第25話 ガオ、激闘!

 その双眸には殺意しかなく、開いたあぎとから覗き見えるのは怒りで打ち震える牙。黒鋼くろがねを思わせる体毛は逆立っており、怒りと同時にあらゆる物を拒絶するような硬質さも窺え見えた。筋肉で山のように隆起する肩と腕、そしてその先には全てを打ち砕く鈍器のような重さと、鉛すら切り裂く鋭さを併せ持った白く長い爪。


 圧倒的な存在感。


 それが今、ガオの目の前に立ちはだかっていた。

 ゴミ捨て場。おそらくは人間の食べ残しである残飯。それを餌場にしていたこの熊は他の獣がそこに入る事を良しとせず、ガオを敵として認識したのだろう。それゆえの怒り、それゆえの攻撃。謂わば生きとし生けるものの本能だ。ガオは同じ獣として、それは分かっていた。そして、その怒りはどちらかが倒れるかまで治まる事はないであろうとも。


 距離をとった。


 相手の方が身体が大きく攻撃範囲も広い。偶然にも近い形で直撃を避けることの出来た先程の初撃で相手のその射程はある程度理解していた。

 ガオはジリジリと相手の左側へ左側へと円を描くように周り、隙を伺う。狙うは喉。それ以外の部位に自分の牙を突き立てたとしても、相手の生命を絶つことは出来ない。それほど相手と自分の体格差は歴然だ。だとすれば、勝負は一瞬がカギとなる。ガオは目の前にそびえる黒の獣を見据え、そう考えていた。


 刹那


 相手の突進。視覚で捉えた動きより地響きが速く聞えて来た。咄嗟に伏せた身体の上を相手の爪が風切り音を残して通り抜けてゆく。間断なく二撃目の爪が真上から降って来た。伏せた体勢であったガオは、前脚だけで地面を蹴り上げ、後方へと飛ぶ。鼻先を掠めた爪はそのまま大地をえぐり、鈍い音と共に深いあな穿うがった。


 ガオは先程より更に間をけ相手を見据える。

 圧倒的な力、そして速さだった。躱せたのはただの運と言えた。


 体重が百キロにも及ぶツキノワグマは、一見愚鈍そうにも見えるが百メートルの直線を七秒で駆け抜ける走力を持っている。このタイムは犬とほぼ同等であるが、その同等である事が逆に熊が犬より高い運動能力を有している事を示している。

 重い者が軽い者と同じ速さで動く。これは運動エネルギー K = 1/2mv^2と言う頭の痛くなりそうな公式を持ち出すまでも無く、どちらが優れているかなど、誰にでも容易に想像がつく。

 しかし、両者の速さには決定的な違いがある。その違いとは、熊はスタートダッシュが異様に速く、犬はトップスピードに至るまでの時間が極端に短いと言うものだ。要は爆発的瞬発力・点の速さのある熊と、尋常ならざる敏捷性アジリティ・線の速さを持つ犬の違いがそのまま現れた形だ。これは出足は熊が速くとも犬が必ずそれに追いつく事を意味しているが、裏を返せば超至近距離に於ける速さでは犬は熊に決して敵わない証明でもある。


 熊が再び突進して来た。


 ガオは後ろへと飛び、その爪で薙ぐような攻撃を寸出の所で躱す。気配で捉えた追撃は熊のあぎと。それが目の前に迫る。開かれた口から見える真っ赤な舌と白く長い牙。咄嗟に横へと飛んだが、掠めた牙がガオの右頬に赤い筋を遺す。


 ガオは素早く相手の左側へと回り、自身と熊の間に庭の中央に立っている桜の木を挟んだ。による攻撃の熊とによる攻撃の自分の間に障害物であるを設けた形だ。それがどんな意味を持つのかは分からなかったが、ガオの闘争本能がそれを選択していた。


 桜の木の枝が大きく揺れた。


 それが強くなり始めた風の為なのか、興奮から来る自身の幻覚なのか、あるいは目の前に迫る熊の咆哮によるものなのかはガオにも分らなかった。だが、確かなのは熊がこの戦いにケリを付けようとしている事。


 熊は前脚をあげ、その巨躯を顕わにすると桜の木をただのひと薙ぎで根元から叩き折った。桜の木はバキバキと音を立て、スローモーションのようにゴミ置き場の屋根目掛けて倒れて行く。

 ガオの本能はこの瞬間を、自分の姿が見えずらくなるその瞬間を待っていた。面が点と線を塞ぐその瞬間を! 

 桜の木が熊の視界を遮ったその刹那の瞬間、ガオは黒い塊に向かい飛びかかった。自身も視界を塞がれていた為、部位は正確には分からない。だが、ガオは構わずその黒い塊に向かい己の牙を突き立てた。


 悲鳴とも思える熊の咆哮があたりに響く。


 同時に凄まじい速さで左右に振り回される自身の身体。既にどちらが天でどちらが地かは分からない。視界で捉え理解することが出来たのは己が熊の手首に噛みつき、熊はそれを引き剥がそうと手を振り回していると言う事。ガオはなおも深く牙を喰い込ませる。


 再び起きた熊の咆哮。


 上下にまで揺され始めたガオの身体は、嵐の中舞う木の葉の如く、激しく舞い続けていた。


 そんな中、鼻腔に届いた朗人の微かな匂い。

 

 ――― 朗人もここまで、辿り着いたのか!


 ガオの身体を流れる血が激しく滾り、猟犬の血を、そして魂を燃え上がらせた。

 くびあぎと。ガオはそれらに全身から搔き集めた力を込める。肉が喰いこむ感触が生々しくなり、鼻腔にはクッキリとした血の香りが漂う。ガオはそれら全てを己へ向かい引き寄せ、そして――― 噛みちぎった。


 熊との唯一の接点でもあった手首の一部かみちぎった為、ガオの身体は振り回されていた時の勢いをそのままに宙を舞った。速度を付けたままでの地面への落下。だが、これまでの旅で着地のすべを身に着けていたガオは大地に身体を滑らせる事でそのダメージをがすと即座に立ち上がる。

 ガオは口の中にあった熊の右手首の肉片と骨を大地に向かい吐き捨てた。目の前の熊はガオへの怒りか、それとも負った怪我への痛み、あるいは獣として本能が敗北する事を拒絶している為か、目を赫赫あかあかと燃やしている。


 次の攻撃が最後となる―――

 そう感じた瞬間、ガオの視界に人影がぎる。先程、表で門番をしていた二人組だ。


「うわぁぁぁ、く、熊だっ!」

「やべぇ、そ、そうだ。確か、あそこに熊避けのスプレーが‥‥‥ 」

 だが、そう叫んだ男の言葉は最後まで続く事はなく、代りに聞こえて来たのは血飛沫の音。


「ひぃいいいいい」

 立ったままの首の無い男を見て、もう一人の男が大きな悲鳴を上げた。少しの間をおき地面に落ちて来たのは生命感も原形も留めていない男の首。


「うわぁああああああああああああ」

 悲鳴を上げ逃げようとするもうひとりの男。熊は雄たけびを上げ、その男に殺意を向けた。ガオは熊が自分から殺意を完全に外したその隙を見逃さなかった。


 熊の右肩目掛け飛びあがると、肩にまたがり、そのくび、いや、正確に言えば頸動脈と延髄に向かい深く牙を突き立てた。牙には肉と骨が喰いこむ確かな感触。ガオは牙を突き立てまま、熊の背中に脚を掛け、相手の爪が届かない背後へと回り込む。そして、あらん限りの力を込め、突き立てた牙を天へと向かい爆ぜさせた。


 ―――― ッ‼


 熊が響く事の無い断末魔をあげた。

 ガオの牙が剥ぎ取ったのは熊の首の断片。そして、それは生命の断片。


 勢い余り、バランスを失いながらも辛うじて大地への着地に成功したガオは、知らぬ間に己の身体のあちこちに傷が出来ている事に気が付く。


 戦いに勝った‥‥‥そう感じた瞬間、ガオの首筋を一陣の殺意が襲う——— 熊の最期の力による右手のひと薙ぎ。それがガオに左肩に襲い掛かった。

 右手の腱と骨は噛み砕かれ、また大量の失血で視力が殆ど失われていた為だろう、熊のその爪撃は力も弱く、標的であるガオからも大きくそれた位置を搔いていた。それでも腕で肩を殴られたような形となったガオは中空を舞いながら熊に視線を向けた。


 跳ね飛ばされたガオの姿を見つめる熊。

 熊はその姿に満足したかのように咆哮をひとつ上げていた。そして、血の赤で染ったその巨躯を投げ出すようにして、機械蠢く小屋へと倒れて行く。


 轟音と共に熊は沈んだ。


 ――― 黒き獣は死んだ。

 ガオはただ、そうとだけ理解した。

 小屋からはバチバチと弾けるような音が響き、黒い煙りが立ち登る。あたりには皮と肉の焼ける嫌な臭いが漂い始めていた。


 静寂


 視界には腰を抜かしたままの男と首から上を失った人間の遺体。そして、倒れた桜の木と先程まで激闘を繰り広げていた熊がその生命を終えた姿。

 ガオは倒れた桜の木を伝いながらゴミ捨て場の小屋の屋根に飛び乗ると、もう一度だけ熊の亡骸に視線を向けたのち、英子を救うため、建物二階にある開いたままの窓へと飛び込んだ。


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