その3 姉弟喧嘩?

「どうしよう、貴理華さん。静流とケンカしちゃった……」


 カフェに入るなり、あたしは貴理華さんに泣きついた。


「はいはい、紫苑ちゃん、ちゃんと聞きますから。まずは座って、注文をお願いしますね」


 すごくちゃっかりしたなだめ方をされた。


「ついてきてなんて言うわりには理由を言わないと思ったら……なに、そんなことなの?」

「う、うるさいわね。今日は、瀧浪さんには静流のところに行ってほしくなかったのよ」


 テーブル席につくなり瀧浪さんに呆れたように言われ、あたしはむっとしながら言い返した。


「何のことやら」


 さらに呆れる瀧浪さん。


「で、何があったんですか?」


 そこに貴理華さんが頼んでもないアイスコーヒーを運んできた。この暑さの上、いつも同じものを注文しているので、もうわかり切ったプロセスは端折ってしまったようだ。


「えっと……」


 さぁ言えと言われると、それはそれで口にするのは躊躇われ――あたしは無駄な時間稼ぎのように、グラスにミルクとガムシロップを垂らした。


 そうしてから意を決し、




「……静流に裸を見られた」




「はぁっ!?」

「あらら……」


 直後、瀧浪さんは飛び上がるほど驚き、貴理華さんは可笑しそうに苦笑した。


「あなた、何やってるのよ!?」

「見られたあたしが怒られるの!?」


 さすがにそれは理不尽のような。


「どうせ蓮見さんのことだから、調子に乗ってバスタオル一枚でウロウロしてたら解けて落ちたとかじゃないの?」

「あー、それ、わたしに流れ弾が飛んできますので……」


 不意に貴理華さんがぽつり。


 意味がわからずあたしと瀧浪さんが貴理華さんを見ると、彼女はばつが悪そうに顔を背けた。


「それで、どういう状況だったの?」


 しばらくの沈黙の後、瀧浪さんが改めて切り出してくる。


「あたしがお風呂に入ろうと脱衣所で服を脱いでたら、静流がドアを開けちゃって……」

「鍵は?」

「うち、どういうわけか鍵がついてないのよね」


 それが異常かどうかはよくわからない。よその家のことは知らないし。正直、家族が暮らす家の中に、あっちもこっちも鍵がついているほうがおかしいとも思っている。


「紫苑ちゃんはどんな恰好だったんですか?」

「最後の一枚を指で引っかけて、足から抜こうとしているところ……」

「裸じゃない!?」


 瀧浪さんが悲鳴を上げた。


「だから最初からそう言ってるでしょうが」

「言ったけど……」


 瀧浪さんは不満そうに口ごもる。


「だ、大丈夫だって。あたし、背中を向けてたから。それにほんの一瞬だったし」


 どうしてあたしが言い訳のようなことを口にしてるのだろうか。


 実際、




 ガチャ


「あっ」

「え?」


 バタン!




 くらいの感じ。


 あたしが振り返って静流の顔を見る間もなかった。その後あたしは、後ろに跳ね上げた右足から下着を引き抜こうとしている態勢のまま、しばらく固まっていたけど。……我ながら体幹がすごい。さすが元アスリート。


「静流がどこを見てたかにもよるけど、もしかしたら背中を見られたくらいですんでるかもしれないわね。傷は浅いわ」

「でも、ナマのお尻まで見られてるってこともありますね。かなりの深手です」

「う……」


 瀧浪さんの言葉に希望を見出し、貴理華さんのひと言で叩き落される。……どちらも昨日から延々考えていたことだけど。


「最悪、角度によっては胸も、という可能性がありますね。ほら、紫苑ちゃんは大きいですから、斜め後ろくらいからでも見えるかもしれません。これは致命傷です」

「え? う、嘘……?」


 それはまったくの想定外だ。思わずあたしは自分の体を抱き、ぎゅっと胸を引き寄せる。


 ショックを受けていると、どういうわけか瀧浪さんがむっとした様子で口を開いた。続いて、貴理華さんも。


「それで、最初にケンカしたって言ってたけど、静流を怒鳴り散らしたの?」

「それとも引っ叩いちゃいましたか?」




「ううん。気まずくて顔を合わせてない……」




「ケンカしてないじゃないの!?」

「してませんねぇ」


 瀧浪さんが怒ったような声を、貴理華さんが呆れたような声を出す。


 非があるのは静流なのかもしれないけど、それを怒ろうにも恥ずかしくて顔を合わせられないでいる。今朝は早起きして、弁当を詰めたら静流が起きるよりも先に家を出てきた。おかげで登校まで時間を潰すのが大変だった。


「このままじゃ静流だって釈明も弁解もできないから、気まずいなんて言ってないでちゃんと面と向かって話したら?」

「それしかないわよね……」


 あたしは観念したように言い、アイスコーヒーを飲んだ。……胸を見られた可能性まで出てきて、状況は悪化している気がするけど、いつまでも避けてはいられない。静流が謝って、あたしが許すというのが唯一無二の落としどころなのだから。


 そこで何やら考えていたふうの貴理華さんがひと言。




「それで一緒にお風呂ですね」




「どうしていつもそうなるんですか!?」

「あ、もちろん、水着を着てですよ? 紫苑ちゃんはできるだけ大胆なほうがいいですね。そうやって普段から目を慣らしておけば、いざというときに『あ、いつも見てるのと大差ないか』って感じですみます。お風呂でゆっくり話でもすれば、姉弟の仲もよくなって一石二鳥です」


 貴理華さんは自信満々で言う。


「えっと、そういうもの……かな?」


 言われてみれば一理あるような気がする。


 と、考えているときだった。貴理華さんと瀧浪さんが、ひそひそと何ごとかを囁きはじめる。


「手の届く距離にナイスバディで大胆水着のお姉さんがいたら、静流くんもイチコロでしょうね」

「道ならざる恋ですね」

「絶ッ対にやらないから!」


 あたしは力いっぱい叫んだ。


 どうしてこのふたりは、ことあるごとにあたしを変な考えに導こうとするのだろう。乗せられやすいあたしも悪いと思うけど。


 


 結局この日は、幸か不幸かお父さんがいて、静流と顔を合わせてもぎこちないながら表面上の会話はできた。決定的な話は切り出せなかったけど。


 家族三人の夕食が終わると、あたしも静流も早々に部屋に戻った。


 階下からは「どうしたんだ、ふたりとも。久しぶりに私がいるのに」と、お父さんのオロオロする声が聞こえてきたけど無視した。




          §§§




 翌日の朝、

 やっぱりあたしは早起きをして、静流と顔を合わせる前に家を出た。


 我ながら往生際が悪い。


 


 そうして昼休み。

 学食の自販機コーナーで、静流とばったり会った。


「「あ……」」


 わたしたちは向かい合ったまま、思わず固まる。

 静流の顔が赤い。きっとあたしも同じ顔をしているにちがいない。


「す、すみません。それじゃ……」


 先に動いたのは静流。あたしの横をすり抜けて、足早に去ろうとする。


 が、あたしはその腕を咄嗟に掴んだ。


「ま、待って、しず……真壁くん」


 学校では姓で呼ぶようにしているけど、うっかりいつもの呼ぶ方が出そうになった。


 まずは深呼吸。




「後で大事な話があるの。……今日、お父さんいないし」




 そして、意を決して言ったら上を下への大騒ぎになった。


 収拾が大変だった。




          §§§




 家に帰って夕食の準備をしていると、静流がいつもの時間に帰ってきた。


 早くもなく、遅くもなく。

 早くカタをつけてしまおうとも思わず、無駄な時間稼ぎもしなかったらしい。


「……ただいま戻りました」

「あ、うん。おかえり」


 昼間とはちがって、ここで会うのはわかっていたから、心の準備はできていた。それは静流も同じだったようだけど、互いに少なからず顔が赤かった。


「こういうのは早いほうがいいから」


 と、あたしは前置きして、三人掛けのソファを指さした。たぶん後回しにしたところで、味のしない夕飯を食べることになるだけだ。……いや、二日も逃げ回っていたあたしが言うことではないかもしれないけど。


「そこ、座って」

「はい……」


 静流は制服のまま素直に腰を下ろす。続けてあたしも斜め前の、ひとり掛けのソファに座った。


「一昨日のことだけど――」

「すみません。考えごとをしていたのと、てっきりもう蓮見先輩は上がったものと思い込んでて……」


 あたしが何かを言うよりも早く、静流は頭を下げた。……まぁ、原因はそんなところだろうと思っていた。あたしだって毎日やっていることなら、たまに昨日や一昨日の記憶と混同することがある。


 そもそも鍵がないのが悪いという話もあるかもしれない。お父さんは娘の気持ちには頓珍漢な人だけど、礼儀やマナーみたいなことにはきっちりしている(……浮気はしたけど)。脱衣所は当然のこと、二階の洗面所ですら、あたしがいる可能性がある場所に入るときはノックをする。どんなに幼いころの記憶を手繰り寄せても、ノックもなしに娘の部屋に入ってきた場面はなかった。


 だから、これまで鍵の必要性を感じなかったのだ。


「次から必ずノックすること。いい?」

「……はい」


 静流は反省したようにうなずいた。


 この話はこれでいい。人間のやることだから絶対はないけど、静流なら一度失敗すれば十分だろう。


 本題はここからだ。


「それで、その……」


 と、あたしはおろるおろる切り出す。


「み、見たの……?」

「え?」


 静流がぎくっと体を震わせた。


「……見たの?」


 今の反応で大方の予想はついたけど、あたしはすごむようにして返事を求めた。


「み、見ました」

「どれくらい?」

「えっと、距離があったので、全体像が視界に……」

「……」


 静流の言葉を最後まで聞く前に、ふうっと意識が遠くなった。あたしはソファにばったり倒れ込む。「でも、一瞬のことでしたからっ」と言い訳をする静流の声も、どこか遠くから聞こえてくるようだ。


 全体像。

 つまり背中も、その下の……。


 深手だ。

 傷は深い。


 確かさらに先の可能性があったような気がするけど、これはもう確かめられない。確かめて致命傷だった場合、あたしは立ち直れない。


 ゆっくりと起き上がると、あたしは静流に聞いた。




「見て……その、どうだった……?」




 あれ? 何を言っているのだろう……?


「ど、どうって……?」

「そんなの言わなくてもわかるでしょ!?」


 逆ギレ気味に言葉を重ねると、静流は真っ赤になりながら口を開いた。


「せ、背中がすごくきれいでした。思わず触れたくなるくらい。その下も……かたちがよくて――」

「いやーっ! あんた、なに真面目に感想を言ってるのよ!? バッカじゃないの!」


 あたしはそばにあったクッションを手に取ると、静流に襲いかかった。バムバムと静流を殴打しまくる。


「言えって言ったのは蓮見先輩のほうじゃ――」

「わかってるわよ、そんなこと!」


 まさかそんな恥ずかしい感想が返ってくるとは思わなかったのだ。背中が触れたくなるほどきれいとか。お、おお、お尻のかたちがいいとか。何が一瞬だけだ。一瞬でもそんな感想が出てくるくらいしっかり見てたのではないか。




 そうして五分ほど静流を叩き続け――あたしたちはぜぇぜぇと息を切らしながら、ソファにぐったりと座っていた。埃が舞っている。幸いにしてクッションは無事だった。今度天気のいい日に干してやらないと。


 とりあえず、これくらいで許してやろう。例の話もこれでお終い。蒸し返してもどちらの得にもならない。


 まったく。どうしてこうも変なところでバカ正直なのだろう。そもそも最初から見ていないと答えていれば、その様子がどれだけ挙動不審でも、あたしは納得しただろう。嘘っぽくても、飲み込んでしまうほうがお互いのためだ。


 誠実と言えば誠実なのだろう。だけど、その誠実を貫いて、恥ずかしい思いをしていれば世話はない。


「あの、やっぱり鍵をつけたほうがいいんじゃないでしょうか?」

「却下よ」


 静流の提案に、あたしは即答した。


 たぶん鍵つけるのに手間もお金も、さほどかからないだろう。ドアノブを取り換え、その周辺に少し手を加えるだけですむ。防犯のためではなく、ただ単に人が入っていることさえわかればいいのだから、ホームセンターで買ってきた簡易な外付けの鍵でもどうにかできるかもしれない。


 だけど、だ。

 静流がきてからこの家に鍵が増えるなどあってはならない。


 だから、却下。


「じゃあ、プレートはどうです?」

「プレート?」


 いったいどんなものだろう? 興味が出てきて、体を起こす。静流も背もたれから体を離した。


 あたしたちは三人掛けのソファに並んで座り、互いに体を内側に向けている。こんな座り方をしたことはなかったので、少し新鮮だ。


 いつもより近い距離で、静流は右の掌を表に裏にヒラヒラさせて説明する。


「表が『入浴中です』、裏が『どうぞ』みたいな」

「ああ、そういうやつね」


 そこまで言われて、ようやくイメージできた。そんなにぴったりものがあるかはわからないけど、『在室中』『不在』でも十分に用を成す。


 と、そこで閃いた。


「じゃあ、今度三宮のハンズにでも探しにいきますか」

「え? 僕もですか?」

「当たり前でしょ。静流のアイデアなんだし、家族全員が使うものなんだから」


 静流を連れ出さないとはじまらない。


「だったら、おじさんも」

「あ、お父さんはいいの。邪魔にしかならないから」

「ひどい言い方を……」


 静流は苦笑い。


 三宮には悪い思い出がある。あたしの軽率な言動のせいで相手を怒らせ、その結果、静流が大ケガを負ったのだ。


 その思い出を上書きしたい。


 ハンズで目的のものを見つけたら、どこかでソフトクリームを食べよう。


 それから服も見たい。

 この夏は背中が大きく開いたやつなんかどうだろう。




          §§§




 後日、

 カフェにて。


「よくそんなのを買ったわね……」


 静流と出かけた先で買った服の話をしたら、瀧浪さんが呆れたような声を吐き出した。


「そう?」


 買ったトップスはホルターネックで背中が半分くらいまで見えているけど、夏ならこんなものではないだろうか。


 と、そこで話を聞いていた貴理華さんが面白がるように口をはさんできた。


「どうします? 静流くんが背中を触らせてくださいって言ってきたら」

「え……?」


 思わぬひと言。


 それはまったく想定していなかった。


 思い返してみれば静流は、さわりたくなるくらいきれいだと言っていた。その静流の前でこんな服を着ていたら、そういう衝動に駆られてもおかしくない……?


 あたしは必死で頭を巡らせた。


「ど、どうしよう、瀧浪さん。変な声が出ちゃったら!?」

「知らないわよっ」


 彼女はお冷やの入ったグラスに片手を伸ばしながら吠えた。

 

 

 

【お知らせ】

1.次回の更新は、9/28(月)の予定です(今度は遅れないようにします)。

2.書籍版はファミ通文庫から、9/30(水)に発売です。

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