(15)

 悲鳴を上げて逃げ惑う人々の中で、俺は先生に駆け寄って先がない腕に止血を施した。脚はどうにかくっついているが、一番ひどいのは胴体だった。なにもかもがぐちゃぐちゃで、絶え間なく血を流し続けている。


 ――バケモノになれば侍医のいる王宮まですぐに駆け抜けられるな。俺の頭は冷静に判断するが、その顔は涙でぐちゃぐちゃだっただろう。


 どこか遠く感じられる喧騒の中で、幾分か小さくなった先生を抱き上げる。血と肉片がぼたぼたと地面に落ちた。こうしているあいだにも、どんどんと先生の体が冷たくなって行くような気がして、胸が不安に締めつけられる。


 今さら、バケモノになって恐れられることがなんだろう。俺はその場でバケモノへと変化へんげしようとする。


 しかし――。


「おいおい、そのまま連れて行ったら本当に死んじゃうじゃないか」


 呆れたような、少々甲高い男の声が背にかかる。振り返れば祭りでも、舞踏会でもないのに顔の上半分を覆う仮面をつけた、うろんな男が立っていた。大きなトランクを提げた男は、いつの間にか俺の背後を取り、その肩に手をかけている。


 ――この非常時に、なんだこの男は。そんな怒りが込み上げてくるが、次の瞬間には俺は呆気に取られた。


「マスター」


 先生の口元がかすかに動いた気がした。しゃべれるような状態ではないだろうに、たしかに俺の耳にはそう形作られた言葉が届いた。


 ――先生はまだ生きている!


 そう思うと早く先生を適切に治療ができる人間の元へ運ばなければ、と気がはやる。


「ちょっと待て、この場でちょいと直してやるからソイツを地面に置け。医術ならオレの専門分野だ」


 俺を邪魔するうろんな仮面の男を睨みつける。無視してバケモノになろうとし始めたところで、先生の声がまた聞こえた。


「落ち着いてくれ、ジル。このままだと本当に死んでしまう。マスターの言うことに従ってくれ」


 先生のまぶたがゆっくりと動くが、口元は一切動いていないことに気づいた。なのに、それが先生の発した言葉なのだと、なぜか俺は認識できた。


 体調が悪いときはハッキリとした幻聴を聞くことがある。今回もその類いかと思ったが、どうやら違うらしい。幻聴は支離滅裂で、そうでなければ俺を非難するような言葉ばかりが聞こえることが多い。しかし今回のパターンは初めて遭遇する。……ということは、もしかしたらこれは幻聴ではないのかもしれない。


 そこまで考えて、俺は仮面の男を二度見た。涙でぐちゃぐちゃの視界でも、男が呆れたような表情で俺を見ているのがわかった。……いや、俺と、先生を?


 喧騒が一度、耳にどっと入ってきた。地面に押さえつけられた、手投げ弾を持っていた男。せわしなく行き交う兵士たち。群衆は大混乱で、野次馬が俺たちを見守っている。


「あー……ここで治療しようかと思ったが、人の目が多いな。こりゃイカン。……仕方ない。オレが泊まっている宿に行こう」

「お前は……」

「さっきソイツから聞いただろう? オレはソイツのマスター。つまり、創造主サマってことだ」


「マスター」と名乗った仮面の男は地面に置いたトランクから布を取り出してバサッと広げる。そしてそのまま、俺の腕の中にいる先生へと被せるや、さっさと次の布を取り出す。次いで地面に落ちたままの先生の腕を布にくるんで持ち上げた。


「行くぞ、王子様。今ここでソイツを死なせるにゃあ、オレにとっても具合がわりぃ。それは王子様も同じだろう?」

「ジル、マスターは見た目はこんなんだが、きちんと信用に値する輩だ」

「うーん……被造物の言葉ではないな。まあ、いい。さあさあ、急ぐぞ」


 俺はワケがわからないままに、先生の幻聴かよくわからない声と、仮面の男の言葉に突き動かされ、震える脚をどうにか動かす。


「どいたどいた。怪我人が通るよ!」。仮面の男はそう言って野次馬を蹴散らし、一直線に道を進む。それから何度か小路を曲がり、大通りの裏にあるそう大きくない宿屋へとたどり着いた。


 俺の腕の中にいる先生は、布に覆われているので顔が見えない。ただ、ここへたどり着くまでにみじろぎひとつしなかったのはたしかで、それが俺の不安をかき立てた。


 しかしそんな俺は先生にはお見通しだったのか、また先生の声が聞こえた。


「マスターに任せておけ。多分……大丈夫だ」

「『多分』、なのか」

「存外と損傷が激しい。どうなるか……わからない」


 自然と先生を抱いている腕に力がこもってしまう。それが先生にもわかったのか、先生はもう一度「大丈夫だ」と言った。


 仮面の男はあからさまに迷惑そうな顔をした宿屋の女将となにか話していたかと思うと、その手に重そうな袋を押しつけた。中身を見て女将の態度が変わったところを見ると、その袋には金が入っていたのだろう。


「さあ行くぞ。オレの部屋は二階だ」


 先生を抱き直すように腕を動かし、俺は先を行く仮面の男の後を追った。


 そうして仮面の男が泊まっている部屋へとたどり着き、言われるがまま先生を古ぼけたベッドに寝かせる。そこで初めて先生を覆う布が血を吸っていないことに気づいた。心臓が跳ねる。先生が死んでしまったのではないかと、先生の声が聞こえるのはしょせん幻聴ではないかと、様々な不安が俺の脳裏を駆けて行った。


「じゃ、治療するから出て行ってくれ」

「それは――」

「オレの治療術は基本的に門外不出なんだよ」

「……そういうわけだ。しばらく外で待っていてくれないか?」


 また先生の声がするが、布はぴくりとも動きはしなかった。先生は生きているのか? すでに死んでいるのか? そもそも仮面の男の言っていることはどこまでが本当なのか? どこまでが現実で、どこまでが幻なのか?


 ……頭がおかしくなりそうだった。そんな俺に、また先生の声が聞こえる。どこか幼子を言い聞かせるような、優しい声音だった。


「色々と不思議に思うことは多いだろうが、マスターの治療が終わったらすべて話す。……どうしてお前に会いにきたのかも、すべて。……だから、少しのあいだ待っていてくれ」


 俺は先生のその言葉を聞いて、ようやく腹を括った。


「わかった、先生。俺は待っている。待っているから……ちゃんと後で話してくれ」

「ああ。約束する」


 そんな話をする俺たちの横で「頑張るのはオレなんだけど」と仮面の男がボヤいていた。

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