憂鬱な体育?[2/2]


 一体誰がマラソンというものを考え出したのでしょう。「マラソン」というくらいですから外国人であることは間違いありません。私は今日のために作られた一周二百五十メートルのトラックの、二周目を走り終えたところで、その人と一回会ってお話をする必要を感じています。


 半分。よくコップに半分の水があったら「半分しかない」と考えるか、「半分もある」と考えるか聞かれることがありますが、私はその水を砂漠に咲く一輪の花に与えるような、素敵な女性になりたいと(薬罐やかんではなく)常日頃から考えています。まあそれはともかく、あと二周走ればこの苦行からは解放されるようです。つまりはあと半分もある。


 私は頭の中で愉快な音楽を流すことにしました。授業中やテスト中にこれが始まると、集中を削がれて大変危険なのですが、今なら気が紛れていいかもしれません。曲は……私は普段からあまり音楽を聴かないのです。すぐには思いつきません。ただ無理にひねり出そうとするとそっちに気を取られて、体だけでなく頭も疲れてしまいそうです。あくまで頭は気楽に、自由に。とりあえず話題のCMソングと、誰もが聴いたことのあるクラシックが流れてきました。あとはそれに身を任せて、海月のように漂っていきたいところです。


 三周目の、半分を過ぎたところでした。なにやら足音が聞こえてきたな、と思った次の瞬間には私は誰かに抜かされていました。そのスピードからいって、私の後ろにいた人ではなさそうです。というか、よく見たら佳菜子ちゃんでした。たぶん周回差をつけられたのでしょう。       

 私は去年もこういうことがあったな、と思い出しました。まるで停車中の普通列車が快速に追い抜かされるみたいな気持ちです。いや、でも時間さえ気にしなければ普通列車だっていいのです。むしろゆっくり景色を楽しめるという点で、普通の方が優れているとも言えます。もっとも、今私が見ているのはグラウンドの景色なのですが。一周分も見れば十分です。


 また一人、誰かに抜かされました。今度はすぐわかりました。金髪混じりのロングヘアー。ちょっと怖いところもあるけど、友達思いで情に厚い、七組の女王様こと(私が勝手にそう思ってるだけかも)、西尾由美ちゃんです。彼女は引き締まった脚を惜しげも無く披露して、テンポのいい足音を響かせながら走り去っていきました。私はそれを見て、何だかとても疲れてしまいました。続けて二人ほどに抜かされてしまいます。


 足が重いです。酸素が足りなくて、ありとあらゆる器官がSOSを出しています。体育とは、私の日常を逸脱した非常に危険な行動なのでしょう。それでも、これ以上はペースを落としてはいけない気がします。それは私の意思というより、周りの環境がそうさせているのです。グラウンドが、人が、熱が、空気がそうさせているのです。私は必死にペースを維持しました。決して速くはありません。けれども普通列車だって、時間通りに来るのです。


 その時のことでした。私は直感的に「みゆきちゃんが来る」と思いました。それが合っていたか間違っていたかというと――その時の私は冴えていたみたいです。みゆきちゃんは呼吸を少し乱しながら、私のことを見向きもせず、まっすぐ前だけを見て通り過ぎていきました。私は彼女の横顔を見て、揺れるポニーテールを見て、彼女の息遣いを聞いていました。それは静かな空間でした。みゆきちゃんの背中が見えました。細くて綺麗な背中です。そして私は何かを忘れました。それは疲れだったかもしれません。体育に対する憂鬱さだったかもしれません。さっき食べたお弁当のおかずだったかもしれません。何かを忘れて身軽になった私は、みゆきちゃんについていこうかと思いました。まるで人参を追いかける馬のように、彼女の背中を見ながらどこまでも走りたいと思いました。しかしみゆきちゃんはとても速かったのです。彼女は最後の一周を走り終え、コースの内側に消えていきました。私はその少し後で、先生の「ラスト一周」という声を聞きました。


 そのラスト一周は、体力的に限界に近く、とてもきつかったのだと思います。息は苦しいし、足は痛いし、お腹もちょっと痛かったかもしれません。でも私はそれを覚えていません。気が付いた時には私はゴールしていました。体力テスト的には褒められた記録ではありませんが、自己ベストであることを私は後で知ります。


「こだま。お疲れ様」


 いつになく活発に空気を取り込む肺と、大太鼓をたたくみたいに鳴る心臓に、私は不思議な爽快感を感じながら顔をあげました。全身を血が駆け巡り、少しくらくらしますが、嫌な感じではありません。みゆきちゃんは優しい微笑みで私を見ています。「脈拍、測ったの、意味なかったね」と私が息を切らしながら言うと、「そうかもね」と彼女は笑いました。眩しい笑顔でした。目がちかちかします。


 私はこの日みゆきちゃんの背中を見て、彼女と一緒に走りたいと思いました。今冷静になって考えてみると、「走りたい」なんて、生まれて初めて思ったかもしれません。

 もしみゆきちゃんと一緒に走れるなら、私は南国の海辺がいいです。海に向かって吹く風を感じながら、波の音を聞き、夕日を見ながら走るのです。みゆきちゃんは白いスポーツウェアを着て、ポニーテールを弾ませながら私の前を走っていて、時々後ろを振り返って私のペースを確認します。あたりには何人かの人がいて、サングラスをかけ、アロハシャツを着たおじさんもいれば、ビーチで遊ぶ子供たちもいます。道路には図鑑でしか見たことがないような、背の高いヤシの木が何本も生えていて、時々風に揺れています。そして私は夕日に照らされるみゆきちゃんをどこまでも追いかけるのです。ある時はそれなりに速く、ある時はゆっくりと。みゆきちゃんの横顔が見れる時もあれば、背中が遠く感じることもあります。それでも私たちは一緒に走り続け、オレンジ色に沈む大きな夕日とともに、街の中に消えていくのです。

 

「由美ちゃん、記録はどうだった?」と私は聞きました。

「おう、おかげさまで上がったよ。一年前の記録だったし、更新するのは当たり前だったけど、素直に嬉しい」

「ま、そうは言っても結局うちには勝てなかったみたいだけど。えへん」

「佳菜子ちゃん一番だったもんね」

「こだまちんいいよ、もっと褒めて」

「佳菜子ちゃんすごい、速い、日本一」

「ひゃーこだまちんの褒め殺しぃー」

 佳菜子ちゃんはくすぐったそうにしました。

「……あいつの謙虚さのなさはある意味日本人が見習うべきなのかもしれない」

「一理あるわね」


「苦行」であった体育を終え、私たちは校舎に戻っています。グラウンドの上よりアスファルトの上の方が暑いようで、夏場ほどではないですがむしむしします。私は早く教室に帰ってほどよく冷えたお茶が飲みたくなりました。風鈴の音もあるといいかもしれません。そして扇子でパタパタ風を起こしながら、ありがたい数学の授業を受けるのです(怒られます)。でもその前に、更衣室の制汗剤が混じった甘ったるい匂いを、肺がいっぱいになるまで詰め込まなければならないと思うと、私の苦行はまだまだ続く気がします。


「いやーでも意外だったのがみゆきりんが結構速かったことだよねー。大穴ってやつ?」

「人を馬みたいに言うな」


 由美ちゃんがペシっと叩くと佳菜子ちゃんは「ひゃい」と言いました。お餅をつくみたいにタイミングがぴったりです。


「みゆきちゃんが走るの速いのは、そんなに意外?」

「うん、だって学級委員って言ったら、堅苦しいガリ勉タイプっぽいイメージあるっしょ。そんで運動が全然できなくて、何もないところでつまずいてメガネをクイって直す、みたいな」

「そうそう。それで廊下を走ってる人がいたら『風紀を乱してはいけませんよ』って注意すんの。メガネをクイってしながら」

「その『クイ』っていう動作は絶対必要なのね……」


 みゆきちゃんは呆れたように言いました。

 二人には固定された学級委員のイメージがあるようです。


「そういう意味では体力のある学級委員って貴重かもね、みゆきりん。サンドバッグもできるミッドフィルダーみたいに、監督から重宝されそう」

「……それを言うならサイドバックでしょ、殴ってどうするのよ」

「ベンチで活躍?」

「しねえよ!」


 かわいそうでしょ、と由美ちゃんは言いました。話がよくわからなくなりました。サンドイッチにできるミルフィーユ(?)みたいなことを言ってた気がするのですが――後になってみゆきちゃんが、それはサッカーの話だと教えてくれました。由美ちゃんと佳菜子ちゃんはスポーツ観戦が好きなようです。


「でもね、私は別に体力があるわけじゃないの。千メートルならまだそれが目立たないけれど、マラソン大会みたいに距離が長くなると、全然体力が持たないし。順位だって真ん中くらいなのよ。きっと日頃の生活が悪いのね」

「むう、なかなか言ってくれるねえ。もし仮にみゆきちゃんの生活が悪いのだとしたら、私の生活はもはや悪魔にも感心されるレベルだよ。『お主もなかなかの悪じゃのう』って」

「……悪魔はそんな口調で話さないでしょう」

「そうなの?」

「お代官様じゃないんだから」

「まあ、あんたらは、体力がないくらいでちょうどいいよ。体力があるだけの馬鹿はこいつ一人で十分だし」

「誰が馬鹿だって言うんだ!」

 佳菜子ちゃんがペシっと叩こうとすると由美ちゃんはパシっとそれを払いのけました。

 コンマ何秒の世界で勝負が繰り広げられています。


 でも残念だなあ、と由美ちゃん。

「みゆきは陸上部とか入ったら絶対活躍したのになあ。まったく惜しいことをしたもんだよ」

「うん、ほんとにね。したもんだ。したもんだ」

 佳菜子ちゃんはその響きが気に入ったようです。語感を確かめるように二回言いました。

「私もそう思うよ」

 みゆきちゃんはちょっと考えてから、「そう……かしらね」と言いました。


 彼女は部活動に所属していません。みゆきちゃんならどの部活に入ってもそつなくこなしそうなので、私も今まで何度か「部活に入ってないなんてもったいないよ」みたいなことを言ったと思います。それでも彼女は今みたいに曖昧な返事でお茶を濁すのです。どちらかというと自分の意見をしっかり持っているみゆきちゃんにとって、その態度は珍しいものだと思います。


「入るとしたら、陸上部よりも、料理研究部を作って、あらゆるレシピの曖昧さを排除したいわね。分量の許容誤差を明記したり、色はカラーコードで指定したり……」

「うわ、みゆきが言うと本当にやりかねんから怖い。……とても怖い」

「うちは……パスで」

 由美ちゃんと佳菜子ちゃんは、そう言いながら先に昇降口に逃げてしまいました。


「佳菜子ちゃんが『パスで』って言ってるの初めて見たかも。……さすがみゆきちゃんだ」

「……冗談のつもりだったのよ?」

 みゆきちゃんの不満そうな顔が可愛くて、体育の疲れは綿菓子を口に含んだときみたいに、一瞬でどこかへ消えていきました。

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