第29話


 放課後になった。いつもの調子でこだまの席に行ってしまわないよう、私はゆっくりと支度をした。今日からは、図書室で時間を潰してから帰ることに決めていた。

 それなのに。

 こだまは、私の席に来た。

 彼女はちょっと怯えたような顔を浮かべている。

「言ったでしょう。今日からは一緒に帰れないって……」

「みゆきちゃん!」

 こだまにしては比較的大きな声で遮られた。

「お願い。話したいことがあるの。今日だけでいいから」

 話したいこと。嫌な予感しかしない。

「……嫌よ」

 ――私は逃げてばかりだ。

 でも、そんな現実、認めたくなかった。

「話さなきゃ、いけないことなの。ねえみゆきちゃん、お願い」

 懇願するように言うこだま。

 もう、逃げるのも限界なのかもしれない。

「……ここじゃない方がいいわよね」

 そう言うと、こだまは小さく頷いた。

 

 私たちは歩いていた。特に示し合わせることもなく、自然にあの紺色のベンチのある小さな広場へと向かっている。

 こだまが話そうとしていること。

 それはきっと、男のことだ。私からこだまを奪う、男のことだ。私が昼休み、そんな話題を振ったことの意図に、こだまは気づいている。「親友」である私には伝えておきたいのだろう。

 どんな男だろう。クマのキーホルダーをお揃いにするくらいだから、初デートはもう済ませたに違いない。こだまは楽しそうにそのキーホルダーを見ていた。こだまと気の合う、いい男なのかもしれない。

 私は今から、死の宣告を受けるのだ。こだまと夏休み中長い時間を過ごした、あのベンチで。彼女を初めて抱きしめた、あのベンチで。最悪な処刑場だ。

 だが私にはもう、逃げることはできない。人は生きている限り死ぬことから逃れられないように、私もこの宣告から逃れることはできない。歩いている限り、あのベンチには着く。

 細い道を通った。夏の間、こだまとアイスクリームを持って、何度も通った、細い道。笑って話しながら通った、細い道。もうあの夏には戻らない。時間は前にしか進まない。

 ベンチは、いつも通り佇んでいた。

 私には、覚悟ができているのだろうか。

 

 私たちは、特に言葉を交わすこともなく、座っていた。こだまは、話を切り出すタイミングを見計らっているようだった。生暖かい風が、私には冷たかった。

 私はこだまとの出会いから現在に至るまでを思い返していた。最初の頃のこだまは自信なさげで、由美さん達の宿題を手伝う私にいつも申し訳なさそうな顔をしていた。俯いて、大粒の涙を落とす、こだま。名前で呼んでほしいと頼むこだま。このベンチで中学時代の話をしてくれたこだま。初めて彼女を抱きしめたのはこのベンチだった。由美さん達と分かり合えて嬉しそうだったこだま。キスをした私を優しく許したこだま。雨の日に一緒に図書館で勉強をした時のこだま。傘に入れてくれるこだま。いい匂い。夏休みのこだま。駅で待ち合わせをして、一緒に図書館まで歩いて行った。アイスクリームを一緒に食べた時のこだま。二学期、久しぶりの教室での制服姿のこだま。テストの成績が良くて喜ぶこだま。朝遅刻したら昇降口にいたこだま――

 好き。好き。全部のこだまが好き。出会ってから現在に至るまでのこだまの、全ての表情、言動が好き。愛している。きっと誰よりも、愛しているし、慈しんでいる。静かに、ひっそりと、誰よりも近くで、誰よりも深く、痛切に。

 それなのに。

「……ありがとね。本当は勉強する予定だったのに、時間をとってもらって」

 こだまは、小さくそう言った。その瞬間、頭の中にあったいくつものこだまの表情、姿、声、思い出が、生温い風にさらわれ、消えて行った。

 私は強い孤独を覚え、心臓が痛かった。

「……いいのよ。それで……何の用?」

 私の声は、震えていた。この場に飲まれているようだった。

「……もしかして、みゆきちゃん、私が告白されたこと、知ってる?」

 頭が真っ白になって、何も考えられず、痛かった。

「……ええ」

 いよいよだ。私は覚悟しなければならないだろう。

「……やっぱり、そうだったんだ……」

 こだまの顔は見なかった。私はただ、地面を見つめていた。目頭が熱くなるのを必死で抑えた。視界がぼやけてきた。

 彼女は、少し間を置いてから、話し始めた。

「あのね、演劇部の先輩で…」

 小さい声でこだまは言った。

「生徒会長もやってた…」

 演劇部で、元生徒会長で、三年生。私でも知ってる人だった。

 ――なんだ、お似合いじゃないか……。

「やめて……」

 ああ、もうおしまいだ。

「加藤先輩っていうんだけど…」

「お願いだから……」

 勝手に、涙は溢れ出していた。

「やめてよ、こだま……。お願いだから、その話はやめて……。わかったから。もう十分わかったから。こだまの、そんな話、聞きたくないの。ねえ、ねえこだまぁ、もう、もう、やめてよおお」

「で、でも私全部……」

「やめて……。もうやめて。一人にしてよお」

 自分の泣き声で、こだまが何を言っているのかわからなかった。ただ、彼女から出る言葉を、私は拒絶した。

「ごめんね、みゆきちゃんの好きな……」

「私、もうこだまの顔、見たくない。見たら、私、私……」

 言葉にならない声をあげて、私は泣き続けた。こだまはその間、私の隣で座り続けた。隣にいるのに、彼女は遠かった。私が決して届かない、遠くに彼女はいるのだった。

「みゆきちゃん、ごめんね……。私のせいだよね……せっかく、せっかく、一番の友達ができたと思ったのに……なんでいつも、こうなるの……」

 こだまが泣いていることだけはわかった。でも、どうして彼女も泣いているのか、私は考えることもしなかった。

「ごめんね、私、もう行くね」

 そう言って彼女は立ち上がった。

 私は、あのベンチで一人、取り残された。


 泣きながら家に帰った頃には日が沈みかけていた。亀池図書館の前を通った時には数人の利用者にじろじろと顔を見られた。きっとひどい顔をしていたはずだ。勝手に同性に恋をして、無様に失恋する、醜い一人の女子高生。

 二階に上がって、自分の部屋のベッドに突っ伏した。最近は泣いてばかりで、涙は枯れ果ててしまった。シーツを掴み、私は叫んだ。でも、すぐに力尽きて、私は仰向けになって天井を見つめた。

 こだまにひどいことを言ってしまった。優しいこだまに、大好きなこだまに、言ってはいけないことを言ってしまった。

 ――私は何があっても、こだまの味方だから。

 嘘だった。あの言葉は嘘だった。何があっても、だなんて。彼女を応援するどころか、ひどいことを言って、傷つけて、泣かせてしまった。私が本当にすべきことはそれじゃなかった。トラウマを抱えた彼女の恋を応援することなのに。また自分勝手な行動と言動で彼女を傷つけ、萎縮させてしまった。何がこだまの味方だ。情けない。情けない。情けない。

 ――一人で抱えきれなくなったら、ちゃんと相談するのよ、いい?

 こだまはちゃんと私に伝えようとしてくれた。それを私は、無下に拒絶した。ああ。

 死にたい。

 死にたい。死にたい。死にたい。

 人生で初めて死にたいと思った。このまま生きていくことに比べたら、死ぬことは些事なことに思えた。具体的な方法はわからないし、実行する勇気もないが、楽に消え去る方法があるのなら、今の私は選んでしまうかもしれない。弱い、脆い、こだまの何者でもない、私。存在価値がわからない。

 誰でもいいから私に罰を与えてほしい。こだまにキスをした時だって、本当は私は罰を与えて欲しかった。ただそれだけを求めていた。適切な罰を与えられるべきは私。それなのにこだまは私に罰を与えてくれなかった。それで私の中の何かが壊れてしまったのだ。気づかないふりをして、楽しく、幸せに、過ごした夏。でもその背後には常に言えない言葉があって、それはどんどん膨らんでいった。それらが今、悪い方向に作用している。

 誰か今の私を抱いて欲しい。誰でもいい。女でもいいし、男でもいい。年上でもいいし、年下でもいい。もう、誰でもいいから、この心の隙間に何か別のものを埋め込んでもらいたい。罰を与えてもらいたい。私を今の私ではない存在に変えてほしい。今の私からは遠く離れて、かつこだまからも遠く離れた場所に、誰か私を連れ出してほしい。誰でもいい。誰か。誰か。

 私は無意識のうちにスマートフォンに手を伸ばした。ある事柄を検索する。ニュースで見たことがあった。たくさんの広告が表示される。怪しげなサイト。今の私にぴったりだ。どうせ価値のない私。こだまに必要とされない私。

 これなら。

「駄目だよ」

 その時、頭の中で誰かが言った。

「駄目だよ。みゆきちゃん。そんなことしちゃ」

 こだまだった。私は混乱する頭の中で彼女と対峙した。こだまは微笑んで、振り向いて、笑って、泣いて、傷ついた顔を浮かべて、私から去っていった。「ごめんね、みゆきちゃん」

 一瞬のことで私には意味がわからなかった。それでも今ここで彼女が現れた理由を理解しようと努めた。しかし理解しようとすればするほど、彼女が去っていったという事実だけが虚しく残った。

 いつも彼女は私の手の届かない遠くに行ってしまう。

「ダメだよ、みゆちゃん」

 振り返ると姉がいた。「それはいけないことだよ」

 小さい頃私が叱られる時、彼女はよくそういう言い方をした。諭すように、優しい声音で。私は姉に叱られるのが好きだった。両親は放任主義で、褒めることはあっても強く叱ることはなかった。私たち子供を大人と同じように扱った。おかげで自由にのびのびと成長できたが、私の中の何かのバランスが悪いことを薄々感づいていた。そんな私を叱ってくれる姉の言葉は、正しい温度と正しい質量を持って、私の胸に届いていた。

 姉に会いたい。姉に会って、思い切り甘えたい。こだまとの恋の最初から最後まで、聞かせて、姉の率直な感想をもらいたい。そうすれば、私はこの恋を――終わらせることができるかもしれない。今の私にとって、希望はもはやそれしかない。

 急に力が抜けて、私はスマートフォンの検索画面のタブを閉じた。するとさらに力が抜けて、私は眠りについた。寝て、起きて、弁当の残り物で晩ご飯を食べた。オルガンを少しだけ弾き、私は姉の部屋で眠りについた。


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