最終話 エピローグ —— 笑顔 ———


「‥‥‥ 九十八‥‥‥九十九‥‥‥百っ‼ 」

 百回、三セットの腕立て伏せを終えると全身から汗が噴き出して来た。

 アキはそのまま裏庭の芝生の上に仰向けに寝そべる。ひんやりした感触と六月の空が心地良い。


「アキ、そんなに動いてもうケガは大丈夫なの? 」

「もうリハビリも済んだし、平気だよ」

 そう尋ねてくるハナはアキの方を向いてはおらず、小屋の前で眠そうにしているガオの頭を撫でていた。


 アキはその姿を見て大きく息をつく。あの事件から1か月半余りが過ぎようとしていた―――


 アキは『心と身体と健康と食事』の建物から脱出した直後の記憶が無かった。次に目覚めた時には病院のベッドの上、しかも既に脱出劇から二日も経過していた。

 母や祖父母の話によるとハナは軽い打撲程度だったらしいが、ガオはあちこちを縫うばかりか、火傷のうえ、耳は千切れ、あばら骨や脚には沢山の亀裂が入っており、診た獣医が「こんな状態で動けてたのか? 」と驚いていたらしい。

 一方、アキ自身も右腕と脇腹の切り傷に加え、打ち込まれた鉄芯による出血が酷く、一時は命も危ぶまれる状況だったとの事だ。


 十日以上にも及ぶ入院生活の中、TVや新聞、そしてSNSで繰り返され続けたのは「ととと」についての話題。

 その中では『政治家の買春行為』『会社でも宗教でもない謎の団体』『善行か狂気か、令嬢が作り上げた謎の集団』『性への依存を利用した洗脳』などいかにもメディアが好みきそうな文字が踊り続けていた。


 まだ、明らかになっていない事も多いが、報道を組み合わせると『ととと』こと、『心と身体と健康と食事』は、十五年ほど前に社会に馴染めない人たち交流の場として、菊川美愛の父・「故・菊川幸男」が立ち上げた法人格を持たぬ、謂わばサークルのような団体だったらしい。そして、その団体の中央には、いつも楽しそうにはしゃいでいるひとり少女の姿があり、その様子を故・菊川幸男はいつも優し気な視線で見守っていたとの事だった。

 だが、その創立者である菊川幸男は社会理念に燃える人物であったが、同時に性に倒錯的な傾向があり、それを表の活動である『ととと』と組み合わせ、裏のビジネスとして展開していた。

 そして、驚くべきは、それは菊川幸男がいない状態になっても、「ととと」と共に時代の中で変容・成長し続け、さらに、それは誰が指示出していた訳でも無いのに「ととと」の活動と共に連綿と続いていた―――



 『菊川美愛は黙秘を貫いているよ』

 アキは退院直後、自分に事情聴衆を行った阿部刑事の言葉を思い出す。


 オリオンモールの火災、陽菜子と書かれた部屋で見た一体の木乃伊ミイラと子供の頭蓋骨。そして燃え盛る炎の中見た菊川美愛の子供への狂気とも言える愛。どれも許されるものではないが、その根幹にあるものをアキは自身の推測として阿部刑事に伝えていた。


 菊川美愛のポケットから零れ落ちた一枚の写真。


 写真中央に映っていた視線がカメラを向いていない少女——— おそらくは菊川陽菜子。写真を写す際、カメラと視線が合わせられないのは自閉症の人間に見られる特徴のひとつだ。


 そして、菊川美愛が「お父様」そして「あなた」と呼んでいた一体の木乃伊ミイラ

 あの木乃伊はおそらく写真に写っていた高齢の男性だとアキは考えていた。さらに状況などから察するに菊川美愛の父親・菊川幸男である事は間違いないだろうとも。そして、同時に‥‥‥

 子供の骨も木乃伊も死後、三年は経過しているとの話だったが、それらも『ととと』の本部が焼け落ち、多くの資料と共にかなりの損傷を受けてしまった為、定かではないらしい。


 おそらく、事件の詳細が明らかになるにつれ、ハナや自分だけでなく、故・森川茂弁護士を祖父に持つ寿々、そしてハナにも世間の好奇の目が更に向くだろう。

 それは美しい醜い、あるいは善悪を越えた、もっと心の奥深くから出てくる人間の根源的なもの。言いうなれば人間が人間である為に持ってしまった生物としては余剰な感情。そして、それがあるからこそ他者に関わりたいと思える感情でもあり、今回の事件で多くの人たちがアキとハナを救ってくれたものでもある。

 アキは今まで忌み嫌って来たそれらを見つめる覚悟は出来ていた。そして、その向き合い方もあの旅で出会ったすべての人、そして父が教えてくれた。


 アキは自分の掌を見つめる。


 ――― 父さん、戦うって事の意味が少しだけ分かった気がするよ。でも俺、菊川美愛の気持ちも分からなくも無いんだ‥‥‥



「英子、朗人、おやつが出来たわよ。今日は寿々ちゃんも手伝ってくれたから、すっごくおいしそうよ」

「おばさま、そんなに持ち上げないで下さい! 」

 仄暗い思考に陥っていたアキを母と寿々の声が現在いまへと呼び戻す。


 元々回復傾向にあった母はあの事件以来、以前のような笑顔が増え、今では時折、祖父母の家を離れ、元の家で親子三人でリハビリがてら寝泊まり出来るまでに回復していた。今日はその3日目。

『災いが転じただけだ』祖父は嫌味混じりにそう語っていたが、その祖父も様々な圧力を受けながらも長年「ととと」の問題を寿々の祖父、故・森山茂弁護士と共に国に訴え続けて来た事もあり、今ではすっかり時の人となっていた。

 アキやハナに対する言動は相変わらずだったが、先日、TVの生放送に出演した際には、自閉症者を訳知り顔で語る上から目線のコメンテーターに対し、『神奈川県議会の雷帝』のあだ名にふさわしい怒りっぷりを見せ、TV画面をしばらくの間、クラッシックに乗せたパリの町並にする羽目に陥らせていた。


 ――― 祖父さんだけじゃなく、お世話になった人全員にお礼も言って回らなきゃいけないな。


 アキはそんな事を考えつつ、縁側に腰を降ろし、寿々が手伝ったのだと言うフルーツタルトを口にする。運動後の為か甘酸っぱさが心地よい。


「これ、寿々が作ったのか? スゲー旨いな」

「ホントに? 」

「お店のとかのより美味しいよ」

 アキの言葉に笑顔見せる寿々。


「ねぇ、アキ、寿々ちゃんに誘われていた笠焼祭りはどうするの? 」

 突然、ハナからドキリとするような発言が飛び出す。


「ハナちゃん、アキちゃんは笠焼き祭りの日、入院していたんだし、しょうがないよ」

 寿々が少し慌てつつもフォローを入れてくれた。


「代わりに来月の平塚七夕まつりに三人で行くのなんて、良いんじゃない?  」

「えっー! お母さんのそのアイデアはダメだよ」

 微笑みながら何気ない提案をしてくれた母・すみれにハナが何故か駄目出しをする。


「どうしてなの英子? 」

「だってお母さん、それだと寿々ちゃんとアキをふたりっきりにしてあげれないじゃん! 」

 ハナの場を読まない発言にアキは思わず口に入れていたタルトを吐き出しそうになる。


「なら、英子と私は、ふたりのお邪魔にならないように別の日に行きましょうか」

 ハナの言葉に便乗した母はにこやかな笑みを見せていた。

「うん! ガオもそれが良いって言ってるよ」

 ハナは嬉しそうに尻尾を振るガオを撫でながら何度も頷く。


「と、ところで、ハナちゃんに前から聞こうと思っていたんだけど、この子、何で『ガオ』って名前なの? 」

 顔を真っ赤に染めた寿々が会話の流れを変える為の質問をハナに投げかける。考えてみれば名付けたのはハナだったため、アキもその由来は知らなかった。


「笑顔のガオだよ。ねっ、ガオ!」

「笑顔? 」

 アキは愛犬を撫でるハナを見つめながら反芻する。


「うん。私とアキの名前は『はなの様にほがらかに』って意味なんでしょ? それって笑顔の事だよね。だからそれにちなんで、ガオはガオなの」


 笑顔でいられる事の強さと健やかさ。そんな思いを両親が込めてくれたのであろう英子と朗人の名前。


 優しい陽射しが満ちる六月の休日。アキは一度空を見つめたのち、楽しそうに微笑む母と寿々、そして英子と愛犬に向かい大きな笑顔でこう返す。


「笑顔のガオか。最高にカッコいい名前だな、ガオっ!  」


 不言色の犬は嬉しそうに尾を振るうと、それに応えるようにひとつ遠吠えをあげてくれた。


           ≪不言色の風、舞い降りる・完≫

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不言色の風、舞い降りる 松乃木ふくろう @IBN5100

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