おまけ:「先生」の前日譚

 いつ、どこで生まれて、どうやって生きてきたのか――既にその記憶はおぼつかない。


 元々の名前も忘れてしまった。いや、もしかしたら「元々の名前」なんてものはなかったかもしれない。それくらいのことは、なんとなくわかる。


 どこか――たぶんスラム街とか呼ばれるような場所――で私はマスターに拾われた。「ようやく見つけた」。……私を……私という個を認識し、それだけを求めるマスターの声を、そのときの私はどう捉えたのだろうか?


 神様だとでも思った? ……だとすれば、それは今となっては正しい。


 私はマスターの被造物となったのだから。マスターは正しく私の創造主――神となった。


 ホムンクルス。人造の生命体。本来であれば、フラスコの中でしか生き続けることのできない人の形をした、人ではないもの。


 私の魂はその中に入れられた。それから何度も何度も、衰弱して眠るように息を止めては、また新たな肉体で目覚めるということを繰り返した。


 客観的に見れば、マスターは酷い人間――本当に人間なのかはわからないが――だろう。


 そもそも、私の元の肉体から魂を取り出したということが示すのは、殺人である。もう記憶が定かではないが、人間の私はマスターに殺されたんだろう。


 けれどもマスターを恨む気持ちもなければ、繰り返される生に嫌気が差すということもなかった。あのゴミ溜めのような場所で一生を終えることに比べれば、たまにおいしいものが食べられて、自由に本も読めるマスターとの生活は悪くはなかった。


 加えて、私の魂は生を繰り返すうちにいつしか擦り切れて、その感情は次第に鈍くなって行った。だから、私を殺したかもしれないことについては、どうでもよかったのだ。「リサイクルのしすぎだ」とマスターは言った。


 けれどもマスターは私を捨てて新しい魂を探そうとはしなかった。「ホムンクルスの肉体に適合する魂はそうない」とマスターは語った。


 それから何度か生まれて生きて死んでということを繰り返しているうちに、マスターの研究は進んだ。生きていられる期間は伸びて、外で母のはらから生まれてきた人間と大差なく動けるようになって行った。


 比例して、私の魂はまるで曇りガラス越しにでも世界を見ているように、どんどんと摩耗して行った。


 人間には喜怒哀楽があると言う。もはやそのときの私には、それすらも理解の外にあった。


「リフレッシュ休暇だ」。ある日突然マスターはそう言って、私に人間をバケモノにする技術を携えさせて、とある国へと送り出した。


 私の仕事はマスターの研究資金を稼ぐために、その国にバケモノを授け、そのバケモノたちを教導することだと言われた。その意味を、私がそうした結果の未来を、私は深く考えなかった。


 既に国はバケモノに適合する若く瑞々しい人間たちを選抜していた。彼ら彼女らは一様に私をいぶかしげに見ていた。私は自分を見た。確かに、こんな世間では小娘と言えるような人間がなにをできるんだろうと、彼ら彼女らは思ったに違いない。


 しかしこれからは私はこの目の前に入る若者たちの「先生」となるのだ。マスターから言われた言葉をそのまま告げる。……それから、私は彼ら彼女ら――教え子たちに「先生」と呼ばれるようになった。


 バケモノの世話は正直に言って大変だった。それでも赤子を相手にするよりはきっと楽だっただろう。バケモノになりたての頃はところかまわず吐いてしまうことも少なくなく、それは教え子たちにとっては恥ずかしいことのようだった。


 けれどもそうやって吐くことが少なくなって、バケモノとしての形が安定し始めれば、今度はそのまま戦えるように教えなければならない。私はバケモノではなかったから今振り返っても正直に言って上手く教えられていたのか、自信はない。ただマスターに叩きこまれた知識の全てを教え子たちに授けるだけだった。


 教え子たちはみな優しかった。だれかに望まれて生まれてきて、愛されて生きてきたんだろうと思えた。それが、私の摩耗した魂にすらまぶしく見えて。


 ……だからジルに惹かれたのかもしれない。だれからも必要とされない、ミソッカスの王子様……いつだったかそんな噂を王宮で耳にした。それを聞いたとき、彼にだけなんとなく違和感のような、シンパシーのようなものを感じた理由を察し、腑に落ちた。


 私は彼が持つ暗い部分に共鳴したのだ。


 しかしもちろん、表向き彼は普通だった。いや、むしろ王子として率先してみなを取りまとめ、熱心に私の指導を受けていた。他の教え子たちもそのうちに彼を慕うようになっていた。彼がみなの筆頭となって、取りまとめてくれていたことで、私も幾分か助けられた。


 あれは、そう、夢のような時間だった。わたしの摩耗した魂を再び磨くような――凍りついていた心を溶かすような――夢のような時間だった。


 夢はいつか覚めるものだ。教え子たちの元を去り、私は夢から覚めた。……そして戦争が始まった。


 そしてその戦争が終わったあとで、教え子たちが死んだことを知った。……しかし、彼だけは生きていた。


 彼は生き残ったが、しかしその精神は思わしくないようだった。そういうことを風の噂で聞き及んだ頃には、私の体は衰弱を始めていた。今回の寿命がすぐ近くにあるのだと知れた。


「寿命が近いから、最期に一目、彼と会いたい」。そうマスターに告げたときの彼の顔は……ちょっとおもしろかった。苦虫を噛み潰したような顔をしたのだから、会いに行くのは無理かと思った。けれどもマスターは最終的に私の願いを叶えてくれた。


「会いに行くのはいいが、すぐに帰ってこい。途中で野たれ死ぬのだけは駄目だ」。マスターは私にきつくそう言って、渋々送り出してくれた。


 道中の汽車の中で私はひとつひとつ教え子たちとの思い出を引っ張り出しては、その夢の中に浸っていた。


「命を懸けて誓います」。私に国王の暗殺未遂疑惑という、荒唐無稽な疑惑が向けられたとき、彼は率先してそう言ってくれた。


 ……私に命を懸けられる。その言葉にびっくりした。おどろいて、私はまどろみから目が覚めたような気になった。


 ……きっと、そのときに、私は少女のように恋をしたのだ。


 思い出して、気づいた。そうしてまた、私は彼に会わなければならないと思った。


 戦後世界ではもはや必要とされないバケモノである彼に、最期に遺してやりたいのだ。たとえ殺したいほどに恨まれていようとも。「お前が生きていてくれてよかった」と。


 ああ、もしかしたら、私はこのひとことを言うためだけに生まれてきたのかもしれない。……そんな馬鹿馬鹿しい思いさえ浮かぶほどに、私の心の中に彼がいることに気づいた。


 トランクを片手に汽車を降りる。ここから領主館まではまだ遠い。……そのあいだに、なにを話そうか考えよう。私は口が上手くないから、準備をしておかないと。


 ジル、早くお前の顔が見たいよ。

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