第1章 ある夏の一日

第1話

 この僕――真壁静流の一日は、蓮見邸の自室で目覚めるところからはじまる。


 目覚まし時計のアラームに叩き起こされ、ベッドから下りると、まずは部屋着に着替える。それから部屋を出て二階の洗面台で顔を洗い、寝ぐせだらけの髪にブラシを通した。


 そうして階下に下りると、リビングではソファに座り、ローテーブルいっぱいに広げた新聞を読む蓮見紫苑の姿があった。


 茶色がかったショートの髪に、快活な印象を受ける大粒の瞳。今どきの女子高生らしいばっちりメイクのおかげで少しばかりギャル系が入りかかっているものの、彼女は我が茜台高校が誇る美少女の双璧のひとりであり――僕の異母姉でもあった。


 母が不慮の事故で他界した後、父親を名乗る人物が現れ、僕を引き取りたいと申し出た。そうしてこの家にやってくると蓮見先輩がいたというわけだ。


「おはようございます」

「ん、おはよう」


 僕が朝の挨拶をすると、蓮見先輩は気になる記事でもあったのか、前かがみの姿勢で紙面に目を向けたまま答えた。


 改めて蓮見先輩の姿を見ると、ショートパンツに袖の短いシャツという夏色一色な恰好だった。スタイルが抜群なので、肌の露出が多くて体の起伏までよくわかるとなると、これだけで十分に目の毒だ。


「おじさん、最近当直が多いですね」


 蓮見先輩のお父さんであり僕の父親でもある蓮見氏は、娘の服装には口うるさいらしく、彼が家にいるときは蓮見先輩の恰好もひかえめになる。翻って、おじさんがいないとファッションに遠慮がなくなるのである。


 その蓮見氏は県下の大学病院で内科医をやっていて、定期的に夜間診療のため病院に泊まり込むのだ。このところ、その回数が多いように思う。


「なんか最近ひとり辞めたらしいわ」


 蓮見先輩は相変わらず紙面の文字を目で追いながら答えた。……なかなか器用だな。新聞記事を読みながら僕の話も聞いて、それにちゃんと返事をするなんて。


「それでローテーションが速くなってるんだって」

「そうなんですね」


 と、そこで記事を読み終えた蓮見先輩が顔を上げ、そのままソファの背もたれに身を投げた。そうして僕を見上げてくるが、こちらはというと自然と彼女の豊かな胸に目がいってしまい、さり気なく視線を逸らした。


「案外あたしたちに気を回してるのかもね」

「僕たちに?」


 意味がわからず、僕は首を傾げる。


「あたしたちが仲よくなるように」

「ああ、なるほど」


 僕と蓮見先輩は先にも述べたような事情で、ある日いきなり姉弟となった。そんなふたりの距離を縮めるには、荒療治ではあるが家にふたりだけにしたらいいと考えたのかもしれない。協力して家の雑事をこなせば、姉弟としての絆も生まれるだろう、と。


 だが、それが本当なら蓮見氏らしい安易な考えと言わざるを得ない。歳が近くて性別の異なる兄弟姉妹など、たいてい仲が悪いものだ。特に僕たちのように、突然姉弟として引き合わされたなら尚更だろう。


「甘いわよねぇ、うちのお父さんも。あたしたちくらいの姉弟なんて仲が悪くて当たり前なのに」

「ですね」


 そのあたりは蓮見先輩も同じ考えらしく、僕たちは意見の一致を見たのだった。


「っと、呑気にしゃべってたら遅刻するわね。……さて、朝ごはんにしますか」


 蓮見先輩がそう言って、勢いよくソファから立ち上がる。勢いがよすぎて何か揺れた気がしたが、僕はそれを見なかったことにした。


 ふたりでキッチンへ移動する。


「食パン、焼きますね」

「あ、ごめん。今日は和食にしたから、そっちはいいわ。代わりにごはんついどいて」

「わかりました」


 僕は方向転換して食器棚に向かうと、そこから茶碗をふたつ取り出した。僕のものと、蓮見先輩のもの。それを持って炊飯器のところに行けば、すでにごはんが炊き上がっていて、ちゃんと一度混ぜられていた。


 蓮見家では洋風の朝食が多いのだが、今日は蓮見先輩が気まぐれを起こしたらしい。メニューは、鮭の西京焼きに冷奴、みそ汁に漬け物……。


「「いただきます」」


 蓮見先輩らしい手抜きのない朝食がすべてダイニングテーブルに並ぶと、僕たちは同時にそう言い、箸を取った。


 まずは食べることに集中する。


「あのさ――」


 しばらくして蓮見先輩が口を開いた。


「もうすぐ夏休みだけど、静流はどうするの?」

「瀧浪先輩とのことですか?」


 質問は実に曖昧で、僕は思わず問い返す。


「ち、ちがうわよっ」


 ちがったらしい。


「だから、その……」


 蓮見先輩は改めて問おうとするが、どこか言いにくそうだ。


「帰省とかって、するの?」

「ああ」


 理解するとともに、蓮見先輩が言い淀んだ理由もわかった。母を亡くしたばかりの僕に、家のことは聞きにくかったのだろう。


「近況報告と挨拶を兼ねて、日帰りで顔を出してこようと思ってます」


 実は我が家に帰省という習慣はない。何せ母はシングルマザーで、家族や親戚一同には父親が誰かを頑なに明かそうとしなかった。それ故に親類縁者からあまりよく思われておらず、祖父母とはたまに電話でやり取りをするのみだった。


 とは言え、母が亡くなり、僕は突然現れた父親を名乗る男性のもとで厄介になっている。きっと心配しているだろうから、近況報告くらいしておこうと思うのだ。


「そう」

「そっちはどうなんですか?」


 今度は僕が尋ねる。


「うち? うちは毎年実家に帰ってる。特にお父さんちのほう」


 蓮見先輩はそう言い――そして、母方の実家については触れなかった。


 難しいものがあるのだと思う。亡くなった妻、或いは、亡くなった母の実家とのつき合いは。


「ということは、今年も?」

「たぶんね。とは言え、まさか静流をつれていくわけにはいかないし」

「でしょうね」


 人の好い蓮見氏でもさすがにそれはやらないだろう。


「じゃあ、僕はその間――」

「留守番よ」


 蓮見先輩は僕の言葉を遮り、そう告げる。


「あんたはこの家で留守番」

「……」


 僕はその間、真壁の家に戻ってます――僕が言おうとしたのはそれであり、彼女が言わせまいとした言葉もそれだった。きっとそういう気の遣い方をしてはいけないのだ。


「わかりました。言いつけ通り家の掃除と洗濯をしておきます」

「シンデレラの意地悪な姉みたいに言うんじゃないわよ。そんな言いつけ、誰もしてないでしょうが」


 蓮見先輩は苦笑いしたものの怒ることはなく、止めていた手を動かして食事を再開した。


「でも、夏休みの前に期末テストですけどね」

「仕方ないわ。それが高校生というもの。それこそその向こうには夏休みが待ってると思って我慢するしかないわね」


 蓮見先輩は食べる手を休めず、あっさりと答える。この人もまた瀧浪先輩と同じで、定期テストを大きなイベントとは思っていないようだ。


 と、そこで蓮見先輩は何かを思い出したように、


「その夏休みだけど、やっぱり瀧浪さんとプールに行ったりするわけ?」

「あの人はそんなことを言ってますね」


 かなり息巻いている。うっかり押し切られないようにしないと。


「なに? あんた、いやなの?」

「いやに決まってるでしょう。……と言ったら本人に悪いですね。でも、できれば遠慮したいです」

「何でよ? 男としちゃ願ったり叶ったりでしょうが」


 納得がいかない様子で蓮見先輩は聞き返してくる。


 蓮見先輩という破格のプロポーションの持ち主がいるからどうしても霞んでしまうが、瀧浪先輩もスタイルがいいほうだ。そんな彼女とプールや海に行くなど、目の毒なのがわかっているだけに及び腰になるというもの。


「あたしには見たい見たい言ってるくせに」

「本気にしないでくださいよ。冗談なんですから」


 確かに僕は何度かそういうことを言ったことがあるが、当然ぜんぶ冗談だ。そんなことを面と向かってお願いできるほど神経は太くない。


 だが、そう答えたときだった。


「は?」


 蓮見先輩が短く発音。険しい顔で僕を見据える。

 気のせいか、カッチーンという音が聞こえた気がした。




「冗談? え、なに? あんた、あたしの水着姿なんか見たくないって言うの?」

「逆に聞きますが、見たいって言ったら見せてくれるんですか?」




 誰も見たくないとは言っていないと、こちらもむっときて、僕は売り言葉に買い言葉で思わず言い返す。


 と、その直後、蓮見先輩は「え?」といった顔になり、目を右へ左へ泳がせた後、斜め下へ顔を向けて何やら考え込みはじめる。


 やがて、


「ごめん。ちょっと考えさせて」

「だから考えなくていいですって」




          §§§




 食事が終わると、リビングで少し休んだ後、僕は再びキッチンに戻って食器を洗う。尤も、最後には食洗器に放り込むので、軽く流す程度だけど。


 先の朝食のメニューを見てわかる通り、蓮見先輩は料理が得意でレパートリーも豊富だ。しかし、その一方で後片づけはあまり好きではないらしい。結果、この蓮見家で厄介になって一ヶ月、ようやく家事の手伝いをさせてもらえるようになった僕のメインの仕事は食事の後片づけとなったのである。


 シンクで食器を洗う僕の隣では、蓮見先輩が鼻歌交じりで弁当を作っている。


「楽しそうですね」

「んー? まぁ、ほら、最近はあんたがいるから」


 機嫌よさそうに答えた彼女だったが、そこで何かに気づいたようにぴたりと動きを止め、弾かれたようにこちらへと振り返った。それを視界の隅で捉えた僕も、蓮見先輩へと向き直る。


「べ、別にあんたのためにお弁当を作るのが楽しいってわけじゃないからっ」

「誰もそんなこと言ってないじゃないですか……」


 何でこう、時々ベタベタな反応をするのだろうな。


「いやさ、静流がうちにくる前はあたしとお父さんだけだったでしょ? そしたら今日みたいにお父さんが当直でいなくてあたしだけだったら、自分ひとりのためにお弁当を作るのもどうかなって思うのよ」


 蓮見先輩はばつが悪いのか、なかなかに文字数の多い台詞をやや早口で言う。

 僕はそれを聞きながら、再び手を動かしはじめた。


「だからって、学食っていうのもね。手間だけどお弁当を作れば安く上がるんだからさ」


 そこは選択の問題だろう。手間と時間をかけて安くおさえるか、お金を払って楽をするか。こんな大きな家に住んでいる医者の娘だから経済面では苦労してないだろうに、金銭感覚は庶民的のようだ。


「でも、あんたがいれば考える余地がなくて楽だわ」

「なるほど。そういうことでしたか」


 と、僕は相づち。


 男前で思い切りのいい蓮見先輩だが、それぞれ一長一短あってどちらでも正解という選択は苦手なのかもしれない。


「こちらは終わりました」


 洗った食器を食洗器に入れ、スイッチを押して稼働させたところで僕は蓮見先輩にそう告げた。


「ん、ありがと。じゃあ、準備してきなさい。お弁当は作っとくから」

「わかりました」


 まだ弁当を詰めている最中の彼女に言われ、僕は先に二階へ上がることにした。




 自室に戻ると制服に着替え、制鞄の中身を確認したりして登校の準備をする。


 うちは母子家庭で母は当然専業主婦ではなかった。蓮見先輩は四年ほど前にお母さんを亡くした。お互い家のことを親に任せっきりにできる生活を送ってこなかったので、朝は余裕をもって起きる癖がついているのだ。だから、バタバタすることもないし、こうして家を出る前に忘れものがないか確認もできる。


 ゆっくりと登校の準備をし、ついでに少しスマートフォンをさわってから一階に下りる。と、リビングでは僕より後に自室に戻ったはずの蓮見先輩が、すでに制服に着替え、ソファに腰を下ろして本を読んでいた。僕と家を出るタイミングをずらすための時間潰しだ。


 目には眼鏡。相変わらずよく似合っている。


「弁当、ありがとうございます」

「ん」


 キッチンのテーブルの上を見れば弁当箱が置いてあって、僕はお礼を言いながらそれを手に取った。蓮見先輩からは短い返事。


 その弁当を鞄に入れて振り返ると、蓮見先輩がちょうど読んでいた本をローテーブルに置くところだった。


「静流、図書委員でしょ? なんかいい本ない?」


 そう僕に尋ねる。

 もしかしたらたった今、その本を読み終えたのかもしれない。


「時代小説でよければ。士総一郎という作家の本が面白いですよ」


 我ながら見事な身内贔屓である。


「あんた、女のあたしに時代小説を勧めるわけ?」

「時代小説に性別は関係ないでしょう」


 かつては刀剣を擬人化したゲームをきっかけに刀や鍛冶に興味をもつ女性が続出した時期もあったらしいし、それに比べれば歩いて跨げるくらいに敷居は低い。


「それに書いている士総一郎は女性ですよ」

「ちょい待ち。総一郎よね? 何で女だってわかるわけ?」

「それは、まぁ」


 僕は口ごもる。


「ああ、でも、女みたいな名前の男の作家もいるわね。それを文芸雑誌やなんかで明かすってこともあるか」


 幸いにして、蓮見先輩は自分で結論をつけてくれた。


「じゃ、それでいいわ」

「わかりました。近いうちに家から取ってきます」

「え? 図書室じゃないの?」


 思わぬ展開に間の抜けた声を上げる蓮見先輩。


「ええ、図書室の蔵書じゃないです」


 というか、学校も今年は図書室に予算を割くつもりはないらしく、そもそも普段からあまり新規購入の図書が入ってこないのだ。それに士総一郎の作品は自分で買って、手もとに置いておきたい。


「まぁ、いいわ。今度貸して」

「じゃあ、週末にでも」

「あ、でも――」


 話はひとまずまとまったので、そろそろ学校へ行こうとリビングの出入り口に体を向けたときだった。蓮見先輩が付け足すように言葉を発した。


「えっと、その……」


 今度は彼女が言い淀む。

 だが、そうしていたのもわずかのことで、すぐに次句を継いだ。


「家に戻るのが辛かったらむりしなくていいから」

「……」


 なるほど。躊躇った理由はそれか。


 あの家に戻ってももう母はいないからだろう。僕に留守番を言いつけたのも、同じ理由なのかもしれない。


「大丈夫ですよ。……では、いってきます」


 僕は異母姉の気遣いに感謝しつつ、笑って答えた。

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