地下研究室 ‐1

 

 *  *  *



 眠ろうか、やめようか。やっぱり眠ろうか。目を瞑ってしまえば、楽になれるかもしれない。なれるのか? そんなはずない。

 彼女の命が失われるのにカウントダウンが始まっている。与破音、まだ答えを出せれていないけれど、このままでは考える猶予すらなくなってしまう。せめてもう一度だけ、この迷惑行為を許して欲しい……

 

 再び珀斗と対峙する数十分前の話である。

 邸宅の床下に叩き落とされ、全身は痛みのあまり固まっていた。そして、少しだけ昔のことを思い出していた。亡き彼が今の自分を見たら何と思うだろう。

「無様だろ? 与破音」

 呼吸は早く、体は冷たい。やはり一人がお似合いなのだ。助けてと叫んでも、痛い苦しいと唸っても誰が返事をすることもない。だから静かに黙っている。

 しかし、今ほど自分をどうでもいいと思ったことはないのだ。本来なら左腕が千切れた時点で、もう他の何事もそれどころではなく、ひたすら喚き散らすだろう。けれど今、腕の一本や二本は大したこと無いように思える。

 他の何よりも、ただ立ち上がりたかった。

 全身で空気を吸い込んで、体を起こして、意味不明な声で呻く。残った右腕で冷たい壁を伝い、塞がりかけた血管からドバドバ血を流して。そして、立った。

「……ライトホープ、勝手に死ぬんじゃ、ねえっての」

 どうやらここは床下というより地下室のようだった。兎にも角にも上へ戻る階段を探す。

 周囲を見渡すと。暗い中に所々青い光がぼうっと怪しく灯っていた。上階とは明らかに空気が異なる。木の匂いがしない。アンティークやクラシックといったものが一切排除されている。

 光に近づいてみると、それは大型の機材が放っているランプの灯りだった。青いランプはいくつもの巨大なガラス円筒筐体を照らしており、神秘的にも、未来的にも映って見える。

 この地下は、研究施設か何かなのだろうか……。 いや、今は気にしている場合じゃない。一刻を争うのだ。だがしかし、進めば進むほど、地下の研究施設は迷宮のように深みへと誘い、嫌でもこの邸宅の秘密が目の中に飛び込んできた。

 奥まで来ると、液で満たされたガラスのケースに、人間の脳だけがぷかぷかと浮いていた。数にして百以上はあるだろう。液中に浮かぶ脳には無数の電極が繋がっている。

 そして図らずも最深部まで行き着いた。そこで目にした物は、巨大なガラス円筒体の中に浮かぶ、人だった。皮膚は半分以上が溶けて液体と同化し、飛び出した骨格の内側から、膨張した臓器がはみ出している。眼球は剥き出し、歯茎まで露わになった顔、長い頭髪は海藻のように漂っていた。

「な、なんだこれ」

 理解が及ばない。思わず後ずさった。

「人が、腐って溶けてんのか? なんで? いやそれより……、この体格……」

 腐敗が進行し、本来の姿は想像に難いが、身長、体格、それらのヒントが嫌でも彼女を思わせる。

「さっさと戻ろう、今はそれどころじゃ……」

 口ではそう言ったものの、ガラスの中の何者かから目を離せずにいた。だが無理矢理でも立ち去ろうと足を動かし、一歩、二歩とぎこちなく後ろに下がる。自分の動揺を自分に誤魔化せない。 


 丁度その時だった。けたたましい鳴動が静寂を破る。ポケットの中でサイレンのような電子音が連続し、小刻みの振動が体を伝う。電話だ。

 取り出した機器は例の黒スマホ。光って、鳴って、まるで俺を忘れるなと主張しているようだった。確かに忘れていた。着信をとる。

「も、もしもし」

 ――バッハッハッハ、吾輩である!

「ええっと。る、るぅ、る? るーるる?」

 ――ルドセイ・ルイ・ルシファーである!

「それ」

 ――首尾はいかがであるかな? ノロクロよ。

「ちょっと、いまそれどころじゃないんで。いろいろヤバい渦中なんで。じゃ、さよなら」

 ――まぁ待て、待つがよい。吾輩が汝の状況を碌に知らずに架電したと思ったか。そんなわけがなかろう?

「え?」

 一旦離し掛けた黒スマホをきちんと持ち直して耳に当てた。

 ――汝、いま一体どこにいるのだ。

「えっと、屋敷です。住所は……」

 ――やはりまだそこに居たか。電話が通じたのは幸いであるな、しかしなぜ急に位置情報を掴めなくなったのだ。

「あの、ちょっと待ってください。話が全然みえないですよ、俺がこのやばい屋敷にいるって何で知ってんです?」

 ――汝が今取り組んでいるマクスウェル邸の案件は極めて特殊な故、吾輩としてもある程度見張っているのだ。そして汝の動きも追っていたのだが、突然黒スマホがこちらで追跡できなくなったのである。吾輩はこれを異常と判断した。ノロクロよ、いま何が起こっているのであるか。

「こっちが知りたいですよ、誰もいないと思って入ってみれば死体の山で、それが全部デリーターで、一晩明けると、白い犬のバケモンが人になって襲って来たんですよ。目の前で一人デリーターが死んで、俺も死ぬとこだったんすから……」

 ――ふむ、ん? なんだと? 汝、よもや珀斗と刃を交えたのであるか?

「逃げただけですって」

 ――それがなぜ生きているのだ、あやつめ一体何を考えている……。よもや守護者の任を離れたわけはあるまいな。いや、それとも別の意図でも? あの潔癖の女が虫一匹見逃す事など不自然である。これはどういうことであるか……。

 スピーカーの向こうでは小さな声がブツブツと呟かれ内容は全く聞き取れない。

 この間、無駄に消費していく時間に徐々に苛立ちを覚え始め、そしていい加減にしろと口を開けた瞬間、ルドセイは会話に戻ってきた。

 ――汝、いかにして珀斗を退けた。

「だから、逃げただけっすよ。結局かかと落とし食らって地下に叩き落とされましたけど」

 ――地下? なるほどそれで位置情報が途絶えたのであるか。しかし珀斗、あやつ何故とどめを刺さなかったのであるか。どういうつもりであるか……。

「あの、もういいですか! 本当にこっちは時間がないんだっての」

 ――時間……、いやまて。汝、さきほど一晩明かしたと言ったな。その間なにをしていたのであるか。

「別に、ゲームですけど。いや一人じゃないですよ、右那と。ああ、えっと右那って言うのは……」

 ――…………。

「ちょっと。急に無言になったり、ぶつぶつ喋ったり、なんなんすか。いい加減に……」

 その無言の間、ルドセイが何を思っていたかなどわかるわけもない。しかし、これを境に彼の態度が急変したのは間違いなかった。

 ――汝、いま地下研究室であるな?

「そうですけど、多分」

 ――よろしい。では吾輩の指示に従うのだ。更にもう一階層地下に降下せよ。

「待ってくださいって! いまそんな場合じゃないんですってば! いままさに右那が!」

 ――聞けノロクロ!

 そして、突然の音量に遮られた。

 ――汝の望みを叶えたくば、吾輩に従うのである。時間の猶予は保証しよう。あやつ、狛ヶ根珀斗は事を性急に運びはしない。

「……」

 一瞬考えた後、黙ってルドセイに従うべきだとの結論に至った。

 その言い方からして、おそらくルドセイはあの犬の女のことをよく知っている、その上でこちらに利益である提案ならば、聞き入れるべきだ。どの道このまま戻ったところであの犬女に勝ち目はないと、そんなことわかっている。

 

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