第74話 犠牲なくして

 私も今はライナルトの出方待ちだ。黙っていても焦燥を隠せない兄さんの肩にそっとふれ、兄さんと姉さんに話しかけた。


「いまは結論を急いてもしょうがないと思うの。とにかく兄さんも姉さんも一旦休んで、眠れなくても目を瞑るだけで違うから」

「カレン、こんなときに悠長に休んでいる場合では……」

「こんなときだから休むの。だってもしかしたら、これからはやすむ暇もないかもしれないし、姉さんにとっては兄さんだけが頼りなのだから体力を温存しておかないと。……それに、二人には嫌でも声がかかるはずでしょう?」


 姉さんは直系王族の子を宿す唯一の側室で、兄さんは摂政候補なのだから。そう告げる兄さんは納得してくれたが、姉さんは俯き加減で、まださほど目立っていないお腹を押さえている。その姿に我ながらなんて嘘を吐いたのだろうと罪悪感が募った。

 もしライナルトや帝国が国を滅ぼすつもりなら摂政が残るかどうかもわからない。二人を気を持たせようと咄嗟に吐いた嘘だった。姉さんは侍女に支えられながら、部屋に戻り間際にこんなことを呟いた。


「たしかに子供ができたら王位を継いでくれたらいいなんて望みを抱いたわ。だけど、あの人を失ってまで欲しかったものじゃない」

「……エミール、姉さんについててあげて」

「僕? カレン姉さんが適任じゃ……」

「お願い」

「わ、わかった」


 皆、いつお呼びがかかってもいいように準備を済ませていたから、王城から迎えが来てもまごつきはしなかった。留守番は子供達とウェイトリーさんに任せ、私は姉さんの付き添いとして馬車に乗ったのだが、その「迎え」は大層な数の騎兵が付いていた。少なくとも王都内でこんな物々しい警備はありえないだろう。モーリッツさんは万一に備えてと兄さんを説得したが、なんとなく、これは違う理由だと目星をつけた。

 私たちの傍付きとして同行したのはアヒムなのだが、彼は険しい視線で彼らを見ていた。馬車に乗るなり兄さんに耳打ちしたのである。


「坊ちゃん、なんで護衛がローデンヴァルト……ライナルト殿の兵ばかりなんでしょう。他の将や兵士はどこにいったんだ」

「他の方の指示を受けているとか、王城にいるのではないか。いまは帝国からも兵が押し寄せている状況だし……」

「それにしたって反応が鈍すぎやしませんか。陛下が亡くなられたんだ、もう一軍くらいは戻してたっていいはずだ」

「アヒム、そこまでだ」

 

 アヒムは別の視点で懸念を抱いていたようである。姉さんが不安がるから兄さんがストップをかけたが、彼の疑念は私の方へ向いていた。


「お嬢さん、なにか聞いてませんかね」

「……なにを?」

「…………いえ、なんでもないです」


 やはりこういうときのアヒムは鋭い。

 姉さんの目がなかったら追求は免れられなかっただろうが、いまは状況が味方をしてくれた。

 私たちが王城に到着したとき、城はいつになく空虚だった。なにもしらない人々は行き交っているが、いつになく浮ついているのは上の人たちがざわついているからなのだろう。王城の奥に足を向けるのは初めてだったが、調度品の素晴らしさに目を向ける暇はなかった。案内されるがまま、姉さんが先頭をきって歩く背を私は無言で追っていた。

 到着したのは石造りの冷え冷えとした一室だった。扉が開くと、大きなテーブルの上に物言わぬ骸となった人が寝かされている。既に正装に着替えさせられており、その身体には、王を労うようにファルクラムの国旗がかけられていた。

 姉さんははじめ、王の頬に触れていたと記憶している。震える手が頬や唇を撫で、握り返されることのない指に触れた。もうそこに体温がないとわかっていても名を呼び続け、やがて顔を伏せた。肩が震えているのは一目瞭然で、やがて小さな嗚咽があたりに響き始める。

 兄さんに背を押されて姉さんに触れると抱きつかれて身動きがとれなくなった。抱き返す資格があるのだろうかと疑念を感じつつも、想像よりもずっと細かった背を撫でて骸を見下ろすのだ。

 まるで眠るように亡くなっている姉さんの夫は、意外にも苦しんで亡くなったわけではなさそうだった。それは少し離された場所に寝かされている王妃も同じで、不思議なことに穏やかに眠っているようにも見えるから不思議だ。

 ……そう、ここに眠っているのは陛下だけではない。兄さんが呆然と呟いた。


「……王妃も亡くなられたのか」

「陛下が亡くなられたと知り、我々が止める間もなく……」


 モーリッツさんの答えに兄さんは大きな息を吐いて天井を喘いだ。国を支える柱が亡くなってしまった不安がさぞ増しているのだろう。

 私はといえば……実はそんなに驚いていない。正直、手回しが早かったなと、そんなことさえ考えていると同時に、本当に後戻りできない所まで来てしまったという実感が強まっただけだった。


「姉さん、ここじゃ身体が冷えるから……」


 遺体の保存のためか、部屋は底冷えする寒さであった。離すのに手間取るだろうかと覚悟していたら、意外にも姉さんの聞き分けは良く、最後に夫の手を握り、お腹に手を当てながら囁いた。


「この子は私が守るから大丈夫よ、心配しないで」


 声が震えていたから悲しくなかったわけではないのだろう。涙こそ流していたものの、私の支えを断った姉さんの表情はすでに兄妹が知っていた女性の顔ではない。どこか力強ささえ感じさせる母親の眼差しだ。 

 諸侯の使いだという文官が跪いたのは、部屋を出てすぐのことだった。声かけのタイミングからして時期を見計らっていたからなのだろう。厚着でもないのでだらだらと汗を流す文官は、生き残った諸侯らが兄さんや姉さんとの対面を望んでいるのだと伝えてきた。


「皆様ご無事でいらっしゃるのだろか」

「はい、宰相閣下は残念な結果になってしまいましたが……。大公様はご無事でございます。他にも幾人かはご無事でいらっしゃいますので……」

「そうか、それはよかった」

「はい、はい。まこと、本当に良きことと存じます」


 兄さんの喜びとは対照的に、汗っかきの文官が声を引き締め、額や頬を拭っているのは何故だろう。固く緊張した面持ちはどこか落ち着きなく、俯き気味の文官がちらりと見たのは黒い軍服を纏ったモーリッツさん達である。兄さんも一瞬訝しげな様子を見せたが、口にする必要はないと思ったのだろう。すぐに気を取り直した。


「ゲルダ、陛下とお別れしてすぐですまないが、いけるだろうか」

「……行くわ。平気よ。少し顔が見苦しいけれど……」

 

 二人とも行くつもりのようだ。となると残りは私なのだが、政に関係のない私が付いていくわけにはいかないので、別室で待たせてもらうことにした。


「長くなりそうだから、カレンは先に帰ってても構わないが……」

「ちょっと考え事したいから待たせてもらいます」

「アヒムを残していこうか?」

「私よりも二人の方が優先でしょうに。いざというときはモーリッツさんに相談して人を借りますからご心配なさらずに」


 通してもらったのは庭に面する小さな個室で、外に出れば手入れの行き届いた庭園を眺めることもできる。寒空だからか、それとも城内の動揺が侍女達に伝わっているのか、庭には人っ子一人いなかった。

 部屋は少し寒いだろうか。けれどわざわざ膝掛けをもらうために人を呼ぶのも億劫だ。お茶も運ばれてこないけれど、状況整理するにはこのくらいがいいのかもしれない。椅子に腰掛け、片手で頭を抱え込んだ。 

 今現在、誰がライナルト陣営で誰が敵なのかわからない。状況を知るためにもモーリッツさんなりに話を聞きたいけれど、彼は兄さん達についていってしまったし、部屋の入り口を守っているのは彼の部下だ。エレナさんあたりならともかく、モーリッツさんに似てつっけんどんな態度を取る彼らが、上官が話してもいないことを教えてくれるとは思えない。

 モーリッツさんやヘリングさんなり捕まえなければならないが、どこで接触を図るべきか考えていると、不意に外から硝子を叩く音がした。

 驚いて振り返ると、庭に続く硝子扉の下方に血が張り付いており、向こう側に苦悶の表情を浮かべる女性が倒れ込んでいた。

 見ず知らずの相手だったら扉の向こうの護衛を呼んで終わるだろう。だが、その人の顔には見覚えがある。コンラートから王城に赴いた際、私に声をかけてくれた女性の武官だ。彼女は髪を乱し、汗まみれになりながら縋るような眼差しを向けている。急いで扉を開くと、息も絶え絶えでこういった。


「どうか人は呼ばないで。……ああ、お会いできたのがコンラート伯夫人で良かった……」

「待って、いったいその血は……いま人を呼びます」

「シーッ……お願いします、誰も呼ばないで」


 彼女は小声で、周囲に目を配りながら注意してきた。脇腹を押さえているのだが、そこから血が流れている。布で縛り付けているようだが、染みが広がっているのは間違いない。顔は既に蒼白で血の気が失せており、手先も冷え切っている。だというのに私の腕をつかんだ力は強く、振り払うにも難しそうだ。


「だって、その傷では……」

「もう助かりません。ですから……!」


 はっきりと言い切られた。息を荒くする彼女の腰には剣があったはずだが、すでに鞘ごとなくなっている。倒れた彼女は必死の形相で私を掴み寄せた。


「どうかサブロヴァ夫人を連れてお逃げください。陛下に手をかけ、王妃に毒杯を飲むよう迫ったのはあの逆賊でございます」

「逆賊?」

「ローデンヴァルト候の次男、ライナルトです。あの男……背徳者め……!」


 傷口が痛むのだろうが、それ以上に悔しいのだろう。目尻に涙を浮かべ、怨念さえ込めて彼の名を口にした。けれど事実を伝える義務を優先したのは彼女の忠誠心ゆえなのだろう、燃え上がる怒りを抑え、喉からせり上がる血を吐きながら迫り伝えた。

 

「宰相閣下や、ローデンヴァルト候も、心あるものはすべてあの者の手にかかりました。夜闇に乗じほとんどの将も捕われ……そのせいで、指揮が、ままならず」

「落ち着いて。諦めては駄目よ」

「いま、城に残っているのは命惜しさに国を売った逆臣だけ。ここにいては命が危のうございます」

 

 もはや私の声は彼女に届かない。中の異変に気付いたのか、背後からは私に向かって無事かどうかの確認の声がかかっている。


「……私は」

「ああ、よかった、お伝えできて……どうか、陛下のお子を連れておにげください……」

 

 彼女はぜえはあと荒い息を吐くと、ぼろぼろと涙を流しながら謝った。


「お許しください、陛下をお守りできませんでした。……国に、この身を捧げると、父母にちかったのに……」


 義務を果たしたから、だろうか。

 彼女の声が、力が、段々と弱々しくなっているのが伝わってくる。凜々しい騎士の表情から幼い童女のように遡っていく様を見届けていると、背後で扉が開く音が響いたが、振り返ることはしなかった。

 お腹から赤い血が、命の源泉が流れていくのを直に感じ取りながら、その人の頬を撫でる。徐々に目の焦点が合わなくなってくると、彼女は「おかあさま」と呟いた。


「おゆるしください……パウラは、りっぱな、き……し、に」


 やがて、腕をつかんでいた力もなくなって床にことんと落ちる。しばらくその瞳を見つめ続けていたけれど、光の消えた瞳を隠すように瞼を下ろすと、悲しげな表情も少しだけ安らかなものに映って見えた。

 お疲れ様でした、と心の中で手を合わせる。この人とは本当に僅かしか顔を合わせたことのない間柄だったけれど、臨終に立ち会って無下にできるほど心がないわけではない。

 ゆっくりと背後にいるであろう人たちに振り返った。


「…………亡くなりました」

 

 苦々しい感情が胸を支配するのは、彼女はせめて義務を果たして逝けたと信じたからなのだろうか。事実を伝えた相手が国を裏切った相手を是とする人間だと知らずに逝けたのは、果たして幸運なのか、それとも不幸なのか私には判別がつかない。

 理解できたのは、手の平にべったりとこびりついた赤い液体が、これからも彼に纏わりつくであろう予感だけだった。



********************


71挿絵追加(https://twitter.com/airs0083sdm/status/1294838804059058177)


他、しろ46さんによる71話のカレンとライナルト

 (https://twitter.com/siro46misc/status/1294063912120283137) 

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