第10話 久々の絶望

——苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい


 少女は熱さに顔を歪ませる。

 今までで一番辛く苦しい。あの牢屋で鎖に繋がれていた時にはこんな苦しいとは感じなかったのに。どうして?


 少女は自覚していた。

 人間になったからだ。動物ですらなかったあの時は、こんなこと感じなくて当然だ。人間になってしまったから色々感じてしまうのだ。


——後悔……してる?


 まさか。

 自分が人間だと分かるのは本当に心地よい。自分も運び屋さんと何も変わらない一人の人間なんだ。


 これからも運び屋さんに色々なことを教えてもらおう。運び屋さんは物知りだから色んなことを知っているに違いない。


——でも、貴方は奴隷として売られてしまうのよ?そこに連れて行くのは運び屋なのよ?


 知ってる。分かってる。

 それでも自分は世界を見たい。自分は人間なのだから。


——運び屋のことが本当に好きなのね


 うん。自分に自分は人間だと分からせてくれた。


——そうね


 でも、いつかいなくなってしまう気がする。


——彼は運び屋だもの。仕方ないわ


 そういうことじゃない。何処を探してもいないような……。


——大丈夫。不器用で、融通が利かなくて、オブラートに包むことなんてしようともしないけど……、彼は強いから。でも、それでも彼はやっぱり弱いから……早く安心させてあげて


                 * 


 運び屋は少女を背負って、鼻につく血の匂いを掻き分けながら村の中を進んでいた。


 運び屋はこの村に一度来たことがあった。奴隷の引き取りで訪れたのだ。その時は賑やかな村だったはずだ。


——まるで奴隷の呪いだな


 そんなことを思いつつ、運び屋は診療所に向かう。


 家の陰から覗いていた死体の山の仲間入りをさせるわけにはいかない。自分が感染するかも分からないこの状況で運び屋は珍しく冷静でいられなくなっていた。


 当然だ。この病は魔法なのだから。


 貴族や王族のように高貴な血族でしか使用できないのが魔法だ。魔法を持たない運び屋にとってこの状況は絶望でしかなかった。

 魔法は術師を殺せば解除される。しかし、魔法を使う人間相手に生身の人間が勝つのは絶望的。不可能に近い代物だ。

 そもそもその術師が何処にいるのかも分からない。はるか遠くにいるとしたら殺しようもない。


 只の疫病だと思い込んでいる村人たちに比べて、知識を運び屋はこの事態がどれほど深刻なものかをより理解していた。

 

                 *


 茶色のペンキが剥がれ始めているドアを開ける。瞬間、吐瀉物に酢とレモンを混ぜて一年放置したようなそんな悪臭が吹き抜けた。


 運び屋は咄嗟に顔を歪めた。悪臭には慣れている運び屋だったが、この嗅いだことのない独特な臭いは運び屋の鼻腔の奥を抉るような勢いだった。


——魔力が含まれているからこんな臭いなのか?それにしても最悪な環境だな。


 慣れているとはいえ五感が十分に働く以上、鼻の中に残る悪臭は運び屋の吐き気を誘った。


「医者は……いないのか」


 運び屋は唾を飲み込む。


「医者はいないのか!」


「はいー!」


 妙に高い男の声が室内に響く。奥から出てきたのは小太りの男だった。


「患者さん?ってか見ない顔ですね」


 男は不思議そうに運び屋を覗いた。


「ここに来るのは一年ぶりだ」


「あれ、来たことありましたか。あちゃ、最近、記憶力がなくて」


 男は頭を掻く。


「そんなことはどうでもいい。ベッドを貸してくれ」


「と言われましてもねぇ。ベッドなんてもうないんですわ——」


 運び屋は右手で短刀を取り出し、男に向ける。いち早く少女を寝かせたい運び屋にとって交渉など時間の無駄でしかなかった。


「寄越せ。簡易的なベッドでもなんでもいい」


 男は額に汗を浮かべ、困ったような表情をする。


「それすらないんですよ」


「なら患者を下ろしてこの子を寝かせろ」


 運び屋自身も支離滅裂なことを言っているのは自覚していた。しかし、他の患者が死のうとも少女を死なせることだけは絶対にありえないことだった。


「もう死にそうなやつを俺が殺す。それでベッドは空くよな」


「ちょっと!やめてください!死にそうでも大切な患者さんなんですよ」


「なんでもいいからベッドを寄越せ!お前を殺すぞ!」


 男はビクビクと身体を震わせていたが、瞳は決意に満ち溢れていた。


「村医者でも私は医者です!殺されようと患者さんを粗末に扱うことなんて出来ない!」


「この子だって患者なはずだ!頼むからベッドを一つ寄越せ!」


 運び屋は膝から崩れ落ちる。手から落ちた短刀が音を鳴らして撥ねた。


「頼む。…………頼む。この子を死なせるわけにはいかないんだ」


 運び屋の声は微かに震えていた。必死に願い、乞うその姿は運び屋とは思えないものだった。


「私としても助けたい気持ちではありますが……」


「いいじゃねえかよ。おじちゃん」


 若く、張りのある声がドアから聞こえた。


 ドアに寄っかかっているその青年は癖のある茶髪を揺らしながら、腰に差した大剣を鳴らした。運び屋が振り返ると、青年は青い瞳に運び屋を映し軽くウインクをして見せた。

 

 

 



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