第105話 閑話:箱となったかつてのヒト
彼は善良なヒトだった。
――いや、たぶん、きっと、それなりに善良だった。
旅をしていたから、生きるためや付き合いでそこそこ悪いことはしたけれど、それだって犯罪にならない範疇である。旅はただただ平穏で、目的はない。泊めてもらう対価に労働を差し出しもすれば、気まぐれに滞在を決めた先で日銭を稼いだこともある。困っている人がいれば手助けをしたし、時に感謝もされていた。
彼にとっては働くより奪う方が簡単だったのに、労働を選んだ理由は単純だ。
ありがとう、と言われるのは好きだった。
そもそも彼は人が好きなのだ。出来損ないと彼を蔑むものよりは、人の方が親切にしてくれる割合が多かったのが一因だろうし、なにより敬愛する祖父が「正しくあれ」と彼を育てた。
事の始まりは、もう鮮明に思い出すことはできない。ただ、どこかで偶然知り合って、それから度々顔を合わせるようになったのがきっかけだ。
『お前が精霊と人の血を引いてるのは、別にお前の責任ではないでしょう。生まれ持った才能と可能性を妬んだ愚か者の言葉だわ』
彼女、システィーナはそう言った。言ったはずである。旅先で出会った彼女は、その頃はただの根無し草。高貴な身の生まれだったらしいが、没落して身を落としたのだとあけすけに笑い、その笑顔を彼は好いた。
『お前けっこう使えるし、しばらく一緒に動かない?』
『いいよ。だけど血が流れる仕事は嫌いだから、そうなったら僕は手伝わない。どんな相手だろうが人をだますのもお断りだ。君が働く分には邪魔しないから、そこは理解してくれよ』
『構わない。ところでその血や嘘を嫌うのは、精霊としての性質?』
『完全に嫌ってわけじゃない、祖父だけとはいえ人間の血だって流れてるからね。これは……まぁ、祖父の教えがよかったんだよ』
『そうか。だとしたら……さぞ見識のある方に育てられたのだな』
システィーナはそこに居るだけで人の目を引きつける女であった。もはやその顔立ちは彼の記録に残っていないが、生気の溢れる両眼は海よりも深い藍で、常に未来を見渡していたのだけは知っている。
あわよくばお近づきになれるかも、という下心はあったのだ。彼も年相応に若かったため、と言うべきだろうか。予想外だったのは、その場限りと思っていた彼女と、意外と長く続いた点だ。
十年は軽く一緒にいた。
彼女が国仕えになって地位が上がりだした頃、彼は大分人の生活に馴染んでいた。彼女の周りには自然と気の良い奴らが集まり、気持ちいい付き合いができたからだろう。欠点といえば戦好きな部分だろうが、そこだけはシスティーナとの約束通り中立を貫いていた。
その日は酒を目一杯飲んで、酔っ払った。
珍しくシスティーナが彼を介抱する側になり、なにか話をしたはずだ。
目覚めたらなにもなかった。
ないのだ。
なにもない。
彼の前には闇しか無かった。身体を触れば自分がそこにいるというのはわかるが、なにも見えない。手を伸ばす距離程度の自身が見えない、完全な暗闇の中に自分がいることを知ったのである。
『おい、悪ふざけが過ぎるぞ、とっとと出してくれ!』
冗談ではなかった。ふざけるにも限度があるだろうし、彼は冗談を仕掛けるも仕掛けられるも、相手が本気で嫌がることはしないし、友人達もそれは承知していたはずだ。
システィーナ含め連中の名を叫んだが、何も返事が返ってこない。
地団駄を踏み、仕方なく座り込んだ。
『ああくそ、なんだ、なんなんだよこれは。……力が上手く使えない。どうして、いままでならこんなことなかったのに』
不完全ではあるが、彼が望むのであれば遠い地へ移動することを可能にしていた。それどころか多くが羨むような数多の奇蹟を有する身だが、その力がまるで行使できない。
『こんなの、まるで遺跡…………いや、いや、まさか。そんなわけあるか。おい、おい! なあ、システィーナ、返事をしてくれ!! 僕の声くらい聞こえてるんだろ!?』
叫んだ。
とにかく叫んだ。こんな場所は知らない。常に傍にあるはずの音や光すら届かない闇はただただ恐ろしい。けれどいくら叫んでも応えてくれる声はなく、彼は仕方なく座り込んだ。呆然と、どのくらいそうしていたかは定かではない。
『そうだ、端まで歩いてみよう』
思い立つと、今度は歩き出した。なにもない場所で突っ立っているより、壁に向かって叫んだ方が可能性があるはずだ。そう思って足を動かしたが、いつまで経っても壁にぶつかることがない。それどころか、いま自分が歩いている地面は本当に地面なのかと疑い出す始末だ。いまあなたは逆さまだ、といわれたら納得するだろう。
体感時間が間違っていないのなら、一日中歩いたところで腰を下ろした。
『なんだよ、なんなんだ。ちくしょう、どこなんだよここは……』
怒りと交互にやってくる混乱に伴う錯乱状態を経て、十日ほど経ったところで呟き始めた。
『僕……僕は、シクストゥス。人間を祖父に持つ奇跡の子――と、呼ばれてた。好きなことは暖かい日の外の昼寝。好きなものは林檎。苦手なのは……ええと、色々あるけど、犬。小さい頃に噛まれてから犬だけは駄目だ』
掠れ気味の声音は、今にも消えてしまいそうな自我を保とうとしているようにも感じられる。
彼を取り巻く世界は完全な暗闇だった。頼るべきよすがは己の裡にしかなく、その点、彼が唯人でなかったのは幸いしただろう。人であればこの闇も、孤独も長くは持たない。
『色々考えたんだけど、どうして僕がこんなところにいるのかはやっぱりわからない。…………ああいや、くそ、わからないというのは嘘だ。半分は想像がつく。多分、遺跡関係だ。遺跡は精霊の力を行使するために作られた装置だから、きっとこれが関与してるのはわかる。そうじゃなきゃ僕が相手に出遅れるなんてあるもんか』
奇跡の子と崇め、同時に蔑まれたのは伊達ではない。すでに精霊を初めとした奇蹟が遠のきつつあった世界で、彼ほどの魔法の使い手はほとんどいないはずだ。彼に敵う相手なんて存在しない、近づけば感知できるはずだというのが考えだ。
『諦めないぞ。僕は絶対外に出てやるんだ。そうしたらこの国からおさらばだ。みてろよくそったれ共』
そう宣言して、それからあらゆる行動を取ったが、二ヶ月経った頃だろうか、横たわりながら目を閉じていた。
ここから出られなくなって判明したことは、そう多くない。
彼は何故か魔法が使えなくなった。いまの彼は唯の役立たずである。
歩こうと思えば歩けるが、泳いで進むことも可能だ。地面や天井といった物は存在しない。
この頃にはどのくらいの時間が経ったのか、彼自身はまるでわからずにいた。元々飲み食いせずとも生きていけるのが強みだが、生きていくのに無駄な嗜好品は彼にとって欠かせないものだ。食事が恋しい。いまは焦げ臭いシチューや甘ったるいだけの砂糖菓子でさえ泣いて喜ぶだろう。
――それだけだ。
それだけしかわからなかった。
啜り泣きがしばらく零れると、やがて、一度目に諦めた「壁」を探してみようと旅だった。
五年と二ヶ月。
捜索は徒労に終わった。「壁」にぶつかることはとうとうなかった。
もはや声も出せずに転がると、静かに目を閉じる。
八年と五ヶ月。
目覚めるなり叫んだ。頭を引っかき回し、蹲る。無意味な罵倒を羅列し繰り返したが、やがて笑い出した。
七年と二十八日。
自分の手足を確認する。まだ身体機能は十全に機能するが、ここでおかしな点に気付いた。いくら彼が精霊人だといっても、一時も弱らずに生き長らえるのは難しい。ここは彼の構成に必要な大地から尤も縁遠い場所である。
『……ここにいる限り、死ねないって事か』
嗚呼。なら、これは。
『聞こえてるのか、システィーナ……。それとも、もう僕の事なんて忘れてるか』
いい加減認めなくてはならない。この長い長い時間、嫌というほど考えてきた可能性。あの日、眠る直前まで傍に居たのは誰だったかという事実。彼が知っている限りの遺跡の用途と、そこから連想される精霊の使い方。閉じ込められてからの年月、あえて答えを避けてきたのは認めたくなかったからだが、もう自分を騙すのは限界だった。
『君が異常なまでに遺跡に拘ってたのは知ってたよ、だけどそれって、僕をこんな所に閉じ込めるためだったのか。こんな、僕の力を奪い取るような……こんなものは人が持つべきものじゃない。時間が流れるまま……共に埋もれるべきで、それが自然の摂理なんだって、何度だって教えたじゃ無いか……』
泣いても慰めてくれる優しい腕はない。彼はここで一生ひとりきりだ。
『君を、君たちを愛したから信じたのに』
六十年と少し。
久方ぶりにまともな思考を取り戻したところ、手足を動かそうとして失敗し、転んでしまった。
手首から先が溶けるようになくなってしまったのを理解したとき、彼は心底安堵した。途中、自傷行為で体を傷つけていたから、その傷みがずっと続いていたのもあったせいかもしれない。あとはぼんやりと待つだけでいい、ようやく安息が訪れると、もうずっと諦めていた死を尊んだ。
『爺さん、ごめんなぁ。結局、出来損ないで終わっちゃって……』
まだ涙が流れたのは驚きだったが、このとき彼が涙したのは祖父を想ったからではない。あるいは間違ってなかったのかもしれないが、彼は彼自身の感情がもうよくわからないのだ。自分の声とはいえ久しぶりに人の声を聞けたのが嬉しかった。
これだけ時間が経っていれば、彼をこんな風にした人間もとっくに死んでいるだろうが――。
『いやだ』
何故、と。
何度繰り返しても答えが出なかった疑問が再びあふれかえっていた。
『いやだ、なんで僕が死ななきゃならない。なんで僕が……』
こんな目に遭わなくてはならないのだ。精霊人だからまともな死すら望めないというのか。ただ珍しく生まれたからといって、力があっただけで、孤独に消えていかねばならないのか。
『いやだいやだいやだいやだ! 僕は、僕……あ、ああ、あぁああぁぁぁぁぁぁぁ……シス、システィーナ!! 嫌だ、僕をこんなところに置いて死ぬのか! 僕はまだ、君になにも伝えてないのに!!!』
絶叫が闇をつんざきながら融け呑まれ、一体と化していく。あらゆる嘆きや怒り、悲しみも闇は呑み込み続けた。
ひくひくと痙攣を繰り返しながら、ままならない手足をもがき動かし足掻く。子供のように駄々を捏ね、這う姿は芋虫のようにみっともない。かつての彼からは信じられない醜態だけれど、死の恐怖を前には知性すら勝てなかった。
『――……あ』
その瞬間、彼を駆け抜けた閃きは天啓であり、同時に地獄からの囁きでもある。
『出るんじゃなくて……死なない、ことに特化するなら……ああそうだ、力がなくたって、僕はほとんど人じゃない。長い間ここにいたんだ、ある程度は僕が溶け込んで……なら、死なないだけなら、方法があるかもしれない』
刹那、つきんと胸を走る痛みがあった。喪失しそうな何かを思い出しそうになったが、それも僅かな合間。乾いた笑いを零しながら滂沱の涙を流す。
『は、はははは……は、ひっ、あ、は、ははははははははははははははははは……』
哄笑は続く。その姿を人が見る機会があれば、さながら狂人の形相だっただろう。彼はもはやまともではいられないし、人らしさ、或いは精霊らしさなど捨てた方が楽だと知っていた。
――知ってたから、きっと耐えられない自分を知っていて、嗤ったのだ。
いくらかの時間をかけて、彼、シクストゥスの躰はゆっくりと闇に溶けた。今度は時間任せではなく、自らの意思で闇と同化をし始めた。ただそこにある闇に溶け消え、一体となる在り方は、自然を尊ぶ精霊としての生き方すら反しているが、シクストゥスに摂理を問うものはいない。
同化に至り、ただひたすらたゆたっていたある時、唐突に自分は『箱』であると至った。闇に溶けたつもりでいたが、どうやらそこに閉じられた闇であり、同時に箱であると知覚したのである。
そうなると、あとは早かった。
沼から浮き上がるような覚醒と共に周囲が騒がしくなってくる。もはや彼に肉体は存在しないが、目覚めと同化の成功を確信したのである。
気付けば己の裡に光があった。懐かしいものを見る感覚で視線を向けると外が一層騒がしくなる。面白くなって出ようとしたところで『箱』から出られないことに気付いた。
『困った、困った。これは随分長く寝ていたようだ』
あたりが静まりかえった。
『箱が欠けた。あーもしかして落ちたのかね。…………なるほど、そこの台座が崩れて、それでボクが欠けてしまったと。あっはっは、間抜けだなあ。けれどまあ、その間抜けのお陰でこうして外を……外を見るのは何年ぶりになるのだろう。いや、大分様変わりしたようだってのはわかるよ』
下、で人が喋っている。混乱状態であったが、彼の名前を呼んだようだ。
「箱に閉じられた偉大なる魔法使い、シクストゥス。まさか本当に実在したとは……」
なんと悪趣味な名前だろうか。笑ってやろうとしたところで、名を呼んだ男の影に懐かしい人間の気配を感じた。
――システィーナだ。
黙り込んだ彼に、男は興奮気味に語りかける。
「わ、我はそなたが仕えし初代皇帝システィーナのひ孫にあたる――」
『ひ孫』
その一言を発すると、箱は七日ほど沈黙を保ったきり、なにも返さなくなった。
がっかりしていた当代皇帝であったが、ある夜、寝室に不躾な侵入者が現れた。
美しい青年であったが、どこか得体の知れない雰囲気を漂わせている。青年はなにもない中空に寝転がりながら言った。
「非常に腹立たしいが、君たちを殺せないように仕掛けを施されているようだ。どうやっても解けないのが最高に苛々するよ」
青年は非情に不満顔で言ってのけた。衛兵がその身に刃を突き立てようと、傲岸不遜な態度を改める様子はない。指を鳴らした瞬間に衛兵が塵のように消え、皇帝はようやく、目の前の青年が「シクストゥス」だと理解したのである。
青年は皇帝などまともに見ていない。唾棄すべき相手を侮蔑をもって見下していたが、いくら待っても手を出そうとはしなかった。
「ボクは君たちのことが大嫌いだが、仕方がない。……箱が壊れるまでは協力してやるから、私に地位を寄越せ。ひとまず金と食べ物と、人を自由に使えるだけの権力だ」
「そ、其方、システィーナの血筋である我に忠誠を……」
「あいつらがボクになにをしたか、私から教えてやろうか? ……いや、やっぱりだめだ胸くそ悪くなる。とにかく、なにが忠誠だ反吐が出る。次そんなことを言ったら、君の愛人の頭をねじ切るぞ」
後にも先にも、皇帝の寝所で堂々と唾を吐き捨てたのはシクストゥスのみである。
「君たちは私に酷いことをしたんだよ。その詫びにもなりはしないし、ボクは一生君たちを許さないが、この先うまくやっていきたいだろ? 見返りくらいは寄越しなよ。それが利用し利用される間柄の礼儀ってもんだ」
その声に、かつてここに閉じ込められたはずの「僕」の面影は僅かしか残っていない。
こうして始まった皇族とシクストゥスの関係は、いまもなお続いている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます