chord 1「岬のキモチ」②

 部活が終わった後も、岬は教室に残っていた。窓の外は暗くなり始めていて、けいこうとうの明かりが物静かな教室を照らしていた。

 教室の後ろのスペースで、に浅くこしかけめんと向き合う。

 楽譜には全体練習やパート練習でてきされた指示が細かく書きこんであった。それを見ながら、最初からおさらいしていく。

 机の上のメトロノームの針が、左右にれながらカチン、カチンと音を立てていた。ややゆっくりの速度だ。

 それでも何度かミスしてしまう。音の強弱もまだつけられていない。所々、音程も外れてしまった。曲の始めに戻る『ダ・カーポ』の記号までたどり着いたところで、いったん手が止まる。

「やっぱり、ダメだなぁ……何度も注意されたとこ、おくれがちになるし」

 ひざにおいたタオルの上で管にまった水をいてから、楽譜に目をやる。

 岬はパンパンとほおたたいてから、もう一度トロンボーンをかまえた。

 二小節分いたところで、カラッと教室のドアが開く。

 演奏の手を止めて振り向くと、入ってきたのは要だった。

「やっぱり、桜井だ。まだ、やってんの?」

 バッグと楽器ケースを持ったまま、要は岬のそばまでやってきた。

(もしかして、さっきの下手へたくそな演奏、きかれてた!?)

 恥ずかしくなり、岬はごまかすように楽譜をパラパラとめくる。

「つぼみもまだ練習してるみたいだし、だからもうちょっとやっておこうと思って」

 てっきり先に帰っていると思っていたのに、要もどこか別の教室で自主練習を行っていたのだろうか。そうでなければ、だれかと雑談をしていたのかもしれない。

「阿久津君、今、帰り?」

 きんちようしながらたずねると、要は「んー……」と思案しながら楽器ケースとバッグを机に下ろす。

 いつの間にか止まっていたメトロノームのネジを巻き直し、机に戻していた。

 それはまた、単調なテンポを刻み始める。


「そう思ってたけど、やっぱやめた」

「え?」

「どこやってんの?」

 要はそう言うと、横から譜面をのぞきこんでくる。

 不意によせられた顔に、岬はつい緊張しながら身を引いた。

「最初から通してるんだけど……十七小節目から入るところが、やっぱりうまくいかなくて」

「あー……桜井が何度も遅れるとこ、な」

(うっ……そうです。その通りです)

 要は岬にチラッと視線を向け、いたずらっぽいみをかべた。

「じゃ、十七小節目から」

「私の練習に付き合ってたら阿久津君がおそくなるし……妹さん、待ってるでしょ?」

 要には年のはなれた妹がいる。両親が海外にいるので、家事や妹のめんどうは要が見ているようだった。だから、あまり長く引き止めるのは悪い。

だいじよう。今日は叔母おばさんとこで見てもらってるから。それより、今は桜井のほうが心配だろ?」

 そう言われてしまうと、もうなにも言えない。

 岬は「よしっ!」とつぶやいて、姿勢を正した。

 せっかく要に練習を見てもらえるのだ。トロンボーンをかまえてから、深く息を吸いこむ。

 後ろに立った要が、椅子の背もたれに手をかけるのが気配でわかる。落ち着かなかったが、演奏のほうに集中しようと気持ちを入れかえて、言われた通りに十七小節目から入った。


 それから十五分──。

 最終下校時刻まで、あと十分を切っていた。岬が吹くのに合わせて、要も足でリズムをとっている。

 メトロノームのテンポはさっきと変わらないのに、一人で練習している時よりも速く感じられて焦る。

 間違えないように吹くだけでもせいいつぱいなのに、次々と指示が飛んでくるから追いつけない。

 要が練習の時に厳しいのはいつものことだが、今日は特に細かいところものがしてくれない。

 ミスタッチをしてしまって、自信をなくした音が小さくなる。

(今日の私、いつもより下手くそだぁ!)

「そこ、フォルティッシモ」

 すかさず注意されて、思い切り強めに吹いた。

「まだ弱い。それじゃ、フォルテにもなってない……そこ、遅い。もっと音にメリハリつけて」

(わ、わかってるんだけど……追いつかないよ!!)

 岬はうなずくひまもなく、必死におんを追いかける。

 頭の中で譜面がグルグルまわって、悲鳴を上げそうになった。


 一通り最後までやり終えると精根つき果てて、岬は譜面台によりかかる。

「阿久津君、ようしやないよ……」

 ハァーと息をいて、力のない声をもらした。

(注意されたことが多すぎて、へこむなぁ……)


「当然だろ。同じパートなんだから。桜井にはがんばってもらわないと困るし」

 要の言う通りだ。一年生ですら、中学のころからの経験者ばかりだから、岬よりもうまい。

 そんな中で、いつまでも足を引っ張るわけにはいかない。

(反省しないと……)

 落ちこんでいると、今までしんけんな表情だった要にいつもの笑みが戻る。

「やっぱ、十七小節目のとこ、遅れるよな。そんなに難しい?」

「七ポジまでうでが届きにくいんだよ。六ポジでも結構、いっぱいいっぱいなのに」

 スライドと呼ばれる長い管をばしてみせると、要は「ふーむ」と思案するように腕を組む。

 トロンボーンは一から七までポジションが決まっていて、スライドを移動させて音を変える。ポジションには目印なんてついていないから、だいたいの感覚で測るしかない。


「Eの音、吹いてみて」

 言われた通り、岬はスライドを七番目の一番遠いポジションまで移動させて吹いてみる。

 つい、体が前のめりになって、要にグイッと引きもどされた。

「姿勢」

(そうでした……)

 正しい姿勢でないと、正しい音は出ない。

 なんとか腕を伸ばしたけれど、届きそうで、みように届かないのがもどかしい。

「精一杯伸ばしてそこ? もうちょっとがんばれない?」

(そうはいっても、私は阿久津君ほど腕が長くないんだよ!)

 入学したころは制服のそでで手がかくれていたけれど、これでも、手首にピッタリくるくらいには伸びたのだ。がんばっているほうだと言ってもいい。

(神様……あとちょっと、腕が伸びますように!)

 なんて、ちやなことを心の中で念じていると──。

「七ポジはこのくらい伸ばさないと」

 後ろにまわった要が、岬の手ごとスライドをもう少し先まで移動させる。

(え…………)

 背中にトンッとれた要の胸に、岬の心臓がドクンッと大きくねる。

 緊張して思わず身をかたくしながら、息をんだ。


「桜井……?」

 呼ばれたひように、指にかかっていたスライドがスルッとける。

「あっ!」

「うわっ!!」

 落ちそうになったスライドをバッとつかんだのは、ほぼ同時だった。

 思わず二人とも深く息を吐き出す。

「危っな……気をつけろよ。スライド、落として凹ませたら、修理費、結構高くつくんだぞ」

「だって、びっくり……し……て……」

 り返ると、要の顔がすぐそばにあって、岬は言葉がちゆうで切れたまま続かなくなる。

 後ろからかかえられるような体勢のまま、動けない。

 メトロノームの音だけが、シンッと静まった教室の中で鳴り続けていた。


 目をそらせないでいると、要が静かにゆっくり息を吐く。そのくちびるが動いた。

「……桜井……緊張してる?」

(するよ……するに決まってる。だって、こんなに……近いのに……)

 岬は無意識に、トロンボーンを持つ手に力をこめる。


 心臓がうるさいくらいに鳴っていた。


 要が急に真剣な表情をくずして、まんしきれなくなったように笑い出す。

「えっ、なんで笑うの!?」

「桜井がどうしよーって顔になってるから」

「あ、阿久津君が、からかうからだよ!」

 岬は真っ赤になって、勢いよく立ち上がる。

「ごめん、悪い」

 そう謝りながらも、要はまだ笑いが収まらないようだった。

「桜井、男子が苦手だもんな」

 ようやく笑うのをやめると、要も体を戻す。

 そして、メトロノームを止め、かたしに岬を見た。

「帰るぞ。夏川もそろそろ練習、終わってるだろ?」

「う……うん……」

 岬はコクンとうなずく。気づけばもう、最終下校時刻になっていてチャイムが鳴り始めていた。

 要はバッグと楽器ケースを持つと、教室を出ていく。

 その後ろ姿を、岬はトロンボーンを抱きしめたまま見つめていた。

ちがうよ……苦手じゃない」

 つぶやいた声は要の耳には届いていないだろう。

 手で押さえた自分のほおが熱くて、どうしようもなかった。


 岬が男子に苦手意識を持っていることも、どうしてそうなったのかも、要は知っている。

 一年生の時に話したことがあるからだ。

 岬がトラウマになっている『完熟トマト』事件のことも。その時、要は──。


『トマトというより、リンゴ?』


 そう言って、なんでもないよというように笑い飛ばしてくれた。

 おかげで、あの時から少しだけ昔の自分を乗り越えられたのだが──。


 男子が苦手で、こわくて、イヤだと思う気持ちが全部なくなったわけではない。

 今でもほかの男子と話すときんちようしてしまうし、うまく話せなくなる。

 けれど、要は違う。要の前で緊張するのは苦手だと思っているからではない。

(だって、他の男子だったら、心臓……こんな音しないよ)

 胸を押さえると、手のひらにトクン、トクンという音が伝わってくる。


『……岬は、告白しないの?』


 つぼみの言葉を思い出して、岬はゆっくりうつむいた。


<続きは本編でぜひお楽しみください。>

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