第110話 負傷と逃走

「ぐッ……」


 榊原は失った左腕の傷口に手をあて、痛みに顔を歪めながら、歩を進める。


 炎の魔法で傷口を焼くことで止血は済んでいるが、痛みが引くことはなかった。


 脳がズキズキと痛覚を伝達してくる。


 額に汗をかきながらも、榊原は足を止めなかった。


 いま、足を止めてしまったら、見つかってしまうだろうから。


 安心できる距離まで離れるのが、先決だった。


「あの精霊使いの力量を見誤ったか……」


 だが、あの少年――琉海の顔つきは日本人。


「会長のあの表情を見る限り、こっちで知り合ったという感じじゃなかった」


 つまり、それは同じ日本人ということ。


 同じ日本人であれだけ躊躇なく、剣を振ることができる人間がいるとは思わなかったと感心する。


 自分がここまで強くなるのにも良心は捨ててきたと自負しているが、あそこまで無感情になれるとは――


 琉海が榊原の左腕を斬ったときの表情を榊原は思い出す。


 一瞬、背筋に寒気が走った。


「あれには、当分近づかない方がいいかもな」


 休まず歩み続けた榊原の視線の先に人影が見えてきた。


 榊原は痛みで歯を食いしばっていたのが、緩む。


 相手は男。


 その男もローブを被っており、顔は見えない。


「左腕はどうした?」


 フードを外して問いかけてくる。


「ちょッと、振れちゃいけない領域に入っちまってな」


 男が榊原の傷口に視線を向ける。


「傷は問題なさそうだな。俺らも行くぞ。成果は出したんだろ?」


「ああ、滞りなくな。もう、ここでやらなきゃならないことはない」


「そうか。じゃあ、行こう。その左腕は惜しいけどな」


「仕方ない。腕一本をくれてやっても惜しくない相手にくれてやったからな。それよりも古代魔具エンシェント・アーティーファクトをあっちに置き忘れてきたことの方が、問題かもしれない」


「量産型だから、大丈夫だろ。叱られることはないと思うぞ」


「そうだといいんだが」


 榊原はそう言って、歩き出す。


「それにしても、どんな相手だったんだ。俺ら魔人の相手ができるなんて」


 その男――榊原が日本にいたときからの親友にして、会長と一緒に転移してきたときに一緒だった現在の相棒。多田羅平良たたらたいらが聞いてくる。


「精霊使いだよ。それも同郷の」


「へえ、精霊使いなんて本当にいるんだな。都市伝説としか思っていなかったけど」


「ああ、それも上級精霊のな」


「それは厄介だな。報告はしといた方がいいんじゃないか?」


「ああ、そうするつもりだよ」


 二人の会話は徐々に遠ざかっていく。


 榊原と多田羅は別の場所に向かったようだ。

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