第11話 朗人、老人を見ゆ

 雨の中、自転車を漕ぐ朗人は首筋に籠る熱に違和感を感じていた。

 数時間前と変わらず、ハナの心身が大きなストレスに晒されていないの間違いないのだが、その感覚が


 ――― 距離が離れた。


 アキはそう感じていた。距離が離れた理由で考えられるのはふたつ。ひとつは自分が向かっている『べにみやこ通り』がハナのいる位置と逆方向である可能性。そして、もうひとつがハナのいる位置が動いている可能性だ。どちらにしても良い状況とは言えない。だが、小雪さんと響さんから教わった煙草屋がある『べにみやこ通り』を目の前だ。


「『バハムート』を吸っている人を探すのが早道だな」

 朗人は自身に言い聞かせるようにそう告げると銀座通りを左に折れる。視界にはショッキングピンクやトゥルーレッドなどのビビッドなネオンを灯す多くの建物とえた街の臭い。それがアキの下腹を熱くし、背徳感を煽りたてる。

 俯きながら自転車を漕ぎ続け、更に進むと『べにみやこ通り』の裏手門少し手前にあるコインパーキングが見えて来た。


 ―――― ‼


「…… ガオ? 」

 一瞬、耳に届いた気がした愛犬の声にアキは自転車を停める。辺りを見回すが、そこには時間貸しのパーキングがあるだけで、ガオの姿は見当たらない。


 五年前の雪の日、道端で子犬が倒れているのを見つけ『助けたい』とその場で泣きだしたハナを落ち着かせるために連れて帰ったのがはじまりで、犬種は獣医の話だと北海道犬との事だが、それも定かではなかった。だが、ガオはともするとハナやアキの行動や心情を理解し、それがスムーズに進むように先読みをしている感すらある賢い犬だった。


 ――― アイツは今、どこに……

 賢いガオが迷子になるとは思えない。ましてや、攫った人間がガオを一緒に連れていく事などは、ありえないだろう。そう考えたアキの脳裏にある仮説が浮かぶ。


「はぁーい、お兄さん、ドリンク一杯付けちゃやうよぉ」


 媚びた声が耳に薄く響いて届く。その声の卑猥さが脳裏に浮かんだ仮説を上塗りし、気持ちをかき乱した。アキはひとつ息をつくとフードを深く被り直し、再び自転車を漕ぎだした。



 ****************



 裏手門からとは言え、大人の街に入る事にアキはかなり緊張を覚えていたのだが、それはあっさりと終わりを迎える。


 門から3メートル程先の赤い屋根の古びた建物。その前には「煙管と煙草の店・杉山米店」と大きく書かれた看板。コンビニで出会った二人の女性が煙草の事を教えて貰えると言っていた意味は理解できたが、米屋で煙草と煙管を売っている状況がしっくりと来ない。

 時刻は既に午後11時。だが、幸いにも「杉山米店」にはこの通りの他の店同様、灯りが照らされており営業はしているようだった。アキは自転車を店の脇に停め、合羽を脱ぐと、ひとつ深呼吸し店のドアに手を掛けた。


 ――― 大丈夫のはずだ。炎と煙に対するイメージトレーニングは毎日欠かさずしている。


「こんばんわ」

けえんな」

「えっ⁉ 」

 意を決して、大声と共に入った店内から返って来たのは不機嫌全開の老人の声。アキは思わず驚きの声をあげた。


この店ウチにはに売ってやれるモンは置いてねぇよ。五秒だけ待ってやるから、直ぐにこの店を出て行きな」

 新聞を眺めたまま、こちらを見ずに掛けられたその声は、しわがれてはいるが妙に力強い。だが、同時にその罵詈雑言にも似た下ネタとケンカ腰の物言いはおよそ客商売とは思えない。


いーち!」

 店主が新聞のページを捲り、カウントをはじめた。

「今日はどうしても知りたい事があってここに来ました」

にーい!」

 朗人の声を無視するかのように老人のカウントは進んで行く。


「自分は、日南大付属中にちなんだいふぞくちゅう二年伊多朗人いだあきらと言います」

さーん

「この辺りで『バハムート』という煙草を吸っている人を探しています」

しー

「どうしても知らなければならないんです。お願いします」

 残りカウントひとつ。自分に出来る事は何かと考え、朗人は深く頭を下げた。


…… 時間だ。けえんな、坊主」

 店主は相変わらず新聞に視線を落としたままだ。アキも頭を下げ続けていた。


「しついこい野郎だな。この通りには『ヨイショと土下座詫び無料タダ』って素晴らしい格言があってだな、サルでも出来る事には誰も感心しちゃくれねえんだ」

 面倒くさな老人の声。だが、それでもアキは頭を下げた姿勢で居続けた。


 沈黙


 老人が新聞を捲る音。そして、カラオケBOXでも近くにあるのか、調子外れの声で、演歌を歌う男性の声が聞えて来る。


「まさか、てめぇ頭下げ続けてりゃあ、その内、同情して貰えるなんて思っちゃいねえだろうな」

 老人の『同情』という言葉がアキに日々の視線を思い起こさせる。

 父を亡くした事と母が心を病んでしまった事への同情の視線、そして、普通という枠に入っていない姉・英子ハナへの憐憫の視線。


 アキの血が沸々と熱くなり、怒りを呼ぶ。


 ―――ふざけるなっ!

 アキは頭を上げ、自分に刺すような視線を向けていた老人の目を見据えた。


「お騒がせ致しました」

「あぁ、早くぇんな」

 老人の乾いた返しが、更なるイラつきを起こす。


「言われなくても出ていきます。それと俺を同情するもしないも、おじいさんの自由ですが、俺がソレに迷惑している事だけは覚えておいて下さい。もっとも、コッチもあんなモンは喰い慣れて、日々便所に吐き捨ててるだけですけどね」

 捨て台詞。青臭い事は分かっていたがやり返さずにはいられない。


「ほぅ、『同情なんぞ便所に吐き捨てる』とは、言うじゃねえか」

「…… 」

 背中から聞えた声を無視してアキはドアに手を掛けた。


「待ちなっ! 」

 呼び止めるその声にアキは後ろを振り向く。するとそこには棚から煙草を取り出しはじめた老人の姿。

「年端もままならねぇ小僧にカマされるとは儂もヤキがまわったな。粋のいい啖呵に免じて少しだけ力になってやる」

 そう嫌味混じりに語る老人の声はどこか喜んでいるようにすら聞こえた。


 言葉は続いた。


「一口に『バハムート』って言ってもな幾つも種類がある。無印のバハムート、コイツは両切りで今は吸うヤツなんぞ殆どいねえ。そして、無印にフィルターをつけた『ジ・オリジン』こいつも売れていねえな。アクが強すぎるんだろうな」

 老人の意外な行動にアキはその場に立ち尽くしながら、あらためて店内を見廻す。10畳ほどの店内には煙草の他、煙管きせるや葉巻に缶コーヒー、それに様々な品種のお米が並んでいた。さらに老人の座っていた座卓の奥には、いくつかの角材と工具が火鉢を囲むように並べてある。ハッキリ言ってパッと見は何屋なのかはわからない。


「昔はな米も煙草も公社が扱ってたからな。一緒に並んでいるのは当たり前の事だったんだぞ。そんな事より坊主、お前の探している『バハムート』はハッカの香りはしたか? 」

 背を向けたままの老人はアキの思考が読めるのか、そう問いかけてきた。


「いえ、どちらかと言えば甘辛さを感じて、喉に残るような強い臭いでした」

「なるほどな。フィルターの部分の色は? 」

「茶です」

「…… となるとコイツだな」

 振り向いた老人がカウンターの上に置いた煙草。赤のパッケージには炎を噴く翼竜が黒のラインで描かれ、その翼竜の足は『Wild』の文字に爪を立てている。


Bahamutバハムート Wildワイルド

「野生の竜…… いや、飼い慣らされていない竜って所か。イキがった若造がこのみそうな名前だな」

 アキが無意識に読み上げた煙草の銘柄を老人は鼻で笑うように和訳し、腰から煙管と刻み葉を取り出すと、それにマッチで火をつけた。


 漂う煙とチリチリと刻み葉を燃やす炎。それを目にしたアキの額から汗が溢れだす。


「おっ すまねえな。子供の前で吸うなんて、儂の趣味は煙管づくりでな。だからよ、ひと息つく時のクセで、つい…… ——— お、おいっ! おまえ、顔が真っ青じゃねえかっ! 」

 そう叫んだ老人は慌てて煙管の火を灰皿で消していた。


「大丈夫です」

「大丈夫ってツラじゃねえぞ! とにかくココに座れ。今、飲み物取ってくる」

 老人はその細い身体からは想像もつかない力でアキを自分の座卓に座らせると、棚からミネラルウォーターを取り出し、突き出して来た。


「飲め。少しは落ち着く」

 アキは素直に頷き、ペットボトルに口をつける。何度か深く呼吸をし、気持ちを整え汗を引かしてゆく。


「おまえ…… 火が苦手だな? 」

 その言葉にアキは心臓を射抜かれる思いがした。そして、肯定も否定もせずもう一度ペットボトルに口をつける。


「儂は今年で93歳になる。戦中の東京生まれだ。空襲も経験している。そしてその時に炎や煙に追われたのがトラウマになり、お前のようになったヤツを何人か見てきた」

 あらためて見る老人の顔や腕。それには深い皺、そして細かな傷が幾つも刻まれており、それが火災や訓練での傷跡を残していた父と重なる。

 ひとつひとつの皺、ひとつひとつの傷がこの頑固な老人の哲学であり、強く生き抜いてい来た証。アキは自分より遥かに苛烈な人生を送って来たであろう老人を見つめた。


「何があったかは知らねぇが、生きていく以上、人間と火は切り離せねぇぞ」

 克服しなければ生きていけない。老人はそう言っていた。アキはペットボトルにもう一度だけ口をつける。


「絶対に乗り越えて見せます。出来ましたら、この事はおじいさんの胸の中だけに納めておいて下さい」

「いいぜ。見栄と痩せ我慢は男の専売特許ってな。 ‥‥‥坊主、お前、惚れてる女はいるか?」

 あまりの唐突な質問に言葉を失ったが、アキの脳裏には又従姉妹寿々の姿が思い浮かんだ。質問を投げかけて来た老人は少し遠くを見るような眼をしている。


「その顔見りゃあ、答えを聞くまでもねえな。いいか坊主、人の想いってのは案外簡単に相手に伝わっちまうモンだ。それが人であろうが、お前の苦手な火であろうがな。思いが伝わり、それに好意を感じりゃあ距離は静かに近づいてゆく、だがよ、相手に怯えを感じ取られたらは嗤いながら一気に襲い掛かって来るぞ。だからよ、苦手な相手が目の前にいたら見栄でも痩せ我慢でもいい、笑って見せてやれ。そうすりゃあも多少はたじろいでくれる」

 逆境に対する歯向かい方。

 そう言葉を結ぶ老人にアキは感謝を込め三度みたび深くお辞儀をした。


 その老人はひとつ咳払いをしたうえ、再び口を開く。


「話の続きだがな『バハムート』は元々、欧州の有名な推理小説に出てくる探偵が愛煙している事で人気に火が付いた煙草だ。だから吸っているのはそのマニアである四、五十代の連中が多い。だが、逆にその分家に当たる『バハムート・ワイルド』を買っていくのは若い奴が中心だ。しかも、なぜか妙な髪型したヤツや、男のクセになんぞを幾つも付けたションベン臭え連中ばかりが好む傾向がある‥‥‥ おめぇと反りが合う奴らじゃねぇぞ」

 警告。声のトーンからそれは理解できた。アキは拳を強く握り込み、ただ頷いて見せた。


「なにをするつもりかは聞かねえが、相手は何事をするにもしゅうに頼り、たむろしとしている連中だ。そして、徒党を組む事に慣れた輩は罪悪感が薄く、どこまでも残酷になれる。揉めずに終わらせるのはまず無理筋だ」



「ありがとうございます。杉山さん」

 アキは杉山老人の警告に敢えて笑顔を向けそう答えた。考えてみれば老人の名前を呼ぶのは初めての事だった。


 杉山老人が静かに鼻を鳴らした。


「まぁ、止めても聞くタイプじゃねえだろうとは思ってたけどよ…… おまえ、『灯台の胴元から首先まで』って聞いた事あるか? 」

 アキたちの街に古くから伝わる、ある地域を表す言葉。灯台に近すぎてあかりが行き届かない事と賭け事の元締を掛け合わせた隠語だ。今もその名残からか、その辺り一帯はカジノ紛いのギャンブルを行なっている飲み屋が平然と軒を連ねているとの噂がある。


「海岸沿いにあるおろしとお…… いえ、羽衣通りの事ですよね」

 煙草屋の主人が何も返してこないという事はその指摘はあっているという意味なのだろう。ハナとガオを残してきた場に捨ててあった煙草。その持ち主の影は掴んだ。アキは静かに拳を握り込む。


 アキが次に向かうべき場所が決まった。


「坊主、いや、朗人あきらとか言ったな。儂にもひとつ分からねえ事があるんだが」

「何でしょうか、杉山さん」

 細い指で顎をさすりながら尋ねてくる店主にアキは静かに返す。


「どこでこの店の事を知った? 自分で言うのも何だが、そんな有名な店じゃねえぞ。ウチは」

 心底不思議そうなその声にアキは話すべきかどうか悩んでいた言葉を出す。


「『ヴァイオレット・スノー』の小雪さんと響さんに教えて貰いました」

「なにィ⁉ 」

 目を見開き驚きの表情を見せる老人は言葉を続けた。


「朗人、その二人はこの通りに通う男ども全員が一度はと思いながら袖にされまくっているふたりなんだぞっ! それを同時になんて、一体どこで知り合った⁉ 」

「ドーソンです」

「ど、道尊どうそん? そりゃどこの料亭だ? 横浜の山手? それとも東京は赤坂あたりか? 」

 "恋に年齢はない” アキはそんな言葉を思い浮かべながら笑顔を見せてドーソンが国道沿いにある事を告げる。コンビニである事を教えなかったのはある種の悪戯心だ。


朗坊あきぼうよ、お前はなぜ最初にあのふたりの事を儂にわなかったんだ。云えばもっと素直に話が進んだかも知れね―んだぞ? 」

 頭を掻きながら再び尋ねてくる老人は気のせいか少し照れているように見えた。


「最初から名前を借りるのは小雪さんと響さんに失礼ですし、杉山さんに対しても卑怯な気がして嫌だったんです」

 会話の終わりを感じたアキは座椅子から立ち上がると、深くお辞儀をしたうえ、そう告げる。


「まったくガキのクセに変にカッコつけの上、律儀な野郎だ…… コイツは儂からの餞別だ、持ってきな」

 杉山老人はそう言いながら懐から何やら取り出し、投げて寄こした。


 アキが慌てて受けとった物。

 それは煙管を模した飾り細工がついた小さな袋。よく見ると「三寸」と刻まれた将棋の駒までが付いる手の込んだ代物だ。感触と重さから小銭入れである事は直ぐに分かった。

 一瞬、断わる事も思い浮かんだ。が、杉山老人は決して引かないだろう。何より、アキはその突き放したような温かみが嬉しかった。


「有り難く頂きます」

「ああ、持ってきな。魔除け位にはなる代物だ」

 もしかしたら『三寸』の文字が刻まれた将棋の駒はその手の意味なのかもしれない。

「色々お世話になりました」

「気いつけてな」 

 杉山老人の事が好きになり始めたアキは素直に頷くと、最後に笑顔を見せて店を出た。



「今の若い奴も捨てたもんじゃねえな。気概もあれば礼儀も適ってやがる」

 若者のいなくなった店内で老人がそう小さく呟くと、けたたましい勢いで店の扉が開く。

「アンタっ! 大変だよ、斜向かいの路地に犬が血だらけで倒れてるっ! 確かアンタの知り合いで獣医の厚木あつぎさんって若い人がいたわよね! その人をすぐ呼んでおくれよ。あのままじゃあ死んじまうよ」

「わかった!」

 寄合から帰って来た一回り以上年の離れた妻の言葉に杉山老人はポケットからスマホを取り出すと、急ぎ電話をはじめた。


忠正ただまさか? 儂だ。商売道具一式を持って、今すぐ店に来てくれ」

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