第98話 後悔してる
「シア、何を……?」
「そのままの意味よ。ヒツジくんが告白したことを無かったことに……うぅん、私と出会ったことも一緒に暮らしたことも、ぜんぶぜんぶ、無かったことにしてあげるって言ってるの」
いつものように、はっきりとそして軽い調子でシアが言う。
どこか挑戦的な笑みを見せながら、楽しげに。
「そんなの、できるわけないだろ?」
「どうして?」
「どうしてって……」
その声音は答えがわかっているのに、
「したことを、無かったことになんてできないだろ?」
「『事実』はそうだけど、『気持ち』は無かったことにできるわ。ヒツジくんが私を忘れて、私もヒツジくんを忘れれば、最初から何もないと変わらないでしょ?」
「いや、けど……記憶喪失でもないのに……」
「そうかしら? 記憶を失わなくても気持ちは変わっていくものよ。例えばほら、私、昔ピーマンが大嫌いだったの」
「あ、ああ……?」
頷いたものの、場違いな話に戸惑う。
「でも、ある時から普通に食べられるようになったし、今じゃ
「それは……まぁ、良かったのか?」
「ま……良い悪いはおいといて、つまり好きも嫌いも変わっていくってこと。どんなに好きな気持ちがあっても、消えちゃうことってあると思うし……」
シアが、ひと呼吸だけ俺から目をそらす。
その瞬間だけは、歯を食いしばり眉根を寄せる。
「気持ちに整理がつければ『無かったこと』にできるって話」
だが、すぐに俺を見つめたシアの顔は、その一瞬が無かったことのような、いつもの笑みに戻っていた。
「ヒツジくんの後悔を、私が晴らしてあげる」
提案したときとは打って変わった、晴れ晴れとした笑顔でシアが言ってのける。
夜なのに、青空のような――聖女が罪人を
「けど、俺達がそう思ったからって周りは――」
「周りって、なぁに?」
抗おうとする俺の言葉にも、聖女はどこまでも優しく諭してくる。
「周りがどう思うかで、ヒツジくんは自分の気持ちを決めるの? じゃ、周りが『コトちゃんと付き合うのが正しい!』って言い出したらそうするの?」
「それは……」
「そりゃ納得はされないかもしれないけど、大事なのはヒツジくんと明宮さんの気持ちでしょ。『後悔しない』って自分の気持ちに従うことだと思う」
己の決断――もっとも後悔しない選択なのかもしれない。
「自分の気持ちに素直になって」
シアの囁き声を聞いていると、そうかもしれないと思えてくる。
もし、去年の祭りの時に俺と明宮がすれ違わなかったら。
『告白』をシアではなく、本来の通り明宮にできていたら。
もう一度やり直せるなら。
周りがどう言おうと自分の気持ちが納得するのなら、問題ないのではないか――?
「ね……ヒツジくん」
シアが立ち上がって俺の前に立つ。
初めて出会った桜の夜と逆だ。
ちょうど、シアの立つ場所は街灯の光の下で。俺の座るベンチは暗闇の中。
こんなふうに見えていたのか……と場違いな思考になる。
光に引き寄せられるようにゆらりと立ち上がり、ふらふらとシアに近づく。
闇から、抜け出す――
『シアの気持ちは?』
――足が止まる。
背中の闇が囁きかけたような気がした。
『忘れると言ってるじゃないか』と心が語る。
『本当に?』と闇が問う。
『シアは嘘をつかない』と心は断言する。
『本当に?』と闇がもう一度問いかける。
「……俺はさ」
「うん」
立ち止まったままシアに語りかける。
「後悔してる」
「うん」
シアは笑顔で頷く。
してやったりといわんばかりのイタズラっぽい笑みで。
「けど、シアに告白したことを後悔なんてしてない」
「え?」
貼り付けられたシアの笑顔が凍りつく。
「――シアに、こんなことを言わせた『今』を、後悔してる」
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