私と結衣と、そしてザグル(4)

 行きつけの定食屋で昼食を済ませると、約束通り2人で話そうと結衣の家へ向かった。

 ザグルも一緒に来ると言うかと思っていたら、本当に買い物に付いてきただけだと言って、駅まで送ってくれると逆方向の路面電車に乗った。


 私と結衣は来た時と同じ方向の電車で更に15分ほど揺られて行った。

 街を抜け、住宅が増える一帯に入ったところで降りて、5分も歩かない場所に結衣のアパートはある。

 私の部屋と違って大学がすぐ側に見えるそこは、常に賑やかで人通りも多い場所だ。


「ちょっと待ってね、先にこれ開けてみるから」

 コートを脱いで部屋着に着替えると、結衣は真っ先にザグルに貰った巾着袋を取り出した。

 プレゼント用に包まれたそれは、袋は赤いベロアの生地で、口が開かないようリボン結びにしてモールで留めてある。


 結衣はそれをテーブルの真ん中に置くと、慎重な手つきで袋の口を開いた。

 中に入っていたのは、黄色っぽい何かがぎゅうぎゅうに詰まった瓶だ。


「何だろこれ?マーマレード?オレンジじゃなさそうだけど」

「ちょっと見せてくれる?……うーん、レモンかなぁ?」


 受け取った瓶には柑橘類の皮らしきものが見えて、確かに色の薄いマーマレードに見える。

 透明なラベルは困ったことに白で印字されていて、字そのものも小さくてさっぱり読めなかった。

 肩口に洒落た装飾のついた瓶は、雑貨屋などで売られていそうな綺麗なものだけど、ザグルは帰ってから開けろと言ったのだから、用があるのは中身の方だろう。

 けれど率先して甘いものに手を付けることのないザグルが、何を考えてマーマレードなど買ったのかが分からない。


 首を捻りながら瓶を返すと、結衣は思い切ったように瓶を握って蓋を開けた。

 ぱかん、と小さな音がしたその瞬間、和菓子のような甘い香りがふわっと広がる。


柑橘の香りにしては嗅ぎ慣れないような、けれど懐かしいようなその香りに、私はあっと気が付いた。


「たぶん柚子茶だよ、それ」

「柚子茶?これお茶なの?」


 おうむ返しに訊いてくる結衣に、ようやく合点がいった私はもう一度ラベルを見た。ひどく薄くて小さい字だけれど、そうと思って見れば「柚子茶」と読めた。


「これね、体を温めるとか風邪に効くとか言われてるものなの。私は飲んだことないけど、スーパーでもお茶とかコーヒーのコーナーにたまにあるよ。たぶんザグも誰かに聞いたんじゃないかな、疲れてる時にも良いって言うし」

「……え、それじゃほんとにあたしの心配してくれてたの?」


 一瞬言葉を失くした結衣は、目を見開いて呆然としながらそう言った。

 今日はいつになく余裕がないとは思っていたけれど、彼女の動揺した顔をこんなに何度も見るのは珍しい。


「そりゃそうだよ、ザグって体のことはすごく気にするしさ。結衣のこと警戒はしてたけど、嫌ってるわけじゃなさそうだし」


 最初に行った店の中では、今にも喧嘩が始まりそうな雰囲気だったけれど、待たせたことを詫びた後は、彼は結衣の邪魔にならないようずっと黙って付き合ってくれたのだ。

 そもそもあの紙袋を見る限り、何か大物を買っていたのだから手持ちは残り少ないはずで、それでも結衣に渡すための物を買って来たのだから、気遣いなのは確かなように思う。


「あくまで私の考えだけど」と前置きしてそう話すと、結衣の顔はみるみる赤くなっていった。


「さ、先に言ってよそれ!あたしちゃんとお礼も言ってないじゃない……!」

 言うと同時に、結衣の目の縁に涙が盛り上がっていた。

 えっ、と驚いて手を伸ばすと、彼女は真っ赤になった顔を両手で覆った。


「どうしたの!?何も泣かなくたって……、ザグだって全然気にしてなかったと思うよ」

「だからだよ、あたしあんな態度取ってたのに!心配してくれるなんて、そんな……」

 いやいやをするように、結衣は顔を覆ったまま首を横に振った。

 その指の隙間からも涙はボロボロ零れてきて、しばらく止まりそうにない。


 結衣がこんなに泣くなんて、初めて見る姿で私は戸惑った。

 そもそもあんなに邪険にしていたくらいだから、気遣われていたと知っても素直に受け取らないような気がしていたのだ。

 けれど、よほど何かに傷ついていたのか、優しくされたと分かって気が緩んだのか、自分の態度を恥じるように顔を真っ赤にしている。


 ザグルにとってそうだったように、結衣にとっても彼は敵視すべき存在だったのかも知れない。

 私がどう説明しても、彼女はずっと私を心配していたし、ザグルと会話はしても親しくなろうという様子は無かった。

 その原因が元いた世界での経験なら、それは責められた事ではないし、誤解が解けたならこれから変えていけば良い筈だ。ザグルが動いてくれたように。


「それならさ、また今度会って話せばいいよ。ね、これ飲んでみよう?カップに一匙入れてお湯で割るだけだから」

「うん……そうする。ちょっと待ってて、お湯沸かしてくる」


 背中を撫でて促すと、立ち上がってキッチンに向かった結衣は、冷蔵庫の陰で顔を隠しながら涙を押さえていた。


 よほどしんどい思いを我慢していたのだろう。

 彼女の気持ちをここまでほぐしてくれたザグルに、心の中で感謝する。

 いきなり一緒に来ると言い出した時は困ったけど、彼はこうなることをどこかで予想していたのかも知れない。


 二人して初めて飲んだ柚子茶は、甘酸っぱくていい香りがして、歩き疲れて冷えた体を柔らかくほぐしてくれるようだった。

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