第17話 もう少し休ませてはくれないのか
ゆるやかとはほど遠い目覚めだった。水の底から浮き上がるような覚醒、感じたのは激しい疲労感で、腕一本動かすことすら重い。目を閉じた所で聴覚が働き始めたらしく、いくつかの人の声を拾い始める。
「出発前から体調が悪いのはわかってたのね? どうして行かせたりしたの、この子は身体が強い方じゃないのよ。お爺さまだってそう伝えていたでしょう」
「申し訳ございません。すべて、わたくしの落ち度でございます」
「ゲルダ、少し落ち着け。……こればかりは誰が悪いというわけでもない」
「まあ、ライナルトにあれだけ怒ってた人のお言葉とは思えないわ」
「いまはそんなことを言ってる時ではないと言ってるんだ。お前の声は通り過ぎるのだから自重しなさい……!」
はっきりとした怒りを押し殺そうとする兄さんもまた珍しい。謝っているのはヘンリック夫人だろうか。兄さんと姉さんの喧嘩くらいなら放っておいてもよかったが、夫人が叱られているのは見過ごせそうにない。
「それについては、謹んでお詫び申し上げる。……が、改まった謝罪は別室にて行わせてもらいたい。ここではカレン嬢も休めないでしょう」
ライナルトまでいるとは随分大所帯だ。夫人だけでも呼び止めようとしたのだけど、遠ざかっていく彼らを引き留めるのはかなわなかった。額や首筋を伝う汗が気持ち悪くて魘されそうだが、冷たいなにかが肌に押し当てられ、感覚は随分ましになってくる。
「……奥様、汗を拭きましょうね」
身体は起こせないし諦めて眠ってしまおうとしていたら、気に掛かっていた女の声が届いてしまった。そうっと目を開くと深刻そうな表情をしたニコが布巾を持って首に手を伸ばそうとしている。
……腫れは大分引いたようだ。目が合うと驚いたようで薄い唇を開くが、その前にと服の裾を掴もうとして失敗した。なぜか指の先端がとても重たいのである。
「おくさ……」
「……だい、じょうぶ?」
無事なのはわかっていたけれど、スウェンよりニコの方が殴られていたから、後遺症や痕が残ってしまわないかが気になっていた。ただでさえ心に疵を負っただろうに、このうえ取り返しのつかない疵痕なんて、彼女の親御さんに謝りようがない。
ニコはぼろぼろと涙を零しながら伸ばしかけた手を取って何度も頷いた。
「はい、はい……! ニコは無事です。スウェン様も、奥様のおかげで手遅れにならずに……!」
「そう……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……! ニコがへまをしちゃったんです。そのせいで……」
無事ならなんだっていいのだ。私はこの子が好きなのだし、いなくなられると困るのだから。それよりも人を泣かす趣味はないから泣き止んでもらいたい。
「……けんか、とめて、きてもらえる」
それと自分のことで喧嘩されるのも御免である。気性の激しさは姉さんが上だが、兄さんとて気が弱くて穏やかな分、ひとたび怒らせると長引く拗らせタイプである。
「あっ、スウェン様、アヒムさんっ。いま奥様がお目覚めに……」
閉じた視界の向こう側で誰かが声をかけてきたけれど、睡魔に負けて再び眠りに落ちていた。
次に目を覚ましたときは、姉さんが傍らに座っていた。あれから何度か覚醒しては眠るのを繰り返していたけれど、こめかみが傷むのと気怠いくらいですんだのはこのときが初めてである。
「ああ、まだ寝ていなさい。あなたまだ熱が下がってないのよ……欲しいものはある?」
喉が渇いたと告げると唇に柔らかい布が押し当てられ、果汁の混ざった砂糖水が喉を潤す。
「ゲルダ様、看病は侍女にお任せしてくださいまし。どうかそのような……」
「妹の看病は小さい頃からやってるの。邪魔をするなら下がりなさい」
声に聞き覚えはないから、姉さんの使用人だろうか。厳しい言い様とは打って変わったもの悲しい眼差しで布巾を水に浸している。
「言いたいことはたくさんあるけど、いまはなにも言わないわ。……指はまだ我慢なさい、腕の良い術士が治してくれるらしいの。こちらに向かっているらしいから、それまでの我慢よ」
なんのことかわからずにいたのだが、持ち上げた腕を見て納得した。両手共に親指を除いた指すべてに包帯が巻かれていたからだ。動かしにくかったのはこれのせいに違いない。
「顔も身体も痕は残らないそうだから安心なさい」
「あ、うん」
「……起きてるのよね?」
「前よりは、頭もはっきりしてる」
姉さんがいるのにも驚いたが、それ以前に見知らぬ天蓋付きベッドに驚いていた。サイドには白のレースはもちろん、寝衣は肌触りの良い絹である。一目でわかるお金のかけられた調度品の数々は、目にうるさくないようひっそりと鎮座し雰囲気を統一していた。
「…………ここ、どこ?」
「その質問は二度目だけど、やっぱり覚えてないのね」
悩ましげにため息を一つ。言うことを聞かず起き上がろうとする私にしょうがない、という様子で背中にクッションを入れてくれた。おかげで大分話しやすいが、口の中に違和感があった。確か私は舌と口内を切っているのではなかったか。そっと舌を動かすと、口内に奇妙に腫れているような感覚がある。
「口内は強いお薬を塗ってあると聞いてるわ。それでも固いものは食べたら駄目らしいから、注意してね」
「違和感はあるけど、大丈夫。それよりも……」
「ローデンヴァルト、というよりライナルトの別荘ね。詰所から一番近いところにあったから運んだのだと聞いてるけど」
「……スウェン達は?」
「ご自宅に引き返したけれど、毎日こちらに通っていらっしゃいます。ニコとかいう侍女は、あなたの面倒を看るために残ってるわ」
「毎日……」
「……あなたがここに運ばれて今日で五日目よ」
「うぇ?」
それは、予想を遙かに上回る日数だった。風邪とはいえ、それは流石に寝込みすぎではないだろうか。ところが姉さんは苦虫をかみつぶしたように目を閉じる。
「あなたが熱を出して寝込むときは三日は普通です。今回は怪我もあったし、もっと長引くと思ってた方だわ」
「ええ……流石にそれは……」
「あなたが私たちのなかで一番身体が弱いのよ、自覚なさい」
……姉さんはそう言うが、これは反論させてもらいたい。私は運動も普通にできるし、走ったりするのもまったく苦じゃない。十代らしく一晩くらいの徹夜じゃ楽々行動可能、少し睡眠時間を削っても数時間の昼寝で取り返せる。むしろ年相応すぎる。うん、ちょっと高熱が出やすいだけで断じて身体は弱くない。
「……その部分は兄さんと半々にしてもらいたかったわ。あっちは頑丈すぎるのよ」
長兄アルノーは気の弱さに比べ反則級の健康体である。あの人はあんまり風邪を引いたことがない。愚痴をこぼす姉さんだが、私が喋り辛そうにしている原因に気付いて背後を振り返った。姉の連れてきた使用人さん達である。
「大事な話があるからしばらく下がってなさい」
こういう所の察しの良さは姉妹である。
パタンと扉が閉められたのを確認すると、姉さんは私の言葉を待つようにじっと口を閉じている。
「……それで、なんだけど」
「ええ」
「合意だったの、そうじゃなかったの」
しばしの沈黙。言葉の意味を掴みかねた姉さんが小首を傾げる。
「……カレン? もう一度言ってもらえるかしら」
「だから同意だったのか、違うのか」
「…………なにが、かしら」
「殿下の件」
なんで天井を仰ぐのだろうか。行動の意味がよくわからない。
「…………人払いさせたらまずそれなの?」
「え? 重要でしょ?」
私が姉さんに聞きたい話と言ったらまずこれだ。こちらとしてはごく当たり前の質問だったのだが、姉さんはそうではなかったらしい。気難しげに眉を寄せていたが、長い長い息を吐くと、脱力した様子で肩を落とした。
「合意だと思ってるの?」
「疑いたくなるようなこと、されたら普通はそう考えちゃうと、思うの」
本当はもっと慎重に話をするべきだとはわかっている。ただあまりに身体が怠いし、姉さんが平然としている様子に、ふと思ったのだ。「ま。いっか」と。
一方の姉さんは呆れてはいるが、はぐらかす気はないようだ。
「兄さんにも言われたわ、それ。……妙なのを聞かせてごめんなさいね」
「……すごく心臓に悪かった」
「そうよね。…………正直、さっきまで帰れと言われるかと思ってたもの」
「じゃあ……」
「合意じゃないわ、少なくとも望んでそんな関係になったかと聞かれたら、違う」
肩をすくめて言われてしまった。あの日については思うところが多いが、掘り返して楽しい記憶ではない。なにより身内だからこそこれ以上突っ込んではならない暗黙の不文律もある。兄妹仲を壊したくなければなおさらだ。
「……ラ……ある人には、姉さんと殿下が近しい関係だったって」
「迫られたから躱しにくかっただけよ。……ついこの間まで殿方と縁遠かった私が……あの手合いのお方から逃げるのが得意だと思う?」
「あ」
「…………まあね、そう見られてるのは知ってたわ。私だって無下にしてたわけじゃないし」
姉さん、別に夜遊びしてたわけでも、男好きだったわけでもない。ごくごく普通の令嬢だった。……そういえばそうだ、新入社員の女の子が上司のおじさんに迫られて、上手くやり過ごそうと笑顔で避けてたつもりが……と。そういうのは自分も覚えがある。
「そもそも形だけとはいえ義理の息子よ、そんな気も起こりません。……けれど、まあ、向こうはそうじゃなかったのね。父親の愛妾もただの……」
そのとき姉さんは誤魔化そうとしていたが、自らの肘を抱くように両手に力を込めていた。瞳には一瞬だけど、憎悪か嫌悪か……それに似た類の感情の色。ただ、それもすぐに引っ込められた。
「これ以上はやめておきなさい。心配しなくてもザハールと兄さんが手を打つと言ったから大丈夫よ」
「ザハール……」
「ライナルトのお兄様よ、ローデンヴァルトのご当主だから覚えなさいな」
「……名前は覚えます。けど……」
「権力闘争が絡むと言ってるの、その覚悟がないならやめなさい。あなたはもうコンラートの人間なのだから、中途半端に関わって来られると双方に迷惑だわ」
本人はさらっと言ってのけたが、だからこそこれ以上ない本気の忠告があった。覚悟とまで問われると、及び腰になってしまう。
「じゃあ……これだけは教えて。殿下のことが好きとかじゃ……」
「死ねばいいと思ってるわよ」
蝶よ花よと育てられた姉の口からはっきりと「死」という言葉を聞くのは、結構衝撃的である。
「……まあ、そうね。ないだろうけど、あの男と二人きりになるような事態は避けなさい」
「あ、はい」
「最悪侍女がいても信用できる者にすること」
「…………はい」
侍女達が出て行った扉の方を睨みながらの言葉である。
「あなたへの忠告はそれだけよ。で、私のことはもう心配しなくていいから。こうなった以上もともと利用するつもりでいたから、気にするのは止めたの」
「…………ん?」
「でも、兄さんに相談してくれたのはありがとうね。私からじゃ話しにくくて……おかげでやりやすくなったわ」
姉さんの身に何があったかを察して気まずくなっていたけれど、後半おかしなことを言ってない?
それどういうこと? と聞こうとしたら唇に果実水を掬ったスプーンを押し当てられた。飲め、ということらしい。
「ところで、あなたライナルトのこと許したの?」
「あま……え? はい、なに?」
「ライナルトよ。そんな目に遭わせたのは彼の配下だと聞いていますよ。けれどあなたは彼を責めるどころか、訴えもしないと約束したそうじゃない」
……そうなの?
甘すぎると姉さんは言うのだが、まったく記憶にない話である。なにか変なうわごとでも言っちゃったんだろうか。
考え込んでいると、扉がノックされた。私が目覚めたと聞いたようで、早速様子を見に来た誰かがいたらしい。姉さんが素早く肩掛けをかぶせてくれたので、寝衣を晒すのは避けられた。
……が、入ってきた面子を見て姉妹二人して首を傾げた。
入室したのはライナルトの配下であるモーリッツさん、馬車で治療をしてくれたエレナさん、それに二十代半ばくらいの見知らぬ男性だ。痩せ気味の身体に纏うのは軍服であり、艶やかな白髪は一見お年寄りに間違えられそう。どう見ても医者には見えない。
姉さんが代わりに尋ねてみたが、この人がライナルトが手配した術士らしいのだ。
もうちょっと年食った人を想像してたので、これはかなり予想外。
抜けるように綺麗な肌、深々と切れ上がったまなじりは涼やかな銀鼠色。……ここのところ遭遇する顔面はどれもこれも美しい人ばかりで感覚が狂ってしまいそうだ。
うっすらと淡い微笑を湛えたその人は自分を「魔法使い」と称し、それはそれは見事な礼の形を取り自己紹介したのである。
「お初にお目に掛かる。我が同胞の小さき友人殿にお会いできて嬉しく思いますよ」
シクストゥスという聞き慣れない響きの名を持つ男性である。私も上体を起こして名乗ろうとしたのだが、エレナさんに止められてしまった。
優しげな風貌をした人であったが、個人的には胡散臭いというのが第一印象だ。
モーリッツさんが姉さんに話があると言って退室すると、シクストゥスは寝台の脇に座り、こちらに一度断ってから左手首を掴んで持ち上げた。
「シス、ライナルト様は一刻も早い治療をお望みです」
「了解しているとも。心配せずともか弱い乙女を苦しめる趣味などないさ」
何故だろうか。シクストゥスがそういった瞬間、青年を見るエレナさんの視線が冷たいものになっていた。青年は機嫌が良いのか、鼻歌交じりに脈を測ったりと医者の真似事に興じるのである。
「だがいまは駄目だ。少なくとも……そうだな、口内だけにさせてもらおうかな。食事を摂れないのは辛いだろうからね」
「シス」
「だめなものはだめさ。熱さえなかったのならご要望に従えたかもしれないが、いまは体力が極端に落ちているからね、全快などさせたらそれこそ昏倒するのではないかな。ライナルトもそれは望んでいないだろう」
「む。……それは本当ですね?」
「治癒に関してはきみも知識があるだろう。それに私は弄る相手と時期は選んでいるよ、案じずともこの状況でふざけはしないさ」
くわ、とエレナさんの両目が見開かれる。よくわからないがこの二人、仲が良いわけではないらしい。
「では、あとは体力が戻ってからにしようか。どうぞお大事にね、カレンお嬢さん」
男は手を離すとすっくと立ち上がり、振り返りもせず扉の向こうに消えていく。その時間は五分にも満たないだろう。あっけない『治療』に拍子抜けしていたのだが、口の中で広がった苦みに我に返った。
土臭い草を噛み潰したような、なんともいえない気持ち悪さだ。堪らず口元を押さえたのだが、同時に口内にあった腫れがすべて引いているのにも気がついた。
「あれ、治ってる」
「シスの治療はあんなものなんです。ちゃんと治ってるのならよかった」
「そうなんです……か?」
視界がぶれて一瞬頭がぐらついた。エレナさんはただし、と付け加える。
「曰く、魔法の治療は患者の体力を使って治癒能力を異常に高めるものらしいです。ですから弱っている人に使っても効果が薄かったり、最悪死に至ったりするそうで……。無理はしないでくださいね。体力が戻れば、すぐに回復しますから」
あ、そうなの? 魔法ってこう、不思議パワーで一瞬で回復したりするわけじゃないのね?
思ったより万能とは言い難いらしい。あの青年が去ってからの彼女の表情は柔らかくなっており、その微笑みに大事なことを思い出した。
「そうでした、大事なことを言ってなかった」
「はい?」
「助けてくれて……それに、運んでくれたり、治療をありがとうございました」
彼女は意表を突かれたように動きを止めたが、やがてじんわりと心の底から湧いてくるような笑みを浮かべ、自身の胸に手を当て名乗った。
「仕事ですのでお礼は不要です、と言いたいところですが。ええ、はい、それはそれとして、お礼を言われるのはいいものですね。……エレナ・ココシュカと申します、どうぞ気軽にエレナと呼んでください」
できるものならこの人ともう少し話をしたいところだが……。言葉を紡ぐより早く、再び扉がノックされる。今度はモーリッツさんが入室すると、エレナさんは姿勢を正し一歩下がる。
モーリッツさんは椅子に座ろうともせず、軽く黙礼すると次のように述べた。
「女性の寝室に押しかけるような形になることをお詫びする。本日は貴女に大事な用があり、無礼は承知でお訪ねさせていただいた」
この人は以前とは違い、態度や口調が固くなっている。どことなく居丈高な態度は、場合によっては慇懃無礼に映るかもしれない。なんとなくだが、こちらの方が素なんじゃないだろうか。その証拠に、こちらを見る瞳は感情らしい感情がほとんどない。ただそこに居るから視界に収めているといった風だ。
「その用事は、いまだに私の侍女を呼んでもらえないことと関係がありますか?」
「勧めはいたしませんが、望まれるのならお呼びしましょう。ただし、今後の生活に支障をきたす可能性があるのを考慮して頂きたい」
その一言で大事な用とやらの内容の重大さを把握した。ニコの顔を見ておきたかったのだが、そういうことなら仕方がない。
もう少しゆっくりはさせてもらえないのか。半分諦め気味で相手の用件を促した。
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