第65話 崩壊の足音
声をかけても振り返る気配はない。それどころかこちらにお構いなしに館から出て行こうとするものだから、慌てて後を追いかけた。正門を抜けて出て行ってしまうのだが、まさか館を出れば私が諦めると思ってるのだろうか。守衛に引き留められたものの、
アヒムを指せば通してくれたので駆け足で追いかける。
「おいていかないでよー!」
「…………なんで追いかけてくるんですか」
「なんでって、アヒムが出ていくからじゃない」
無視するわけにもいかなかったのだろう。振り返った表情には嫌々ながらといった様子がありありと描かれている。
「戻りなさい。貴族のお姫さんが護衛もつけずに外に出るんじゃありませんよ」
「護衛ならあなたがいるじゃない」
「俺は一人になりたいの。お嬢さんのお守りをしてる暇はないから帰りなさい」
「あっそう。じゃあ勝手に付いていく」
アヒムは歩みを止めないから、私も自然と彼についていくことになる。いまさら引けないのか歩き続ける彼の横に並んでいた。不機嫌そうに前を向いており、苛立っているのは明らかだ。
「いまは優しくできないんですよ、わかってくれませんかね」
「でもいま帰ったら言いたいこと飲み込んで、それっきりじゃない」
「なに言ったって聞いちゃくれないでしょうが」
「そりゃあ引き下がる気はないけど、あなたの話を聞くのは別の問題」
「はあ? お叱りを好き好んで受けに来たってわけですか。そりゃ随分殊勝ですね」
「それで機嫌直してくれるならいくらでも言ってくれていいけど」
彼の一歩の歩幅は広くて、歩きとなるとついていくのが精一杯だ。自然と小走りになってしまうのだが、息が上がりだしたところで足が止まった。それはもう不愉快そうにこちらを見下ろしているのである。
「…………この馬鹿娘」
いきなり馬鹿呼ばわりである。けれど馬鹿はいまさらだし、嫌みも感じられなかったので、息を整えながらアヒムを見上げた。
「……坊ちゃんに言われてきたんでしょうが、いいから帰んなさいって」
「それだけでここまで追いかけるわけないでしょ」
「あのね。おれ、いまは花街に行きたい気分なんです。だからお嬢さんについてこられると困るの」
「あらそうなの。なら途中まで一緒に行くけど、帰りは辻馬車拾うから安心して」
それはそれは盛大なため息を吐かれてしまった。
「……買い食いするつもりでしょ」
「やあね、今日の格好じゃ無理よ。この服だと買い食いは目立っちゃうもの」
せいぜいちょっといいお店で買い物する程度だ。いまポケットに入っているお金を考えたらそのくらいしか手持ちがない。
とぼとぼと歩き出したアヒムは、先ほどより背中が丸まっていた。上着に両手を突っ込んで、ぶつくさと文句を言い始めるのである。
「おれは自分の優しさが時々嫌になりますよ、今日なんて特にそうだ。なんで言うことすらまともに聞いてくれない妹分を気にかけなきゃならんのかって心底悔やんでますよ」
「元々そういう性分でしょ。あなたのお怒りもわかるけど、私にだって引けないときくらいあるんだから。なんでもかんでも兄さんに頼りっぱなしじゃいられないの」
「……お叱りは聞くんじゃなかったんですか」
「反論しないとは言ってない」
無言のにらみ合い。こんな風に言い争うのは何年ぶりだっただろうかと記憶を辿るけれど、なかなか思い出せない。思い返す前にアヒムが踵を返すのだが、今度は館に逆戻りだ。
「花街は?」
「行く気が失せた」
結局行かないらしい。そのあたりをうろつくことに決めたらしく、ただの散歩になってしまったのは少々残念だった。
「ところでなにも言わず出ていったみたいだけど、兄さんの護衛はよかったの?」
「おれが考えなしに離れてると思ってるんですか。ちゃんと後続は育ててるんですよ。一番信頼されてるのがおれってだけです」
アヒム以外にあまりそういった人を見かけないから印象に残ってないのだよなあ。ぼんやりとしていたら、いつの間にか歩幅は私に合わせられていた。少しは機嫌が直ったのだろうか。アヒムのとったコースは道のわかりやすい、館からもそう離れずにすむ散歩道だった。
「お嬢さんはキルステンに戻る気はないんですね」
「そうね、色々考えたけど、いまは戻らない方がいいんじゃないかって思ってる」
「一生コンラートに義理立てするんですか」
「そのつもりはないけど、コンラートが落ち着くまでは様子を見るつもり。……アヒムは反対みたいだけど」
「そうですね。正直言えばお嬢さんがコンラートの顔になっちまうのは反対です。坊ちゃんはああいってましたが……」
アヒムの憂いを完全には理解できない。ただ、少しばかり悔しそうだったのは伝わった。
「コンラートを助けるのを止めろとは言いません。ですけどお嬢さんはキルステンに戻りませんか。いまなら坊ちゃんも頑張ってくださいますし、おれができる限りお嬢さんを保護します。ローデンヴァルトの件もまだ間に合うでしょう」
「私の意見は伝えたじゃない。それに兄さんに一人背負わせるのは反対」
「……わかってるんですか」
「なにを?」
「コンラートは滅んだばかりです。あんた、怖い目に遭ったばかりじゃないですか」
滅多に本音を漏らさないはずのアヒムの顔が歪む。付き合いの長さ故か、私を心から心配してくれているのだろう。だからだろう、どんな態度を取られても怒る気にはなれなかった。
「まだ怖い夢を見るんでしょう」
「……うん」
「守られててもいい立場なんですよ。なのになんで自分から面倒な方に足つっこむんですか。大人しく守られててくださいよ」
「十分守ってくれてるじゃない」
「足りませんよ」
いらだちを抑えられないようで、吐き捨てるように言い放たれた。不貞腐れたような姿を見ていると、本当にいい保護者を持ったのだなと苦笑が溢れてくるのだが、それが相手の気を逆なでてしまったらしい。
「なに笑ってるんですか。過保護で悪かったですね」
「嬉しいだけだってば。変に取らないでよ、お兄ちゃん」
「……こんなときだけ兄ちゃん呼びはずるいんですよ」
「いいじゃない、お兄ちゃんって呼んで可愛い時期はいまだけなのよ。ほら、かがんで」
「やめてください。おれが抱擁くらいでほだされる男と思われるのも心外です」
本気で嫌がってないじゃないか。とはいえ、私からせがむくらいじゃないと立つ瀬がないだろう。しょうがないなあと腕を伸ばして首に腕を回し、力一杯抱きしめる。そういえばアヒムにはこうしてお礼を言ってなかったなと思いだしたのだ。これだから余裕がないのはいけないのだ。
「抱きしめ甲斐がないくらい固いわ。あと大きい」
「筋肉があるって言ってくださいよ、成長したんです。あんたたちを守れるくらいにね」
アヒムからも力一杯抱きしめられる。もう一人の家族は私を守ってくれると言ってくれるくらい頼もしい人だけど、その言葉に隠れ過ごすだけの子供時代に終わりを告げようとしている。だからごめんなさい、と謝った。
「謝らないでくださいよ。後悔は嫌いなのに、手を差し伸べるのが遅かったって振り返りたくなる」
「いまでも守ってもらってるし、気持ちも伝わってるのだけどな」
「…………人の気もしらないくせによく言いますよ」
「痛い痛い」
骨が軋むんじゃないかってくらい強く抱きしめられる。何度か謝ってみたけれど、解放してもらえたのはしばらく経ってからのことである。
その頃になるとウェイトリーさんと話を終えたヴェンデルが階下に降りてきており、三人で改めて話し合いの席につかせてもらった。ヴェンデルには後見人の話と、今後についての考えを少しずつ説明していく。ウェイトリーさんがあらかじめ話していてくれたおかげか、受け入れられるのは早かった。
三人とも伯やスウェン、エマ先生にニコやヘンリック夫人について話すのはまだまだかかりそうだが、このあたりはうまくやっていくしかないだろう。一番傷の深いヴェンデルだが、王都に残されているスウェンの遺品を取りに行く話になるとすぐさま興味を示したし、エミールや姉さんがいたのがよかった。前者はヴェンデルの相談役、後者は特になにかした……というわけではないが、ヴェンデルにやることを与えたのである。
それというのも、つわりが酷いのだ。
「食べ物もだめ、匂いもだめ、なんでかわからないけど音もだめ……気持ち悪い……」
肉体的・精神的共に大打撃を受け、ほとんど眠っている始末である。これに調子が良いときには以前エマ先生から贈られた茶が功を成した。ヴェンデルが残った茶葉と持ってきた冊子を照らし合わせ配合に乗り出したのである。
やることがあれば少しは気は紛れるようで、熱心に薬草を持って取り組む姿を見守るだけである。この間に私やウェイトリーさんはコンラート邸に赴き、残っている人々に仕事を用意していた。その中にはベン老人や生き残った護衛のヒルさん、緊張した面持ちを隠せないハンフリー青年もいる。ハンフリー青年はあちこち擦り傷を作っており、師であるヒルさんの厳しさがうかがえたけれども、あえて掛ける言葉はない。ウェイトリーさんの報告だといまはヒルさん共々頼れる護衛としてみなの信頼を買っているらしく、日々黙々と剣を振り、薪を割り、力仕事を引き受けているようだ。その姿勢を皆はコンラートを守れなかった罪悪感故と捉えているようである。彼の裏切りを知っているのは私とウェイトリーさん、ヒルさんにベン老人だけ。王都への輸送中、彼の姿が見えなかったのは怪我の治療中だったからと誤魔化せたし、皆もすんなり受け入れてくれた。周囲の勘違いがどれほど青年の重みになっているかはわからないが、これがある意味罰となっているようである。
この間はラトリアの噂が流れつつも、他に異常は発生していないし、私も皆に守られていたので平和だったと思う。ライナルトから送られてきた後見人にあたっての条件も、一般的な範囲で可もなく不可もなくといったところだ。無理難題を吹っ掛けられるかもと警戒していたウェイトリーさんが安堵の息を漏らしていたのが印象的である。
問題の話題が浮上したのは数日後の話だ。兄さんが深刻な様子で話を切り出した。
ダヴィット殿下、ジェミヤン殿下。両殿下による王位継承権を巡った御前決闘試合である。
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