127話 彼女の研究

 二人のうち長身で細身の男性がひょいと真横へ動くと、そのすれすれの位置をモップの柄が通過し廊下の窓を突き破った。


「おお、こわいこわい」

「茶化すな馬鹿!」


 口笛を吹きそうな男性を叱ったのはその人より背が低く、何処か愛嬌のある顔立ちの人物だ。同時に扉がひとりでにピシャリと閉まり、二人は大きな息を吐くものの、背が低い方の男性がすぐに噛みついた。


「どうしてくれるんだ、お前のせいで先生に追い出された。お呼びがかかってるっていうのに……」

「馬ぁ鹿。あの女王様は俺たちがなに言ったってこうと決めたら動きはしねえよ。それよかホレ、女王様の尻ばっかみてないで、周りにも注目しろよ」

「はぁ!? 元はといえばお前のせいで……」


 にやにやと笑う細身の男性が顎で指した先には私とジェフが佇んでいる。背の低い男性がはっとなりこちらの存在に気付くと、慌て飛び出し頭を下げた。


「もももも申し訳ありません! 先生がお暇と答えましたのは間違いがありまして、急なのですが、これからとても大事な用があってとても出られる状態では――」

「あの、エルになにかあったんですか」

「な、なななにかあったなどとんでもない! 先生はいつだって皆さまのことを考え、国のお役に立つべく日々努力しておられますので! 決して、決して陛下のご命令に背くなどとは……」

「テディテディ」

「うるさいお前は黙ってろっ」

 

 男性がちょっかいをかけると、テディと呼ばれた男性が必死の形相で相手を制する。それを男性はからからと笑い、私を指さすのだ。


「よく見ろよ、この子お使いじゃあねえ。うちのセンセのお友達だぜ?」

「へあっ!?」


 どうやら誰かと勘違いしていたようで、テディさんとやらは呆然と口を開けてしまった。その隙に細い方がへらへらと笑いながら近寄ってくるのである。


「どーもどーも。いやぁお見苦しいところ見せちまってすみませんね。ご覧の通り、うちのセンセ、ちょぉーっとご機嫌斜めでして。俺らしばらく入れないんですよねぇ」

「……エルの助手さんでいらっしゃる?」

「こいつは自己紹介が遅れまして申し訳ない。おっしゃるとおり、センセの助手をつとめさせてもらってますサミュエルって言います。そっちの情けねぇツラ晒してるのはテディ」


 二人とも二十歳そこそこだろうか。どちらも以前見かけていたが、サミュエルさんとやらはねっとりとした声と不真面目そうな態度が印象的な人である。テディさんとやらはさっと顔色を青くすると、ひたすらすみません、を繰り返した。


「先生のお友達に……! ほんと、ほんとすみません。僕はなんて勘違いを……!」

「まったくだ。センセしか目に入らないからって、可愛い女の子を固っ苦しい馬面連中と間違えてどうすんだよ」

「サミュエル! お前は口を慎め! どこで聞かれてるかわかったもんじゃない」

「へいへい」


 助手二人は凸凹な印象を受けるけれど、仲は悪くないようである。

 エルに用事があることを伝えるとテディさんは困ったように頬を掻いた。


「先生が直々に許可を通していたようですから、もちろん入っていただくのは問題ないのですが。……その、ご覧になられましたように、先生はいま大変ご機嫌が……」

「ですけど、お部屋とは目と鼻の先です。エルにも聞こえているはずですし、私が入る分には問題ないのではないですか」

「えーいやその、先生の研究室は特別仕様でして、いまは外部はもちろん内部の声も聞こえないようになっていると申しますか、自ら扉を閉じてしまわれたので――」

「しばらく来んなって合図なんですわ。お通しする分には構わないですけど、俺ら一応忠告したってことは覚えておいてもらいたくてー」


 どうも彼ら、部屋への再入室は嫌なようである。

 エルのご機嫌が悪いのはわかったけれど、ここではいそうですかと帰るほどではない。


「ジェフ、悪いけれど待合室か廊下で待っててもらえますか。あ、籠はくださいな。エルに渡さないと」

「わかりました。廊下でお待ちしてますが、足元にはお気を付けください。硝子が飛び散っています」

「え、入るんですか」


 ビックリするテディさん。そりゃ入りますとも。

 籠を受け取って、扉を二回ノックする。


「エルー? 私、カレンよ。入るからね」


 扉を開けた際、テディさんがヒッと小さな声を漏らしたのは物が飛んでくると思ったからなのだろう。その予想に反して、内部から漂ってくるのはちょっと生臭い、肉の腐ったような臭いだけだった。

 奥では積まれた本に囲まれた頭部がほんの少しだけはみ出ている。見守るジェフに行ってくる、と合図して扉を閉めた。

 抵抗や帰れの言葉はない。散らかった足場を越えて、部屋の奥へと歩を進めていった。


「エル、ちょっと、なんか臭いがキツいんだけど……」

「なにしに来たの」

「もう、随分な言い様ね。エルが昨日帰ってこなかったから、こうして届けに来たってのに……」

「馬鹿。あんた、今日ここでなにがあるか知らないで来たでしょう」

「皆さん慌ててたから、忙しいだろうなとは思ったけど、なにかあったの?」


 拒絶されないとは言え、エルのご機嫌は悪いようだ。ぶっきらぼうな物言いはきつくはあるが、先ほどの怒号に比べれば可愛いものだし、なによりこれまで培われた関係が、彼女から逃げる必要はないと教えてくれていた。


「……まぁ、普通は知り得ないか」


 エルはこちらを見ようともしなかった。じっとなにかを見つめていたのだけれど、視線の先にあった物を視界に入れると、堪らず口元を覆ってしまう。


「あんま見ない方がいいわよー」


 呑気なエルの呟き。その彼女がじいっと凝視しているのは宙に浮いた、白子を巨大化したような、けれどもっと生々しい色合いの……。

 一瞬で目を背けて後ろを向いた。流石に外側はないし「中身」だけだったけれど、見ていて気持ち良いものではない。


「大丈夫。人間のは実地段階じゃないから、これは豚の……」

「わかってても見たくないのー!」


 私だって動物の解体経験があるから慣れているといえばそうだが、突然豚の脳みそが浮かんでる光景を前に吃驚しないわけがない。なによりせっかく美味しいご飯を持ってきたのに、食欲からすべて台無しではないか。

 エルは溜息を吐くけれど、どうやらそれを隠してくれるつもりはないらしい。ハンカチで口と鼻を覆い、覚悟を決めて振り返ったが……。うん、やっぱりじっくり観察したいものじゃあない。そして部屋に入ったときの生臭さの正体はこれのようだ。


「随分熱心なのね。豚の脳みそなんてなにに使うの」


 仕事だろうから、教えは期待していない。話題作り程度のつもりの質問だったが、この日のエルは違ったようで、酷くつまらなさそうな表情だが教えてくれた。

 

「脳吸いって魔法があるんだけど」

「名前だけなら聞いたことあるかも……」

「驚いた。邪法扱いだから普通じゃ取り扱われないのに、意外と勤勉なのね」


 以前シスが言っていたのだ。物騒な名前だったからなんとなく覚えていた。


「名前のままなんだけど、他人の記憶をのぞき見る魔法。いまは対象の中に残ってる強烈な記憶しか見れないけど、もしかしたら半生まで見ることができるんじゃないかって言われてて、まぁそれを実施してるとこ」

「……仕事よね?」

「そ、いけ好かない皇帝陛下サマからのね。臭いは……諦めてよ」

「あなたなりに大変だというのはわかった。それで、どうして掃除道具を投げるまでお怒りだったの?」

「秘密よ。だけど思いだしたら腹立ってきた」

「落ち着いて、いまは私だけだから。それで、その脳吸いってやつの効果は? やっぱりエルでも苦戦中なの」

「……まさか。あとは仕上げを詰めるだけ」


 しかしいくら宙に浮いて、おまけによく目をこらせば空気の箱みたいなものに入っているとはいえ、書類等おいてある机の上で脳みそを観察するのは如何なものか。こういうのは実験室とかでするものではないのか尋ねると、一言で返された。


「めんどい」


 エルの研究室だから好きにすればいいけど、この臭いの中で一緒に仕事する相手はきついだろうなぁ。食欲と吐き気の意味で。


「で、どうしてカレンがここに来たわけ。そのでっかい籠は?」


 振り向きもしないのに言い当てるのは、側面や後頭部に目でもついているのだろうか。

 エルの指摘にわざとらしく籠を掲げてみせる。脳みそなんかよりよっぽどいいやつだ、と強調してみせたのだ。


「エルのお母さんがうちに訪ねてこられて、これを渡されたの。エルに食べてもらいたかったのに昨日は帰ってこなかったから持ってきた」

「…………あ、母さんが?」


 やっとこっちを振り向いた。声から苛立ちがすっと抜け落ち、布を持ち上げて中身を確認すると、脳みそに向かって片手を振る。すると次の瞬間には脳みそが消え去り、外に面したいくつかの窓がひとりでに開いたのだ。


「換気する。お茶淹れるから一緒に食べよ」


 魔法の万能さ、更にはおじさんおばさんの偉大さを思い知らされた瞬間である。

 エルは鼻歌交じりにお湯を沸かすのだが、お茶を淹れる間に部屋中の生臭さは外へ流れ出ていった。エルは上機嫌でパンを食べるわけだが、話を聞くと昨日からなにも食べていないらしい。いくら若いとはいえ不健康ではないか、ご飯を届けて正解だった。


「普段はテディが食えっていうから食べたりもするけど、いまはちょっとそういう気分じゃないし、なにより昨日は忙しかったから」

「それってさっき言ってた呼び出しに関連して?」

「そ、今日はお偉方が何人か来てるから、皆して大忙しなわけ。だから帰るのはもう少し待ちなさい。下手すると皇女派とばったりだから、会いたくないでしょ?」

「……わかった、ありがとう。でもエルが顔を出さなくてもいいの? 助手さん方が困っていたみたいだけど」

「駄目でしょうね。だけど説明だけならテディやサミュエルでもできるから、今頃観念して口を動かしてるわよ」


 あっさり言いなさる。堂々とサボりなんて、並の人間ならお叱りどころでは済まない話だが、研究室を出る気はないようだ。 

 ご飯効果故か、助手の名前を口にしても不機嫌になる様子はない。あの二人も慣れていた様子だったし、もしかしたら日常茶飯事なのだろうか。それとなく聞いてみると、答えは是である。だがエルは悪びれるどころか、けろっと言ってのけられた。


「あいつら、特にサミュエルはわたしを怒らせる天才だからね。好きで付けた助手じゃないし、辞めてくれるなら歓迎だわ」

「助手って、エルが選んだんじゃないの?」

「違うわ。テディのやつはやたら頼み込んできたから……仕方なくだったけど、サミュエルは他の長老の推薦。嫌がらせなのはわかってたし、だから基本的にやる気ないのよ、あいつ」

「……けど、下手したら大けがするような物を投げるのはどうかと思うのよ?」


 彼らの間になにがあったかは知らないし、エルを怒らせるほどのことをしでかしたのだろうが、なにも知らない人があの光景を見たら彼女を恐れてしまう。昨日のおばさんの言葉があってつい口を挟んでしまったのだが、案の定エルの機嫌を損ねてしまった。


「わたしと助手の問題よ。職場の話なんだから、そこまで口を挟まないでよ」

「ごめん、差し出がましいのはわかってるの。だけどエルが怖い人に見られてしまうのは嫌だなって思ったから」

「気持ちはありがたいけど、怖がられた方が得なのよ。特に魔法使いってやつはね」


 一気に雰囲気が悪くなってしまった。

 エルも気苦労が多いのだろう。もっと口に気をつけるべきだったが、タイミングが悪いことに、私はもういくらか彼女に訊かねばならないことがある。

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