第95話 どうか気付かないでくれ
「でしたら、皆の意識が変わっていくようになったらいいですね」
「変わる、ですか」
「ライナルト様が国を治める立場になるのだから、私には予測もつかない方法で国や人々を変えて行かれるのでしょう?」
変なことをいったつもりはなかったけれど、僅かにだが驚きに目を見張った、と思う。
あ、しまった言い忘れていた。
「いけない。そうでした、皇太子になられたのですよね。おめでとうございますと伝えるのを忘れてました」
そうだ、ライナルトは皇子ではなく次期皇帝として皇太子の称号を得たのだ。遅くなった祝辞に、彼はただ頷くだけで喜ぶ形跡はない。
……あれ?
「すみません。私、なにか変なことを言ってしまいました?」
「ああ、いえ。……驚いただけですよ。それよりカレン嬢がこちらに移られる前ですが、国内に変な動きはなかったとのことですが……」
「はい。そういった動きは特には。帝国へは少しよろしくない感情もあったようですが、それはきちんと報告していたはずです」
「そちらは目を通している。少し具体的な話になるが、キルステンも貿易を考えていられるような動きをされていたが、今回の視察もそれに関連していると考えても?」
「それは、ええ。仰るとおりですが、どうして兄が……なにか気に掛かるようなことがございました?」
キルステンの名前が出てくるのは意外だった。けれどそこに嘘をつく理由もないし、頷くしかないのだけれど。
「ファルクラム内だけでは今後が不安なので、拠点を変える予定だと……。その、確かにあの件がわだかまりを作らなかったと言えば嘘になりますが、兄、いえ当主が帝国に対して含むような真似をするはずは――」
「カレン嬢」
つい口数が増えていたが、ライナルトに呼ばれてつい黙った。不安を顔にだしたつもりはなかったが、ばればれだったのだろう。苦笑気味の瞳に宥められてしまった。
「不安になる必要はない。いまのはただの確認ですし、私も彼を咎めたいわけではありませんよ」
だとしたら、なぜキルステンの名を出したのだろう。
聞き返す前にライナルトの足が止まる。
「どうやら」
「はい」
「どうやら時間切れのようだ」
彼が見つめる方向、ゆっくりとした速度で近寄ってくるのは見間違いでなければ馬車である。思っていたより早く気付かれたなという思いと、彼らの動きの速さに驚くばかりだ。近寄る馬車を見つめながら切り出していた。
「ライナルト様、怒らないで聞いてほしいことがあるのです。常々思っていたことがあるのですけれど」
もう込み入った話はできなさそうだ。この話題は次回に取っておくとして、もう一つ、個人的に重要な話をしておかねばならない。
……いや、うん。これね。いままでは特に気にしてなかったのだけど、帝都に来たからにはいい加減訂正してもらわないとなーと……。
「その……私としては違和感なく受け入れていたのですが。私はもう未婚ではないですし、初めてライナルト様とお会いしたときとは状況が違うと申しますか。帝都でまで、そのように呼ばれるのは気恥ずかしくなるというか」
ファルクラムでなら色々言い訳も効くかもしれないが、形式上は夫亡きあとも婚家に居残った未亡人かつヴェンデルの養母だし、帝都でまでカレン嬢と呼ばれ続けるのは違和感が残るだろう。
……私にとって伯の奥さんはエマ先生ただ一人なのだけれど、こればかりは体裁を取るほかない。
「ですからコンラート夫人と呼んでいただくほうが、違和感が少ないのではないかと……」
「うん? 呼び方でしたらカレンで問題ないのでは」
「えあ」
さりげなく却下しないでほしい。心情的には助かるけど、いやでも体面的にぽっと出の貴族が皇太子に名呼びされるのは、帝国の富裕層にとって面白くないはずだ。
ところが彼はこちらの不都合を考えてくれない。いつもと変わらない調子で見下ろしてくるからとんでもない。
「私にとってはその方が親しみのある響きだ。無論、いまさら呼び名が変わる程度で我々の関係に変化が生じるとは思わないが、夫人と呼ぶよりはこの方が馴染みやすい」
目の前でピタリと馬車が止まる。カーテンに覆われた扉が内から開くと、そこにはニーカさんと、そしてやや厳しめの目元を隠せないアヒムが座っていたのである。
「殿下、お迎えに上がりました。大事にするわけにはいかずこのような形になりましたが、よろしかったでしょうか」
「早いな。これまでで最速ではないか?」
「五度目ともなれば慣れもいたしましょう。それにお客様も一緒となれば、我らとて必死になります」
はぁ、とため息をはくニーカさん。私に対してはひたすら申し訳なさそうである。
「どうせ殿下が無理に付き合わせたのでしょう。……申し訳ありません、視察と言って我らに知らせもせず外に出られてしまうのです」
「あ、いいえ。私は――」
「殿下、人の目がありますのでお乗りください」
「いい時間つぶしだったのだがな」
「本当にそれどころではないのです。陛下がお呼びでございますので、急ぎお戻りくださいませ。私が先に見つけたからよかったものの、護衛官達に見つかっていたらいまごろ大騒ぎでしたよ」
おや。となれば本当に急ぎの案件だろう。
ライナルトも皇帝陛下の名を無視するわけにはいかないようで馬車に乗り込むのだが、ここで私は辞退させてもらった。
「宮廷に戻るとなればすぐに参上せねばならないでしょう? 私はここでお別れいたしますから、どうか早く戻ってください」
「ですが――」
「ニーカさん、一緒に戻っても二度手間ですよ。幸いにも護衛を連れてきてくださいましたし、帝都を散策する程度、問題なんて起こるはずもありません」
ニーカさんは悩んだようだが、それも一瞬だ。アヒムも素早く馬車から降りたのもあって、謝罪と礼を述べられたのである。ライナルトとも目が合った拍子に笑っておいた。短い散歩だったけれど、楽しかったし、なにより魔法を使っての宮廷の脱出なんて貴重な体験だった。
「お送りできずにすまないが……」
「ライナルト様も、またお会いしましょう」
「呼び立てたのはこちらだというのにすまない。この謝罪は後日改めてさせてもらう……またお会いしましょう、カレン」
「はい、また」
この程度のことなら謝罪してもらう必要もないし、散策の続きができるのならありがたいくらいなのだけれど。それより彼にカレンと呼ばれるのはちょっと気恥ずかしいものがある。去り際にニーカさんは墓地があるという区画を見ると、早口で教えてくれた。
「あちら、地下墓地入り口を過ぎて奥に進むと青い建物があります。そこの研究院にエル・クワイックが勤めていますから、必要であれば私の名を出してください。会いに行けるはずです」
「まあ、エルが? ニーカさん、それって」
「クワイックも貴女が帝都に来ているのは承知しているはずです。このような場で放り出すような形になってしまい、お詫びになるかもわかりませんが――!」
「い、いいえ。助かります、すごく! ありがとうございますっ」
彼女が現在どこに住んでいるのか気になっていたのだ。エレナさんに会ったら聞こうと考えていたから、すごく助かった。
馬車の戸が閉められ、戻りは凄まじい速さで車輪を回し去って行く。
……さて、そろそろ後ろを振り返らねばならないが。
「…………で?」
背後に佇む護衛から冷たい声が上がる。なんか以前もこんなことあったような既視感が。
うん、考えてた言い訳が全部吹っ飛んだ!
「ご、ごめんなさ、い」
「とりあえず人気の少ない方に行きましょうか?」
腕をしっかりと掴まれて、半ば引きずられるように連れて行かれる。通りを外れ、人気のない場所を……となれば必然的に墓所の方角へと向かうことになる。適当に見つけた木製の長椅子にどっかり腰掛けたアヒムは、どうしようもないくらいに苛立っている。
「……えっと。どこから説明したらいい?」
「へー、おれが納得できる説明できるんですか。考えなしに殿下と宮廷出ていったお嬢さんが。護衛のおれを放置してどっか行っちまったお人が!」
「う」
それを言われるとぐうの音も出ない。いや、あの場は逆らえそうになかっ……逆らえたな。ほんの少しでもライナルトとの外歩きが興味なかったと言えば嘘になる。
アヒムが怒るのも無理なかったし、説教は甘んじて聞き入れる。言い訳をしなかったせいか、説教は小一時間もなかったけれど、お怒りは簡単に止みそうにない。
「帰りを待ってるおれが、突然野郎とお嬢さんがいないと言われたときの気持ちがあんたにわかりますか」
「はい」
「あのニーカって人や奴さんの部下がすぐさま事態を把握したからよかったものの、あんた下手したら家ごと断絶ですよ、そこんとこ理解できてますか」
「……ライナルト様だから大丈夫かなぁと」
「ああ?」
「なんでもない」
アヒムは本当に焦ったんだろう。街を探すといったニーカさんに同乗させてもらったらしいが、彼の言うとおり下手をすればまず護衛である彼が牢屋にぶち込まれるだろう。
「騒動が起きなかったからよかったものの、よりによってお嬢さんがあんなのと行方を眩ましたなんて……どうやったって人の口は止められないのに。ああ、考えただけでもぞっとする! あんたね、前々から言ってるでしょ、人付き合いは考えてくださいよ!」
「か、考えてるつもりだけど」
「考えてたらこんな真似してないでしょうが!」
「はい」
……こうやって叱られるのは、もう何回目になるだろうか。兄さんだってここまでアヒムを怒らせていないかもしれない。がりがりと頭を掻くアヒムはしばらく落ち着きをみせなかったが、やがてじろりと睨み付けるように顔を上げていた。
「お嬢さん、この際だからはっきり聞いちまうけど、あの男のこと好きなの?」
なんとも意外な質問だった。
「あの男って、ライナルト様のこと?」
「他に誰がいるんですか」
アヒムからこんな問いをしてくるのは珍しい。答えはもちろんイエスだ。嫌いな人と並んで外を歩くほど酔狂じゃない。
そう答えたのだが、何故かアヒムはがっくりと肩を落とした。
「……そういう問いじゃないですって。いまの質問、この流れなら意味くらいわかるでしょ」
「まさか男女としてってこと」
「それ以外になにがあるのか聞きたい」
「なんで?」
「カレンって呼ばせてたじゃないですか」
「それだけ?」
「それだけ」
やたら渋い顔をしているけれど、なにがアヒムの疑問なのだろう。ライナルトと運良く縁が結ばれ親切にしてもらっているが、恋愛絡みで良くしてもらっているとは到底思えない。以前姉さんにも話したけれど、向こうが恋愛に興味なさそうだし、なにより私がそういう相手として見られるのが想像できないのだ。だから堂々と返答していたが、顰めっ面になっていたのは否めない。
「それこそあり得ない。悪評しかない私を相手にしたっていいことなんて一つもないし、皇太子が危険をおかしてどうするの。向こうだってその気はないはずよ」
ライナルトには目的があるはずで、そのためにファルクラムを落とした。まさか皇太子になることだけが夢ではないはず。そんな人が志して駆ける最中、没落国の寡婦を相手にしてどうする。
彼ならより良い相手を選ぶべきだと知っているはずで、そもそも彼に結婚願望はないはずだ。怪訝そうなアヒムに宣言した。
「私はヴェンデルが大人になるまで面倒見る役目があるのだし、そんな大それたことしでかす度胸なんてありません」
しかしここまで言ってのけたというのに、アヒムは半信半疑である。怒りはとっくに消え失せていたようだが、不思議そうに腕を組んでいたのである。
「ねえ、嘘なんてついてるつもりはないけど、そこまで信用ないの?」
「あー……いや、本心なのはこれでもかっていうほど伝わりましたよ。ただ――」
「ただ?」
私の顔を数秒見つめるアヒム。なるほどなぁ、と自分一人で納得して空を仰ぐ。
「お嬢さんは難儀だなぁって。いや、おれはいいんです、その方が助かる」
「……難儀な道を進んでるのは今更じゃない」
「そういうわけじゃ……いえ、そうですね」
疑問は解決したようで、今後はアヒムを置いていかないという約束を取り付けられたことで、この件については終息した。アヒムはニーカさんの話を覚えていたようで、長椅子から見える建物群を顎で指したのである。
「で、行くんです?」
「アヒムが許してくれるなら行きたい」
「おれは構いませんよ。今日はお嬢さんのために時間を使うって決めてましたしね。どこへなりとも行きますとも。そんな健気なおれをお嬢さんは置いていったわけですが!」
「それはごめんって。……青い建物だっけ」
通りがてら、地下墓所の入り口を見ることができた。木製の二枚扉に女性の絵画が彫られているのだが、おそらくモチーフとなっているのはオルレンドル初代皇帝のはずである。想像していたような陰鬱な雰囲気はなく、あたりは草木に囲まれ厳かな雰囲気が一帯に漂っていた。
「待ってる間は暇だから色々話を聞いてたんですけどね」
アヒムはちゃっかり噂を仕入れていたらしい。その話はライナルトが皇太子となった経緯だったのだが、これが想像を上回って奇怪であった。
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