10-10 真理
服を脱ぎ上半身を晒した俺の前で、
「神石をそのまま触れると、いたずらに生命力や魔力を吸収されます。ですので、先んじてイアン様の体に、この封印の間の術式を転写いたします」
「俺の体を、術式の一部とするんだな」
「そうです。その上で、神石をイアン様の胸部へ移動させます」
そして彼女が術式を書き換え、封印から融合へと変化させる。
すると結晶は俺の体に潜り込んで、内包した力を俺の全身へと流し始めるわけだ。
「魔石であれば体内魔力の流れに異物が混ざり込むため、全身を苦痛が覆い、拒絶反応で臓器や神経に過大な負荷がかかります。これは、神石であっても同じです」
それだけでもぞっとしないというのに、神石の移植においてはさらに危険が伴う。
「この世界とは次元の異なる存在です。精神、そして魂自体も汚染されましょう。心を強く保ち、常に自分が何者か、意識し続けてください。でなくば、以前のあなた様には戻れないかもしれません」
せっかく覚悟を決めたのに追加で脅すの、やめてくれない?
「それでも、これが一番、確実な手なんだろう?」
「はい。エンパシエの長として提示できる、最善の手段と存じます」
もしかしたらどこかの国には、もっと安全な方法で魔王に対抗するすべが眠っているかもしれない。
だが、それを探している時間はなかった。
であれば今の俺の伝手で頼れるのは中で最も博識、かつ善良な巫女姫を信じる他はない……いや、信じる、というのも少しおかしいか。
やると決めたのは俺だ、彼女には、こう答えなきゃいけない。
「姫様の提案が間違いじゃあなかったと、証明しないとな」
「……お願いいたしますね」
ニマ=ソナムは唇を笑みの形にはしたものの、囁く声は、懇願するような響きを帯びていた。
失敗すれば俺は、彼女の手によって死ぬことになるのだ、そりゃ深刻にもなるか。
それ以上の言葉はなく、巫女姫は詠唱を始める。
幼い声が唸りに似た韻律を紡ぎ、小さな指が複雑な印を組むのに合わせ、周囲の魔術陣が解けていった。紋様と文字とが床や壁や天井を蠢き、一部が俺の足下から這い上がってくる。
思わず声を上げそうになるが、どうにか堪えた。
いつしかニマ=ソナムの顔には玉の汗が浮かび、極度に集中しているのが見て取れる。その邪魔をしてはならない。
つるつるした虫が這い回っているような気持ち悪さに耐えているうち、胸の中央、鳩尾の上あたりに熱感を覚えた。
見れば、空中に浮かんでいた双角錐がゆっくりと近づいてきている。
熱さと痛みを伴って急速に高まっていき、焼き鏝を押しつけられたかごとき苦痛とともに、神石が俺の胸に接触した。
「が……あ……!」
かろうじて、悲鳴を噛み殺す。押しつけるどころの話じゃない、灼熱の鉄棒を胸に突き刺して、かき回されているみたいだ。
奥歯を食いしばり必死に耐える、思わず胸を掻きむしりそうになるが、万が一にも術式を阻害するわけにはいかない。
その場に座り込んで転がり回りたいほどの痛み、だが全身が痙攣し膝を折ることができなかった。
がくがくと震える全身から汗が吹き出るが、むしろ背筋には怖気が走っている。
吐き気がこみ上げ、堪えきれずに口から出すと、どす黒い血の塊だった。
「あ……が……おげ……っ?」
「イアン様っ! 耐えてくださいっ」
切羽詰まった巫女姫の声が、やけに遠くから聞こえる。
視界が暗転した。目の前を黒い幕が覆って、色が逆転する。
体を支えきれず、その場に崩れ落ちた。
腰から下の感覚がない、足、足は残っているのか。
胸が痛くて熱い、だが全身は寒くて、まるで熱さと痛みそのもから、俺の体が生えているかのようだ。
苦しいのに、なにが苦しいのかを認識できない。
かひっ、かひっ、と無様な咳き込みがどこからか漏れている。
呼吸、できているか? なにかがだらだらと流れている、呼気か汗か涙か涎か血か糞尿か、どこからなにが出ているか、まるでわからない。
痛い、熱い、苦しい。
痛い、いたい、イタイ。イタイイタイ、イタイ。
悲鳴を上げたいのに、口が開かない。
いや、開いているのか? それすらわからない。
「……! ……まっ!」
誰かの声が聞こえる。声、だろうか?
だがその音が肌に触れるだけで、また新たな激痛が波のように全身を包む。やめてくれ、黙ってくれ。
もう嫌だ、こんなに痛いのは、もうたくさんだ。
どうすればこの苦痛から逃れられるか、必死で考える。一刻も早くそうしなければ、狂い死にしてしまう。
そうだ、この熱さの源を引っ剥がせばいいじゃないか。
こんな単純な思いつきが出てこなかったことに苛立ちながら、手──手だよな?──を伸ばし、痛む周囲に指を突き立てる。
こいつを肉や骨ごと、むしり取るのだ。
そしてどこかに放り捨ててしまえば、さぞやすっきりするだろう。
本当か?
そうしてしまって、良かったんだろうか。
なにか理由があって、俺はこの灼熱と激痛に耐えているのはなかったか。
ああ、だが、痛い。
熱くて寒い。
つらい。
助けてくれ、誰か助けてくれ。
誰なら、誰なら助けてくれるんだ?
目を閉じているのか開いているのかもわからない闇の中で、少女の顔が浮かぶ。
勇者の、聖女の、魔女の顔が。
助けてくれ、アレクシア。
──マチガウナ。
助けてくれよ、マルグリット。
──マチガウナ!
俺を助けてくれよ、キャロライン。
「マチガウナッ!」
叫ぶ。
切望し懇願する心の底からの思いを、己のどこから出ているかもわからない怒鳴り声で、かき消す。
「俺ガ! アイツラヲ! 助ケルンダッ!!」
無意識に
肉体の強度が増したことで、多少は苦痛に抵抗できたのか、錯乱していた意識が取り戻された。
相変わらず激痛は胸を、全身を支配している。だが思い出した、その理由を。
そうだ、間違うな。
俺はこの苦痛から逃れたいんじゃない、こいつにどうにか耐えきって、愛しい少女たちの下へ駆けつけるんだ。
助けを求めるのはいい、俺にできることは少ない。
だけど、そいつは今じゃない。
幸い、どうにか堪えられるくらいには、熱さと痛みが鎮まってきた。
叫んで暴れて悶えて、みっともなくたって足掻いて藻掻いて、耐えきってやる。
「イアン様っ。ご無事ですかっ!?」
「イアン殿っ、しっかりするでござるっ!」
かすむ視界に向こうで巫女姫と、なぜかサザンカが焦った声を上げている。
おとぼけ娘はともかく、ニマ=ソナムも動揺することがあるんだなあ……。
だがそれ以上は観察することができず、俺の意識は闇に沈んだ。
* * *
万華鏡のように、様々な景色が移ろい色を変え、膨らんだり縮んだりしている。
遠いような近いような、多いようなたった一つのような。
卵を割って鳥の雛が生まれる。水面を跳ねた魚に虫が食われる。二匹のなめくじが絡み合う。突進する犀が獅子を轢き殺す。腐った倒木に茸が群生する。山肌にへばりついた蜥蜴が乾き死ぬ。牛が草を食む。猿が溺れて白目を剥く。蝶を網にかけた蜘蛛が豪雨に押し流される。
生と死が無秩序に、無作為に繰り返され、俺の前に現れては消えた。
それらの情景が極彩色に染まり、太くぐねつく輪郭を持ち、溶けて混ざり合って新たな形を作り、幾何学模様を描き、波打って流れて膨らみ弾け、粒状になって固まり解け、高速で移り変わりところどころで停滞し、音になって光になって手触りを残し臭気を放ち、金属のような海綿のような粘液のような岩のような、はっきりと曖昧で明瞭かつ暗く、愉しげに激怒する泣き顔で微笑を浮かべる女の顔になり、老爺になり、幼児になり、無数に並んで、一人になった。
いつしかその全てが瞬く星へと変わって、俺は虚空に浮かんでいた。
星空のただ中で俺の体は分解され、意識はどこまでも広がっていく。俺は宇宙で、宇宙とはすなわち俺だった。
そうか。こんな単純で、複雑なことだったのか。
全てがわかり、あらゆるものが理解できなくなった。
何万年という時間が瞬く間に過ぎ去り、一秒が永遠に続く。俺は満ち足りていて、孤独だった。
誰かに、会いたいと思った。
アレクシアに、マルグリットに、キャロラインに、会いたい。
もう一度、会いたい。
だから。
帰ろう。
* * *
目を開けると、薄日が差し込む板張りの部屋だった。
俺は簡素な寝台に寝かされて、木製の天井を見上げている。
首を傾けるとその先に、シーツに突っ伏した栗色の髪の少女がいた。サザンカだ。
「こ こ は」
喉がかすれて、うまく声にならない。
節々が痛む体にどうにか力を入れて、上半身を起こす。かけられたシーツの下は全裸であった。
そして見下ろすと、胸の中央に青白い結晶が埋まり、その周囲には魔術の印が刻まれている。
長い、長い夢を見ていた。意識が覚醒するに従い薄れて消えていくが、何万年という時間を過ごした気がする。
世界の真理、のようなものに触れた気がするが──
「なんも思い出せん」
ちょっとでも覚えていれば、キャロラインが狂喜乱舞しただろうに。
勿体ないことをした。
「……イアン、どの?」
伏していた少女が顔を上げ、寝ぼけ眼でこちらを見た。
あーあー、涎を垂らして。
「おう」
「イアン殿っ! 良かったでござるぅっ!」
叫ぶなり、サザンカが飛びついてくる。
俺の首っ玉にかじりついて、わんわん泣き出した。
「こっ、このまま目を開けなかったら、どうしようかとっ! 拙者、拙者はぁぁぁっ!」
「落ち着け、おい待てっ、『待て』だっ!」
「姫様をお呼びするでござる!」
喚くだけ喚いて身をもぎ離すと、少女は風のように去っていった。
勢いよく開け放たれた扉が、半回転して壁にぶつかり、派手な音を立てる。
まったく、あの突撃娘は。
あの調子で巫女姫に突っ込んで怪我をさせるなよ。
苦笑いとともに首を振ると、寝台の横に置かれた小机に、手鏡が乗っていることに気づいた。
はて、なんでこんな物が。
ちょうどいいと、自分の顔を映してみる。
「うげ」
幸い、目鼻に変化はなかったが──髪も獣耳も真っ白になり、榛色だった瞳が青白く染まっていた。
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