第07話 ガオ、雨の色街で
染みる様な刺激臭が辺り一面の漂っている。夜の帳の中、視界の大半を占めるのは点滅し続ける色とりどりのネオン。
雨の中、行きかう男たちは陽気、女たちは陰鬱で周りに気を止める様子はない。それは路地裏から路地裏へと抜けて行くガオにとって良い状況と言えた。
あの男の、そしてそれと重なる様に捉えた若い男女の匂いを追いかけ、かなりの距離を駆け抜け辿り着いた繁華街。そこは雨が降っているにも関わらず何故か人間の気配が
「イイ
「今はフォトショで写真なんて幾らでもイジれるからなぁ」
「ウチの店はそんな事してないって! 」
「どうしようかなぁ」
「サービスするからさぁ」
会話を続ける男たちの後ろをすり抜け、人間の通った気配のないビルとビルの隙間を前へと進む。所々にある通風孔からの風。それが濡れた体毛を気持ちの悪い温かさで逆立てる。木の葉に折れた木の枝、空き缶や割れた瓶に濡れた雑誌、そして古くなった毛布など、何故ここに在るのかが分からない多くのモノを出来るだけ踏まぬよう、ガオは更に前へ進んで行く。
進行方向から洩れ出る光が強くなって来た。それが大きな通りに出る事を意味しているのは濃くなる排気ガスの臭いも有り察していた。
人通りが多くなる事。それは自身の姿を晒す事。ガオの動物としての本能がそれを嫌っていた。だが、あの煙草の臭いはその通りの向こうにある。
強くなった雨が車のライトを反射させチカチカと眩しく輝いている。そんな中、ガオはタイミングを見測り大通りへと飛び出した。
「おっ⁉ 今、い、犬が通ったぞ! 」
「犬ゥ? どうせ、この辺の店のホステスが連れて来て、それが逃げたんだろ」
「いや、そ、そういうさ…… 何て言うのかな、こうフワフワした犬じゃなくて、もっと大きな犬だったぞ。ガォーってカンジのっ!」
「見間違いじゃねーの? お前、飲み過ぎだよ」
後ろから聞えて来る男たちの声を無視して横切った大通り。そして、辿り着いたのは、沢山の車が停まっている場所。一番奥のスペースには誰かが捨てたのか、それとも一時的に置いているのかは分からなかったが、古いタイヤが山積みにされていた。
荷物を満載した白い車や古い油の匂いが漂う小さな車、それらを多くの車を無視し、ガオはあの煙草の臭いがする方向へと走る。すると、ガオの視界にあの色が飛び込んで来た。
―――赤、赤い車。
ガオは駈けた。
そこに人の臭いや気配がない事は分かっていた。それでもあの赤い車には何かがあるはずだ、英子に繋がる何かが。それを理解していたガオは車の外側をぐるりと回り、臭いを拾う。
――― あの男の煙草の臭いと途中で拾った別の男女の臭い、それに主・英子の匂い。
降りしきる雨の中、ずぶ濡れになったガオは戸惑い、車の外周を何度も回った。この雨は確実に英子の匂いを消してしまう。この近辺を廻り英子の匂いを探す事は出来なくもないが、それが最善なのかがガオには分からなかった。
赤い車の回りを歩き続けていたガオの耳にバシャバシャと雨水を踏む人間の足音が聞えて来た。咄嗟に敷地隅のタイヤの山の影にその身を隠す。
「ったくよ。腹ぁ立つな。この雨もあの客もよ。一体何様だよ!」
「センパイ、仕方ねーっスよ。ウチみたいな中小企業は仕事選べる立場に無いっスから」
「んな事は新米のお前に言われなくても分かってんだよ。早く駐車場代を清算しろ。14番な」
「うースっ」
年長者らしき男は顎でそう指示を飛ばすと、赤い車のひとつ隣に停めてあった車の後部に荷物を載せ始めた。一方、指示を出された男はポケットから何やら取り出し機械を操作を行っている。
「領収書、忘れんなよ。忘れたらお前持ちだからなっ! 」
「それだけは勘弁して欲しいっスから、忘れねえっス! 」
ふたりの男がそんなやり取りをしていると今度は駐車場に黄色い車が入って来た。ガオはその車から漂う強い野菜の臭いに思わず顔を顰める。
車が駐車場に停まると中からカッパを着込んだ四人の若い男女が荷物を抱え降りて来た。
「今夜はこの辺りのお店を回る事にしましょう」
「リーダー、この雨の中、私たちの話を聞いて貰えるのでしょうか? 」
「ポジチュアル的には雨は恵みで救いです。雨に濡れても懸命に努力する我々を見れば、心の動く方もたくさんいるはずです」
「なるほど。さすがはリーダー」
「では、参りましょう。今日の目標は五本です」
「はい」
四人はガオに気が付いた様子も無く、雨降る夜の街の中へと消えて行った。
「何だよ、今の連中」
「センパイ、知らねーんすか? アイツら『ととと』の天然野菜販売員っスよ」
若い男は黄色い車を指差していた。
「あー、最近やたらと動画サイトで見かけかる『ポジチュアル』とか言うアレか!」
「そうっス。CMにWebTuberの
「ウチもあやかりたいもんだねー。よし、精算は終わったな。会社帰っぞ」
「うース」
会話を終えたふたりの男が車に乗り込むと、荷物満載の車は油の強い臭いが残る白い排煙をあげながら駐車場を出て行ってしまった。
これまで行きかった人間を観察する限り、この駐車場の今、自分のいる場所は身を潜めやすく、相手に気付かれ難い場所。そう判断したガオは大雨の中、さらに身を屈め、赤い車に誰かが近づくのを待つと決めた。
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降り続ける雨が身体を容赦なく濡らしていた。朗人や英子がいつもブラシを掛けてくれている力強い毛並みも今はひしゃげて寝てしまっている。二十台ほどの車が止まっているコインパーキングは人間と車が頻繁に出入りをしているが、赤い車に人が近づく様子はない。
「良いんですか? 小雪さん、送っても貰っちゃって」
「いいのよ。私は今日、お休みでお酒も飲んでないし」
「お休みなのにナゼお店に来たんです? 」
「ニトロ興産の常務さんがね。渡したいものがあるからって来られたのよ。それで顔だけでも出してくれってオーナーがね…… 」
駐車場近辺で交わされている女性二人の会話。若い女性からはアルコール。年上の女性からは自分とは別の犬の匂いがしていた。この敷地内に止めてある車に用事があるのだろう、女性二人が赤い車の斜め前まで歩いて来た。
「小雪さんの車ってどれです? 」
「そこに停まっている濃紺のセレナよ」
「えっー‼ 意外! 小雪さんならボルボとかジャガーに乗ってると思ったぁ」
「息子がふたりとワンちゃんが一匹いるから、この手の車の方が何かと便利なのよ」
「小雪さん結婚してらしゃるんですか? 」
「してた事があるだけよ。今はシングル。優しい息子たちと勇ましい雄のブルドックの世話に追われる毎日だけど、それなりに楽しいわ」
「それって逆ハーレム状態じゃないですかぁ! 」
ガオにふたりの会話の意味は分からない。だが、乾きと陽気さが混在するそのやり取りが危険なものではない事だけは理解が出来た。
ガオは以前から人間が自分に指示を出したり、同族同士で意志の疎通を図る言葉というものに不思議な魅力と恐怖を感じていた。理解と拒絶、笑顔と悪意、そんな相反するもの全てを内包できる人間の言葉。それらは自分たち動物を従わせも出来れば、喜ばせる事も出来る。そして時には騙す事も。
「あっ! 響ちゃん、ワンちゃんよ」
「えっ! どこですか? 」
「ホラ、あそこ! 誰かが捨てていった古タイヤの後ろ」
自分を指差している事は分かった。同時にふたりが自分を怖がらずにいる所から犬にかなり慣れているのも確信が持てた。
「うわー、あれ
「あの色って柴犬とかじゃないの? 」
「あの凛々しいお
「そう言われれば、結構大きなワンちゃんよね」
「北海道犬は身体が柴犬より一回り大きくて、マッチョなんです」
会話を続けるふたりを視界に捉えたままガオは身体を揺すり、纏わり着いた雨水を飛ばす。雨足は若干の弱まりを見せていた。
「響ちゃん、詳しいのね」
「私の本業はトリマーですから。 まぁ、まだ見習いですケド…… 将来は自分のお店を持ちたいんです。お水の仕事はその資金集めの為なんです」
「響ちゃんなら出来るわ! 頑張りなさい。お店がオープンしたらウチの『すえぞう』も連れていくからカッコ良くしてあげてね」
「はいっ! ありがとうございます」
自分に視線を向け続けているふたりは何やら楽しそうな雰囲気になっていた。ガオは英子や赤い車に関りのなさそうな二人の視線を切る為、さらに身を屈めようと前足を動かす。
「あっ! 小雪さん、『心と身体と健康と食事』の営業車の横に停まっているアノ車、赤のオデッセイ! アイツのですよ」
「アイツって、さっきお店で噂になってた『アオキ』って人?」
「そうです。『今度、大金が入る』ってふんぞり返りながら、みんなに『おさわり』してきたスケベな男の人の事ですっ! ウチのお店、『おさわりNG』なのに! 」
突然の大きな声。そして赤い車を指差す若い女性の姿にガオは再び身体を起こす。若い女性はかなり怒っている様子だ。
「青木とかっていう若い奴。青木のクセに赤い車に乗るなんて、顔も変なら趣味も変ですよ。赤ければ三倍速く動けるとでも思っているんですかね」
「お客さんの事を悪くいうモノではないわ。でも、『大金が入る』とか『大きなヤマ』とかを口にするお客さんとはそれなりに距離を保たなきゃダメよ」
「確かにそうですよね。その手の話をする人って、大概、お店にも来なくなりますもんね」
会話の意味までは分からない。だが、赤い車について何か知っているのは間違いない。そう解釈したガオは二人の匂いを記憶した。
「それより、あのワンちゃん、あんなに濡れちゃって寒くないのかしら? 」
「北海道犬は寒さや飢えに強い、ストイックでワイルドなワンちゃんですから大丈夫だと思いますよぉ」
「そうなの⁉ 」
「はい。なにせ猟犬の血を引いたワンちゃんですから」
再び自分に注がれる視線。どうやらガオの期待とは裏腹に赤い車への関わりは薄いらしい。
「多分、この車のどれかが飼い主さんの車で、帰って来るのを待ってるんですよ。北海道犬も日本犬の最大の特徴である『飼い主一途属性』を標準装備してますから…… 」
「凛々しい顔立ちに筋肉質の大きな身体。性格はストイックで野性味もある。しかも一途…… うーん、犬だけで無く、日本の男性もそうあって欲しいわよねぇ」
「ホントですよぉ。まぁ、超絶滅危惧種なので、お目に掛かる機会はそうそう無いと思いますケド…… 」
車のドアを開けながらのため息交じりのふたりの会話。そこからこの女性陣がこの場を去る事を察したガオは視線を少しだけ空へと逃がす。
「じゃあね、赤茶のイケメンくん。早く飼い主さんに会えると良いね」
二人を乗せた濃紺の車はくぐもったエンジン音を奏でガオの視界の外へと消えて行った。人目に付く事を理解したガオは積まれたタイヤのひとつに牙を立て、それを自身に引き寄せ陰になる部分を大きくした。噛みしめたタイヤから漏れ出たカビや油の匂いが鼻を突いたが、気にはならなかった。
大きくなったタイヤの山に再び身を隠したガオは、視線を赤い車に注ぐ。そして音を、匂いを、何より気配を拾う為、息を殺す。それは獣としての本能だった。
そして、また強くなりはじめた雨の中、その本能が警告してきた。
――― 敵が来る! と。
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