第27話 陳旧性心的外傷・糾

「……あぁ?

 なんだよコイツ、死にかけか?」

 尚も咳き込む娘を見た青年が言葉を漏らす。

 当の娘は喘鳴を漏らし、咳き込む度に微量の血を吐き続けていた。


「お前、こんな死に損ないの為に身体を許してるのか。なんだよそれ、くっそ笑えるわ!」

 あざけるようなわらい声は激しい交わりの中であってもよく響いた。頸動脈を絞められ続けた紫蘭の意識も既に限界が近いのだろう、首に回された青年の腕を掴む手に力が入らなくなっている。

「世話されなきゃ生きていけねぇなら、いっそ死んじまった方が楽だろうよ。

 ……なぁ、今ここで殺してやろうか?」

 もう抵抗すらされないだろうとたかくくった彼の言葉が、彼女の怒りに火を着けた。


「──……っ、あ、 ぁ……あぁっ!」

 憤怒の炎と共に沸き上がった叫びは人のソレにあらず、身を焼くほどの激情を吐き出すかのように紫蘭は青年を投げ飛ばした。無理やり上体を反らされ、首を絞められた上に挿入されているにも関わらず、彼女は青年を背負う形で投げ飛ばしてみせたのである。

 この咄嗟の出来事に反応出来なかったのか、背から壁に叩き付けられた彼は受身一つとる事すら出来なかった。

「ごっ……がは……──っ?!」

 彼の不幸は壁に叩き付けられた時点で失神しなかった事だろう。ベッドから離れた場所に叩き付けられた彼が、床に落ちるよりも早く紫蘭は動いていた。彼女は彼の頭を片手で掴むと、一切の躊躇いなくその顔面へと膝を打ち込む。

 骨の砕ける音と共に、砕けた歯の一部が血と共に飛び散り紫蘭の肌を濡らした。常人ならここで手を止めるだろうが彼女は止まらず、失神しかけた彼の髪を掴むと勢いそのままに玄関へと向けて投げつけた。

 凄まじい衝撃と共に木製の扉は砕け、青年は月明かりの乏しい薄暗闇の中へと放り出される。打ち捨てられたボロ人形よろしく地面を転がり、それは近くに残されていた切り株に当たるまで続いた。普通ここまでされて立ち上がるなどあり得ない、だが彼とて亜人種の端くれだ。

 彼は砕かれた鼻梁びりょうを抑え、よろめきつつ立ち上がる。抑えた鼻からは出血が続き、ボタボタと滴る程であった。


「お……ご……ぅぐぉ……ぐ、ぞっ……」

 青年の着古されれた衣類は泥と血にまみれ、その顔面は苦痛に歪んでいる。一目で重症だとわかる状態であっても、悪態をつくだけの気力があるのはある種の称賛に値するかもしれない。

 彼の気力は充分、されど肉体は限界を迎え今にも倒れそうである。

 そんな彼の胸ぐらを掴み上げたのは紫蘭。その表情は怒りに染まり、普段の彼女からは想像もつかないようなものであった。

「お前は────お前は、許さない……!」

「……ん、だと……くそが」

 彼女の吼えるような言葉に臆する事なく青年が答える。満身創痍だと言うのに見せる妙な余裕が逆鱗に触れたのか、空いている方の手で容赦なく青年の顔面を殴り付ける。彼女が返り血を気にする様子など微塵もなく、青年の顔から余裕が無くなるまで容赦なく殴り続けた。

「……ぶご、ぉ……ぐ」

 顔の原型が辛うじて判る程度に痛め付けられた青年は、ピクピクと痙攣を繰り返すばかり。前歯の殆んどは砕け、鼻梁はひしゃげ先程よりも激しく血を流し続けている。

 そんな状態の青年を掴み上げたまま、吼えつつ拳を振り続ける紫蘭。このまま続行すれば近いうちに必ず青年は絶命する。しかしソレすらも解らなくなる程に今の彼女は激昂していた。荒げた声は獣のように荒々しく、振るわれる拳は血によって赤く染め上げられている。

 ──もう、どちらが本当の被害者なのかわからなくなっていた。




「──止めろ、紫蘭っ!」

 怒号と共に止められる拳。

 拳を止められた紫蘭が振り返った先に居たのはメネ、この村を治める村長姉妹の妹であった。

「──……メネ、さん」

「頼むから、それ以上はやるな!

 殺しは……それだけは止めてくれ、紫蘭……!」

 彼女の懇願するような声によって漸く紫蘭は落ち着きを取り戻した。獣のような荒々しさは失われ、振りかぶった拳は力なく下ろされる。しかし彼女が青年を解放する事はなく、胸ぐらを掴み続ける腕は小さく震えていた。

「紫蘭、何があったのかは知らないが殺すのは駄目だ……コイツは私が預かる、だからこの手を離してくれ」

「けど、けど……っ!」

 青年を掴み上げる腕を握り、訴え続ける彼女に向けられた紫蘭の顔は酷いものであった。悔しさと怒りの入り交じった表情のまま、口元は小刻みに震えている。それは胸の内を叫ぶことも出来ず、さりとて声を上げて泣くことも出来ずに耐えるしかない哀しく憐れな大人のそれであった。

「よく考えてくれ紫蘭。ここでコイツを殺したらお前、紫ちゃんに顔向け出来るのか!?」

「っ……それ、……は……」

 彼女の言葉に一際悔しそうな表情を見せ、紫蘭は俯くと青年を解放した。解放された彼の意識はなく、そのまま地面へと倒れてしまう。


「紫蘭、お前は一先ず家に戻れ。

 何があったのかは、コイツが目を覚ましてから聞く。だから──……」

 そこまで言いかけて彼女は言葉を濁し、少しだけ迷うような仕草を見せる。

「……いや。お前はそんな奴じゃないよな、すまない」

 彼女は瀕死の青年を抱え上げ、そう言い残すと役場の方へと足早に去っていってしまった。一人残された私は彼女の言うとおり家へと戻り、娘の眠る寝室へと向かう。

「……っ、嘘……どうして?!」

 寝室へと入った途端に彼女は焦りを見せた。ベッドに横たわる娘の呼吸は今にも止まりそうな程に弱々しく、枕には微量の血液が染みている。

ゆかり、……ゆかり!?

 ……あぁ、そんな……なんで、何でこんな……!」

 名を呼び掛けても反応はなく、苦し気な咳を漏らすばかりの娘に彼女の顔からは血の気が引いていく。自分ではどうにも出来ない域まで来ていると悟った彼女は娘を優しく抱え上げると、可能な限り揺らさないようにして役場へと走り出した。


「セレネさん、メネさん!」

 走ること数分、役場へ着くなり紫蘭は声を張って村長姉妹を呼んだ。呼び掛けから間も無く役場の扉が開かれ、姉のセレネが現れる。彼女は紫蘭とその娘を見た瞬間にある程度の事情を察したのだろう、すぐに二人を屋内へ案内し簡易診察室へと移動させた。

「ゆ、紫は……紫は、大丈夫なんですよね!?」

「少し落ち着いて、紫蘭ちゃん」

 焦り怯えた様子の彼女をなだめつつ、セレネは慣れた手つきで娘の診察を行う。その間も娘は何度か咳き込み、微量の血を吐きだしていた。

「この出血は心配ないわ、紫蘭ちゃん。

 咳き込み過ぎて喉粘膜が傷付いただけだから、咳が治まればすぐに良くなると思うよ」

「そう、なんですか……良かった」

「まだ咳止めの薬は残っているし、そんなに心配しないでいいわ」


 そう言って彼女は腰に下げたメディスンバッグから、小さな薬瓶バイアルを取り出しその首を丁寧に折る。首を折った薬瓶バイアルの中身を絹布けんぷで濾してから娘へと少しずつ飲ませる。

 彼女は難なくやってのけているが、通常意識の無い状態の相手に嚥下させるのは非常に難しい行為だ。生物は睡眠時などに誤嚥を起こさないよう、咽頭反射という口腔内に異物が侵入した場合に吐き出そうとする作用を有している。故にそれを誘発しないよう、意識の無い相手に嚥下させるのは相当な技術が必要となるのだ。

「……うん、全部飲めたみたいね。

 これなら四、五分あれば効くと思う」

「ほ、本当ですか……?

 ありがとう……ありがとう、ございます」

 量にして大さじ二杯程度の薬液を飲ませ終えた彼女がそう告げると、紫蘭は涙混じりに感謝の言葉を伝える。



 ──……しかしそれに彼女が応えることはなく、険しいままの表情で紫蘭を見詰めていた。

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