員死ぬんですよ」

「わかってるってば。でも、そういうことを思うってだけだ。あんた達が間違ってるなんて一言だって言ってないだろ」

「……ああ、なるほど。理想ではなく感情についていくということかな」


 最後の方は祖父の受け売りだが、この返答にライナルトは奇妙な納得をみせた。初耳だとでも言いたげに目を丸めたのである。

 なんだか奇妙な感覚だった。これ以上は居住まいが悪くて背中を向けたのだが、いままで胸の裡に潜んでいた不安がすべて吹き飛んだのを感じていた。未来の彼女がこの時の心境を形にするのなら「若さ故の勢いもあったかもな」と語るだろう。


「こいつらだけは家に帰す。もしも失敗したとしてもみんな許してくれるさ」



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