第28話 幻影

「ガオ! 」

 尻尾を振りながら駆け寄って来た愛犬をハナとアキは強く抱きしめていた。

「助けに来てくれたんだ。ありがとう! 」

 涙声でそうを言うハナの姿にアキは思わず涙ぐみそうになる。だが、すぐに表情を引き締め、辺りを見つめた。

 建物を燃やす炎の勢いは衰えを見せておらず、満ちて来た煙はかなり濃くなり始めている。ガオもそれが分かっているのか、ハナの前に立ち、炎に強い視線をぶつけている。


「ハナ、歩けるか? 」

「歩けるよ」

「ハンカチは持ってるか? 」

「持ってる」

「ハンカチで口を押えて煙を吸わないようにはできるか? 」

「出来る」

 アキは大きく頷くと、寝そべるように気を失っている菊川美愛に視線を向けた。

 上着が脱げ掛かった状態で倒れている菊川美愛の右手には握られたままの改造式のスタンガン。先程の情景から考えるに、おそらくはガオに飛びかかられた拍子に慌ててしまい、操作を誤り自身に電撃を当ててしまったのだろう。アキは菊川美愛の上着を脱がすと彼女の身体をそっと起こした。


「ハナ、この人を背負うから、手伝ってくれ」

「助けるんだね」

「ああ。父さんならそうしていた筈だ」

 聞きたい事も言いたい事も山ほどあった。そして、殺してやりたいと思うほどの憎しみも。だが、アキには燃え盛る炎の中、まだ生きている人を置き去りにする発想そのものが浮かばなかった。


 菊川美愛を何とか背中に乗せるとアキは先程脱がした上着で自分と菊川美愛を襷状に縛り上げ固定する。

「アキ、立てる? 」

 成人女性を背負う姿が心配なのだろう。ハナが声を掛けて来た。その隣ではガオも心配そうな瞳を向けてくれていた。


「大丈夫だよ 」

 アキはそう言いながら、下肢に力を込め一気に立ち上がる。自転車を漕ぎ続けていた事や多くの格闘で傷だらけの身体が悲鳴を上げた。特に釘打ち機で鉄芯を撃ち込まれた左肩と脇腹、それにグルカナイフが掠めた右腕は力を込めた事により再び傷口が開き血が噴き出した。


「アキ、痛くない? 」

「問題ない。こんなのかすり傷さ」

 心配そうに自分を見つめるハナにそう答えた時、後ろで背負っていた菊川美愛の胸ポケットからはらりと何かが零れ落ちる。


「アキ、これ‥‥‥ 」

 零れ落ちたモノを拾い上げたハナがアキにそれを掲げるように差し出す。

 それは三人の人物が映る一枚の写真だった。

 左側には今より幾分若い菊川美愛、右側には年老いた男性。そして、ふたりに挟まれるように中央に写っているのはカメラと目線が合っていないひとりの女の子。


「ハナ、その写真はこの人のポケットに戻してあげてくれ」

「‥‥‥ 」

 ハナは何も言わず力強く頷き、写真を菊川美愛のポケットに戻すとアキの袖口を強く握って来た。

「家に帰ろう。ハナ、ガオ」

 アキはそう語り掛け、前へと歩き出す。



 *******************************


 炎と煙を避けながら何とか階段を降り、一階の廊下まで降りて来ると、辺りには煙が充満していた。バチバチと音を立てて燃える建物。


「苦しくないか? ハナ」

「平気だよ」

 少しむせ込むようなそぶりを見せたハナに声を掛ける。

「この廊下を越えれば外に出れる。あとひと踏ん張りだ」

「うん。アキもガオもいるから、怖くなんてないよ」

 その言葉にアキは笑顔を返し、自分がここに突入した時の事を思い起こす。


 ――― 突き当たるまで進み、そこを右に折れ、そのまま10メートルほど進めば玄関‥‥‥ 問題は煙での視界の悪さと苦しさ。そして炎。


 アキは前に渦巻く煙を睨みながら、頭の中で避難ルートを描く。良くないイメージばかりが湧きあがり、それが震えを呼びそうになる。


 ――― 父さん‥‥‥

 アキの脳裏に優しく、強く、いつも笑顔だった父の姿が思い浮かぶ。


「強くなれっ! 俺っ!‥‥‥ 」

 アキはそう叫ぶと、己の頬を思いっきり両手で挟み込むように叩いた。

「アキ? 」

 予想以上の大きな声になってしまった為だろう、ハナとガオが不思議そうな表情で自分を見つめていた。そんな二人に対し、アキは笑顔を見せる。


「あと少しで玄関だ! 必ずみんなで家に帰ろう。ハナ、絶対手を離すなよ。ガオ、お前は足元に障害物があったら知らせてくれ」

 アキはそう語りかけると、ハナの手を引き前へと進んでゆく。十メートルほど進むとガオがアキのズボンを噛み右へと引き、曲がり角だと教えてくれた。


 残りは十メートル。

 煙はますます濃くなり、壁と天井は置いてあった段ボールに引火した為か、強い炎に覆われていた。

 遠くからはサイレン音。

 アキはハナの手を引き炎を避け前へ、前へと進んでゆく。ガオはアキたちを炎が薄い場所へ導くように前を先行してくれている。


 光。

 炎と煙に包まれる中、三メートル程先から一条の光が差し込んで来た。


「アキ、出口だよっ! 」

「ああ」


 助かる。


 アキがそれを確信した瞬間、ガラガラと何かが崩れる音が響く。目の前を、一条の光を塞ぐように次々と落ちてくる建物の木材。


 ――― そんな‥‥‥

 アキがそう声をあげそうになった時、突然、木材の落下がピタリと止まった。


 そして、アキたちは燃え盛る炎と煙の中でそれを見た。


 それはもしかしたら炎と煙が作り出した幻。あるいは一条の光と崩れた木材が作り出した影。

 だが、アキとハナ、そしてガオは確かに見た。炎の中にオレンジ色のレスキュー隊の制服を着た朧な人影を。さらには、その人物が倒れようとしている木材を大きな掌で楽々と支えている姿を。そして、口元しか見えぬその顔には大きな笑顔を浮かべているのを。


 アキたちは時が止まったような感覚に襲われた。


「お父さん‥‥‥ 」

 ハナのその言葉にアキは我に返る。


「ハナ、ガオ、今のうちだ! 一気に駆け抜けるぞっ! 」

 アキはそう叫ぶとハナの手を引き、崩落寸前の廊下を外へ目掛けて走り出す。


 ――― よく頑張ったな。英子、朗人。さすがオレの子供たちだ。


 背中にそう声を掛けられたと感じた瞬間、アキたちは建物から抜け出し、消防車や救急車が集まりつつある、外へと飛び出していた。

 目の前には阿部刑事と制服を着たひとりの女性警官の姿。途切れた緊張感と蓄積された疲労、それに出血——— 安心感を覚えたアキの意識は急激に暗闇へと落ちて行った。

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