第2話 婚約者との日常 後
さて、楽しいデートの時間はあっという間に過ぎた。
二人は運動着から普段着へと着替え、施設を出た。
帰り道。
二人は手を繋ぎながら道を歩く。
「一年前までは、君とこんな関係になるとは思っていなかったよ」
ポツリ、と由弦はそんなことを呟いた。
それに対し愛理沙はクスリと笑う。
「それは私もです……昔は互いに、ぎこちなかったですね」
「はは……仲良しアピールのために、デートに行ったね」
今は仲が良いフリをする必要はない。
事実として仲良しだからだ。
「……今、聞くのも変な話だが」
「はい?」
「当時は……どうだった? 俺とデートするのはさ」
今はともかくとして。
当時の愛理沙は由弦のことが好きだったわけではなかったはずだ。
由弦の見た限りでは当時もそれなりに楽しんでくれているように映ってはいたが……
「楽しくなかったら、好きになってないでしょう?」
「あはは……まあ、それもそうか」
由弦は思わず苦笑した。
それから照れ隠し半分で頬を掻く。
「いや、まあ……総合娯楽施設とかで遊ぶ分はいいけどさ、ほら、プールとかは……最初は嫌だと思ったりしなかったのかなと」
「それは、まあ……えっ! とは思いましたけど」
愛理沙は僅かに頬を赤らめて言った。
彼氏でもない男性とプールに行くのは少しハードルが高い。
しかし……
実際に行ったということは、そのハードルを乗り越えることができたということだ。
「今にして思えば、ですけれど。……あの時から、好きでしたよ」
「え? ……そうだった?」
由弦が思い返す限りだと、愛理沙から「恋心」的な何かを感じたのは、夏祭りの時だった。
プールの時点では愛理沙が好意を抱いてくれているとは、思いも依らなかった。
「いえ、もちろん……今みたいな関係になるとは思ってもいませんでしたけれど」
「……けれど?」
「その、まあ、素敵な人だなと」
恥ずかしそうに目を逸らしながら愛理沙はそう言った。
それから、なぜか少し怒った表情で、僅かに目を吊り上げながら由弦を睨む。
「そういう、由弦さんは……どうでしたか?」
「……どうでしたか、とは?」
「私が言ったのに、由弦さんが言わないのは、不公平じゃないですか」
つまり、今から丁度一年前の時点で。
愛理沙のことをどう思っていたかという話だ。
「……そうだね」
愛理沙と恋人になりたいと思うようになったのは、いつだったか。
それを思い返すと……やはり夏祭りの後だ。
とはいえ、その前の時点で愛理沙を異性として意識していなかったわけではない。
「俺も……好きだったかも、しれないな」
「かもしれないって、なんですか」
「い、いや……まあ、あまり考えないようにしていたからさ」
愛理沙は可愛らしい女の子だ。
それは昔も今も変わらない。……もちろん、厳密には今の方が可愛いが。
これを異性として意識するなというのは、少し無理がある。
「……考えないようにしていた?」
「一応、偽装婚約という建前があったから……考えすぎると、惜しくなっちゃうだろう?」
由弦がそう言うと、愛理沙は僅かに口角を上げた。
「それで、結局、惜しくなっちゃったんですか?」
「そういうことだね」
由弦は躊躇することなく、はっきりとそう答えた。
愛理沙の手を強く握りしめる。
「誰にも渡したくないと……君が欲しくなってしまった」
「そ、そうですか」
想定していたよりも強い言葉だったのだか。
愛理沙は僅かに戸惑いの声を上げる。
「……仮にですけど」
「ん?」
「私が嫌だ―って、言ったら、どうしました?」
そんな愛理沙の問いに対し、由弦は小さく笑った。
「君に嫌だと言われても……好きになってしまったものは、好きになってしまったものだからね。そう簡単に諦めたりはしないよ」
「……頑張って私を口説くということですか?」
「それはもちろんだけど」
由弦の口角が自然と上がる。
「あらゆる手段を使って、君を手に入れてみせるよ」
「そ、それはまた……」
あらゆる手段。
その中には強引な手法が含まれていることは、言うまでもなく愛理沙に伝わった。
「そんな、由弦さんが本気になったら……」
愛理沙は赤らんだ顔を由弦に向けて。
瞳を潤ませながら。
その蠱惑的な唇を動かす。
「私、逃げられないじゃないですか」
言うまでもないことではあるが……
高瀬川と天城では前者の方がずっと力が強い。
“あらゆる手段”を使う由弦から、愛理沙が逃げることは難しいだろう。
「逃がすつもりはないよ。……これからも」
一方、由弦は冗談めかした口調で、しかし本気でそんなことを言った。
それから愛理沙に尋ねる。
「それとも逃げる予定が?」
「まさか」
愛理沙は首を左右に振った。
「私も……逃がすつもりはないですよ?」
その辺りはお互い様だろう。
由弦も愛理沙も揃って笑った。
「まあ……胃袋の方は掴まれちゃったしなぁ」
「少なくとも死ぬまでは味噌汁は作ってあげますよ」
「天国でもよろしく頼むよ」
「天国は……まあ、あったらですよねぇー。……あるんですかね?」
「それはまあ……死んでみないと」
そんな風に二人が天国について話していると……
愛理沙の家の前に到着した。
ここでお別れだ。
「じゃあ、愛理沙。また学校で……」
「……待ってください」
立ち去ろうとする由弦の服を、愛理沙は掴んだ。
由弦は首を傾げる。
「……もう少し、話していく?」
由弦としても、愛理沙と別れるのは辛い。
もう少し話していたいという気持ちはもちろんある。
……いつまでの立ち話をしているというわけにはいかないが。
「いえ、まあ、そういうわけではなくてですね……ほら、まだ、お願いをしてないじゃないですか」
「お願い……あぁ、テニスのね。うんうん、覚えているよ」
すっかり忘れていた由弦は誤魔化すようにそんなことを言った。
一方の愛理沙はジト目で由弦を睨む。
「もう……」
「えっと……それで、何かな? ……お手柔らかに頼みたいんだけれど」
由弦がそう言うと……
愛理沙は何故か、横を向いた。
そして自分のほっぺを指で指し示す。
「……愛理沙?」
「その、お別れの……その、あれです」
「……あれ?」
由弦がすっとぼけた調子で聞き返すと、愛理沙は顔を真っ赤にしながら、正面を向いた。
「だから、お別れのキ……」
愛理沙は次の言葉を言うことができなかった。
愛理沙の唇を、由弦の唇が塞いだからだ。
「……!?」
突然のことに愛理沙は目を白黒させた。
そうしている間にも、由弦は両手で強く愛理沙を引き寄せ、抱きしめた。
由弦の鼻腔を制汗剤の良い香りが擽る。
全身で愛理沙の柔らかさと、温かさを味わう。
「……っちょ、由弦さ……ん!」
身を捩らせ、抗議の声を上げる愛理沙の唇を、再び塞ぐ。
逃さないと意思表示をするように、
強く抱きしめ。
そして唇を押し付ける。
……時間にして、およそ二十秒ほどか。
由弦はようやく、愛理沙を介抱した。
「これでいいかな?」
由弦は声だけは平静に。
しかし顔を赤くしながらそう言った。
……彼もまた恥ずかしいのだ。
「……」
しかし愛理沙の方がもっと恥ずかしい。
顔を真っ赤に染めながら、由弦を睨みつける。
「……次からは、一言言ってからにしてください」
一方、由弦は悪戯な笑みを浮かべた。
「キスしろと、最初に言ったのは、君だろう?」
「わ、私がして欲しかったのは……唇じゃなくて、ほっぺで……」
抗議の声を上げる愛理沙の頬へ。
由弦は唇を押し当てた。
「これでいいかな?」
「……はぁ」
愛理沙は誤魔化すように大きなため息をついた。
そして踵を返し……
家のドアを開ける前に、由弦を振り返る。
そして怒った顔で言った。
「許してあげます」
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