第11話


 私はふらつきながら家に着いた。二階にある自分の部屋のベッドに伏せると、ひどく頭痛がした。灼熱した熱さと凍える寒さが表裏一体となる感覚に襲われ、私はよろめきながら部屋を出た。慎重に階段をおり、リビングに入った。いつも通り、誰もいなかった。

 苦労して冷感シートを見つけ出し、額に貼り付けた。ズキンと頭が痛んだが、熱が奪われる感覚は悪くなかった。その勢いで寝衣に着替え、ベッドに横になった。すると瞼が急に重くなった。混沌とした微睡みに堕ちていく。そんな感覚に襲われた。

 その時頭から液体が湧き出るような感じがした。その液体は次第に私の頭のなかで溢れそうになった。私は叫んだ。それは言葉にならない叫びだった。気が狂ったように身体を動かし、シーツは皺だらけになった。

 色々なものが溶け出してきた。頭の中で凍らせた「溶けた私」が、落ち着いた瞬間を見計らったように液体に変わって脳を浸していた。このまま凍らせてしまったら、脳全体が固まって動かなくなる。私はそれに抗おうとしていた。抗えているのかはわからなかった。そしてそれにも疲れると、私はいよいよ意識を失った。

 私は夢を見ていた。夢の中にはこだまがいた。青い背景から、彼女は海に漂う海月のように私のもとにやってきた。私は彼女をそっと抱きしめて、口づけをした。彼女の顔は見えなかった。私は何かに取り憑かれたように、唇を重ねては離すという行動を繰り返した。彼女はそれを拒もうとはしなかった。彼女の唇は柔らかく、心地よく、実際のものと同じだと思った。

 しかし彼女は離れていった。あるいは私が彼女を押し出したのかもしれない。宇宙空間でお互いを押し合ったように私と彼女の距離は遠くなっていった。私は胸が張り裂けそうになった。まるで小さな子みたいにえんえんと泣いた。ただただ悲しかった。それだけで私は泣いていた。

 私は泣きながら彼女の名前を呼んだ。迷子になった娘を探す母親のように、必死で呼んだ。すると彼女はまた漂いながら私のもとにやってきた。私は彼女を抱き寄せ、その身体を確かめるように強く抱きしめた。彼女の香りに、目眩を覚えた。そして吸い寄せられるように、彼女に接吻をした。

 次に目を覚ました時、今が夜なのか昼なのかすぐには判別がつかなかった。意識は朦朧としていて、部屋の縮尺が狂っている感じがした。部屋は薄暗く、オレンジ色の豆電球だけが明かりを放っていた。そして私は枕元の時計を見て初めて、今が深夜一時であることに気がついた。周りを見渡すとベッドの横にミネラルウォーターと冷感シートが置いてあり、その横には林檎が剥かれてラップがけされてあるのがわかった。私はひとまず水を口に含んだ。それを飲んでいる間だけは頭がすーっと軽くなる気がした。

 私はゆっくりと立ち上がって廊下に出た。目が眩んでまっすぐな廊下が歪んで見えた。どこまでも続くように長く、かつ無機質な部屋の中のように閉鎖的に見えた。私は静かに歩いた。周りには奇妙な沈黙が流れていた。廊下は冬の夜のようにしんと静かなのに、一方ではテレビのお笑い番組のように賑やかに感じられた。廊下に置いてある物がわずかに拡大されたり縮小されるように見えた。私は混乱していたが、それを冷静に捉えようとした。それは思考によってではなく、周りの静けさの要素によって可能になっていた。突き当たりにあるトイレから出て、私は部屋に戻った。

 部屋のベッドに座ると私はミネラルウォーターを一口飲んでから、林檎が乗った皿とフォークを手に取った。その時林檎のそばに書き置きがあることに気がついた。小さな光に照らすようにして読むと、母さんの字で「明日はしっかり休みなさい」と書いてあった。なぜだか私はそれだけで胸がいっぱいになって、林檎を一口かじり、二口かじり、時間をかけて食べ終え、そのまま眠りについた。


 熱が下がったのは、土曜日の朝だった。汗でぐっしょりと濡れていたが、やけにさっぱりしていた。階段を降りてリビングに入ると、珍しく両親が揃っていた。

「あら。起きたの。おかゆがもう少しでできるわ」

「だいぶうなされていたが大丈夫か?」

 病み上がりの世界は恐ろしいほど優しく見えた。

 

 私はこの日、不思議とこだまのことを考えなかった。無意識のうちにそうしていたのかもしれない。

 けれどもさすがに、日曜の夕方になると焦ってきた。私は英語のリスニングCDを流し、それをなぞるように音読した。ちょうどそれに飽きた時、夕飯の支度ができたと知らされた。今日はハンバーグだった。

 部屋に戻りたくなかったので、私は見たくもないニュース番組を見ていた。少女が誘拐され殺害された事件だった。

 私は殺されたのがこだまだったとしたらどう思うだろうと考えた。私にキスをされた彼女は、帰り道、ひどく混乱していて、静かに近づいてくる車に気づくことができなかった――彼女は車に連れ込まれた後、散々な暴行を受け、訳の分からぬまま死んでいく。それを私は偶然見たニュースで知る。――最悪だった。

 風呂に入りながらも私はこだまのことを考えた。初めは腫れ物に触れるように慎重に始めたのだが、意外と冷静に考えられることに気がついた。私は彼女の与える罰ならばなんでも受け入れようと思った。彼女が私を拒絶しても、顔も見たくないと言われるくらい嫌われても、構わないと思った。それは私にとって恐ろしいことだが、それだけのことをしたのだから仕方がない。

 逆にこうも考えた。彼女は私を受け入れてくれるのではないか、と。彼女は一年の時から私のことが好きで、だから意を決して私に近づいた。言いにくい過去の話だってした。突然唇を奪われたのには驚いたが、それがみゆきちゃんなら構わない。これからも一緒にいてほしい。それは針の穴に指を通すような希望だった。

 私は勉強を早めに打ち切り、いつもより随分早くベッドについた。不安を感じずに済むには眠るのが一番だった。

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