215、外伝 地獄の釜よりなお赫く/Ⅴ
皇帝、と言葉を聞いたとき、すぐには言葉を飲み込めなかった。
「皇帝……」
驚くくらい、すんなりと胸の中に落ち着いた。普通だったら荒唐無稽なでたらめと鼻で笑ってやるけれど、ニーカは少年達が「陛下」と口にしたのを耳にしている。
「疑わないんだね」
「馬鹿にするには、あんた達は上品すぎるよ。特にモーリッツがそうだ。見るからにいいところのお坊ちゃんじゃんか」
「なんだ……」
「だから怒るなって。別にけなしたわけじゃないんだから。喧嘩するために休んでるんじゃないんだろ、私たち」
モーリッツのけんか腰に付き合っていたらいつまで経っても気が休まらない。
ぐう、とお腹を鳴らしながら言った。
「……聞きたかっただけなんだ。今回に限って知らない顔が混じったから、あんた達がいたから襲われたんじゃないかって、ちょっと思っちゃったんだよ。だからってあんた達をどうにかするってわけじゃないけど」
「もしかしてニーカは迷信深いのか?」
「くそ、わかってるよ。別にそんなんじゃないってことくらい」
「……ああ、でも、そうだな。悪いことが起こると、誰かのせいにしたくなることはあるんだろう」
奇妙にもわかったように頷くのであった。物わかりの良い振りをして同意する様は少しだけ癪に障ったが、腹が空いているからだと言いきかせた。
「……お腹が空いてるから気が立ってるだけ、気にしないでよ。……もう、あんなんじゃ全然量が足りない」
帰ったら絶対祖父や父母の手料理を食べるのだ。
どうやら腹の虫が鳴って恥ずかしいのは、精神的に余裕があるときだけらしい。不貞腐れたニーカに、ライナルトは薄ら笑いを零した。
「誰かに処分したいと思われるだけの人物だったらよかったんだろうけど、生憎、私は皇帝の子供のうちの、その他大勢の一人に過ぎないよ」
「その他大勢なのにバッヘムが付くんだ」
「母がファルクラムのいいところの人なのさ。だから他の子供とは違って、少しばかり価値が高い。……なんだ?」
「なんでもない」
自身に当たり前のように値打ちをつけるのか、と声が出かけて止めたのだ。ニーカの家族だったら、聞いたことはないけれど、人に値段を付けた途端に張り倒される運命が待っているだろう。家族からの愛情を一身に受けた少女にとって、ライナルトの価値観は衝撃だったのである。
「君は必ず家に帰すから心配しないでもいい」
「自信満々じゃん。同じ見習いのくせに」
「私だって早く帰りたいからさ。それに自分が死ぬかも、なんて前提で動くやつはいないだろう?」
しれっと言ってのけるものである。こういうところはニーカには真似できない傲慢さだが、いまはこの自信がわけもなく頼もしい。
「……皇帝陛下って、そんなにたくさん子供いたっけ」
皇帝カールを揶揄する歌はニーカも聞いたことはある。周りの人や詩歌ではとても気紛れで、そして気に入った相手ならどんな財宝だって与えてしまういたずら者。ひょうきんで女の人が大好きだけれど、反面帝国を絶対に守護する絶対の王様だ。
西で悪さをした大臣は皇帝の命令で首がぴょん、帝国を脅かした国は指先ひとつで忠実で強い騎士達が退治してしまう。……なんてどれも面白がって聞いてはいたけれど、どれも本気で聞いたことはなかった。ニーカが行けないような酒場ではもっと色々噂されているのだろうけど、ともあれ少女が知っている皇帝像なんてそんなものだ。
「お子様ってヴィルヘルミナ皇女一人でしょ、兄弟がいるなんて聞いたことない」
「国民に知らされていないだけで、私以外にもたくさんいるよ」
「……仲が悪い?」
「悪いというほど付き合いはないよ。ヴィルヘルミナだけは私たちを気にかけてるようだけど、あの子はまだ子供だから」
他人事のように話すではないか。皇族事情に興味が首をもたげてきたものの、しかしこれ以上騒ぐわけにはいかない。ライナルトも体力の消耗を危惧してか、再び眠りについたのである。どこだろうが眠るのに不都合はないといっていたから、おそらくニーカの想像以上には苦労人なのかもしれなかった。
陽が昇る前になると、いつの間にか眠りこけているところを起こされた。夢見心地で目覚めたら、すぐに全身を覆う不快感で現実に返ったから溜息もでよう。髪を洗いたい、ぼそりと呟いた少女を責める者はいなかった。
荷を簡潔に纏め、再び三人きりの行軍がはじまった。朝飯は乾いた干し肉ひとつ、歩きながら肉を噛みちぎると、固く塩気が強い肉を唾液でゆっくり戻す。
「時間を掛けてゆっくり食べるんだ。少しは空腹感も紛れる」
何度も何度も噛みながら、ときに水で喉を潤すけれど、どう足掻いても物足りなさは拭えない。途中食べられる植物の実があれば拾って歩いたけれど、それも未来が定まらない不安感を振り払うには及ばなかった。
「雨だったらどちらから太陽が昇ったかわかりにくかっただろうから、晴れてくれて助かった」
道を決めるのはモーリッツとライナルトだったが、時折ニーカもその中に加わった。陽が昇るの方角、道行きに生えている植物、時折確認できる川の水の流れから、大体の方向は判断することができたのである。
「本当は山を登り切るなり村を見つけて道を辿るのが最善手だが、僕らがそんなことをしたところで見つかって捕まるのがいいところでしょう。とにかく彼らの行動範囲外に逃れて街道に出るんです。商隊にでも会えたら道がわかるはずだ」
「今日中にここを出よう。捜索の手が広がったら私たちの手には負えなくなる」
でたらめに逃げてきたとはいえ、行軍時間を考えれば遅くとも夕方までには街道に出られるはずなのである。問題は現在の風景を鑑みると何処も彼処も植物ばかりで方角を間違えないかだけだが、空模様が晴れたことで少しは方角も定まった。
命を狙われ、そして奪い陰鬱な気分だったけれど、天運は間違いなく自分たちに向いてきている。あと少し、もう少しだけと気力を振り絞る彼らが森を抜けたとき、待っていたのは希望と無残な現実だ。
山道にさしかかり、あえて藪の中を進んだときだ。周囲を見渡したモーリッツがはっとした表情で振り返ったのである。
「ライナルト様、ここ、行きに通った道に戻ることができるかもしれません。太陽があっちだから……うん、辿れば帰ることができるかも」
彼らの運は人並みを凌駕しているようだ。モーリッツの表情が明るくなり、自然と声が大きくなった。
「道を見つけることができたのなら、夕方くらいには街道に出られます。そこで助け」
皆まで言えなかったのは、ライナルトとニーカが同時に少年を押さえつけたからである。ライナルトは頭から、ニーカは口を封じるように押さえつけて全体重をかけた。二人分の重みに負けたモーリッツが地面に倒れ込み、その拍子に頬を切ったが謝る暇はない。
しぃ、とライナルトが合図を送る一方で、ニーカがある一点を凝視している。緊張感を孕んだ眼差しはわずかに恐怖も有しており、そのためモーリッツにも一目で危険が伝わった。
「ニーカ」
「大人が四人、向こうにも二人いる。見つかったら敵わないぞ」
「近寄って来る気配はあるか」
「わからない。まだ距離はあるけど、近寄られたら見つかる」
「移動しよう。ゆっくりとだ」
視線の先に屈強な男達が固まって話をしていた。草木に埋もれる三人は、姿勢を低く低くしながら、匍匐前進の要領でゆっくりと進んでいく。下がっても彼らを隠してくれるだけの草木は足りなかった。ニーカの憂いはもし犬がいたら、という焦りだったが、幸い動物の鳴き声はしない。
一度だけ怒鳴り声が響いてきた。咄嗟に肩を慣らすニーカだが、すぐにモーリッツが「違う」と呟いたのである。
「昨日の死体が見つかったんだ、怒ってる」
なおさら見つかるわけにはいかなくなった。藪が深い方へと進んでいくのだが、男達をやり過ごした後にそっと振り返ると、先ほどまで三人が隠れていた藪の近くを通っていたのである。どうやら話に夢中になっているようだが、注意深く見られていたら草木のへこみで存在がばれていただろう。
もう引き返すことも出ない。ひたすら前を目指す三人だが、若干困ったことが起きた。
遠目に広場があったのだ。
粗末な造りのテントと野営地からして、おそらく急ごしらえのものだ。木々に埋もれる形になり巧妙に隠されていたから、普通であればかなり近寄るまで気付かなかったはずだ。三人が早い段階で知れたのは、風に乗って流れてくる鼻を突き刺す臭気のせいである。これのせいで周囲を窺った三人が広場の存在に気付けたのであった。
モーリッツとニーカが口元を押さえ、ライナルトも眉を顰めた。二人にはなんでもいいから鼻と口を覆うよう指示すると、自身も持っていたスカーフで鼻を覆い頭の後ろで結んだのである。
「なんだ、この臭い」
「……警戒されてる道沿いより、脇を突っ切ったほうが早いかもしれない。なにより草が高くて柔らかいからこのまま進んでも怪我の心配が少ない」
「ライナルト?」
私も経験が浅いからわからないが、とライナルトが独りごちるように付け足した。
「モーリッツ、方角はあってるか」
「うっ……おえ……」
「モーリッツ」
「あ、合って、ます……」
「吐くな、我慢しろ」
二人に顔を寄せて、小声で呟いた。
「広場の近くを突っ切る。もしかしたら中が見えるかも知れないが、いいか、絶対に声を上げるな。なにを見ても黙っていろ」
ニーカは大人になって後もこの時の出来事を思い返す時があるが、その時のライナルトの様子を鑑みるのだが、もしかしたらこの時、二人のどちらかが錯乱すれば置いていくつもりだったのではないだろうかと考える時がある。無理に繋ぎ止めるよりは囮として役立たせる間に離脱すれば、生存確率も少しは上がるためだ。なんとなしにモーリッツに聞いたことがあるのだが、彼の意見もやはり同じである。ただしこちらは主の判断を正としており、否を唱えるつもりはないようだった。
「私もお前も、いまこうして五体満足で揃っている。過ぎた話を起きもしなかった妄想で語るなど愚かだとは思わないか」
「大抵の人間はその起きもしなかった話をするのが好きなんだよ。非難してるわけじゃないから見逃せ石頭。……ところで本の趣味変わったか? 冒険活劇なんて十代で卒業したと思ってた」
「作者が母だ」
二十代にも達した彼らならともかく、少なくとも十代半ばの少年少女にとって、これは大変な試練だった。生きるか死ぬかの一夜はとっくに精神を摩耗させていたのである。
草木に隠れながら進んでいると、段々と臭いがひどくなった。ある箇所を通過した際にそれは判明したのだが、咄嗟に顔を背けたモーリッツは本当に懸命だったのだろう。
ニーカは駄目だった。
モーリッツのように目を背けることも、知らんぷりを通すことも難しかった。ぴくりとも動かなくなっただけ、金切り声を上げるよりは幾分ましだったのだろうが、少女には酷な話である。
広場の目的がわかった。
「ニーカ、見ないで進め」
ライナルトの忠告ももはや耳に入らない。
穴が掘られていた。
死体が積み上がっていた。
わざわざ運んできたのであろう亡骸はすべて彼らと同じ制服を身に纏っていた。
原住民の男達が両手両足を掴んで、乱暴に彼らを放り落としていく様を少女は隠れて見つめるしかなかったのである。
動けずにいるとライナルトが腕を掴み引っ張ろうとするのだが、ニーカの視線は広場に釘付けだ。それもそのはずで、積み上がった遺体のいくらかに見覚えがあったせいだ。
「あ」
死体のひとつが首を持ち上げた。
正確には死体だと思っていた生者だ。まだ若い女の子は、ニーカと同い年である。その子はついこの間まで少女と一緒に笑いあっていたはずだが、いまはひどくやつれている。
……どうして彼女がニーカに気付けたのかはわからない。
もしかしたらニーカの錯覚だったかのかもしれない。
しかしこのときの少女には、確かにお互いを認識し合った確信があった。
女の子が、友達が小さく口を開いていた。もはや思うように動かない身体を一生懸命動かして、助けを求めるべく腕を伸ばそうと肩を動かそうとした、ところで。
男たちに両手両足掴まれて、穴の向こうに落ちていった。
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