第258話 シァシァの代償
この世界には技術を会得し、理解し、相応の実力があれば使用できる通常の魔法とは異なり、血筋に根差した魔法というものが存在している。
こういった血筋由来の魔法はいくら実力があっても血が繋がっていなければ発動することができない。ヨルシャミの自動予知もこの類である。
もし似た性質の魔法があったとしても、根本的な部分で別物だ。
東ドライアドの一部の血筋にもそんな特殊な魔法が伝わっていた。
それはいわゆる催眠魔法に属するもので、しかし普通の催眠魔法とは異なり、とある方法で誰にも抗えないほどの強制力を持つ効果を引き出せる代物だった。
相応の対価を支払うことにより力が増すのだ。
この特性により、催眠や洗脳の類に恐ろしい抵抗力を持つ伊織にも通るようになる。
本当ならこれを使えばシェミリザによる洗脳も必要なくなるが、シァシァは用いるつもりはなかったのだ。もう随分長い間触れてすらいなかった上、これからもこの魔法を使う気はなかったのだから。
催眠魔法でシァシァは大切なものを失ったことがある。
同じ轍を踏むのは嫌だ。
催眠を自ら誰かにかけるのも嫌だ。
伊織の洗脳計画も個人としては気が進まない。
それでも、今この苦しむ子供を救うためなら使ってもいいか、とシァシァは思うことができた。いくら子供を大事にしたところで、どのみちナレッジメカニクスの力が増せばこの世界は混沌に落ちるのだが――せめてそれまでの間くらいは、と。
「あの、シァシァ。ありが……」
「お礼を言うのはやめた方がいい」
発動までの一時の間、伊織の言葉を遮ってシァシァは言った。
「ワタシはこれからもキミたちが悪だと思っているコトをし続ける。キミが嫌がるコトもする。だからお礼なんてやめておきなヨ」
ワタシの犠牲者への侮辱になる、と付け加えると伊織は困ったような顔をした。
しかしそれでも口を開く。
「本音を言えって言ったのはそっちだ。僕の最期の言葉くらい受け取ってくれ」
「ウワ、強情~!」
「……あのままだったらもっと酷いことになってた。だから今この瞬間のためだけのお礼を言わせてくれ。ありがとう、シァシァ」
シァシァは口先を尖らせると「どういたしまして」と不服げに返した。
そして両目を薄く開く。
その両目の中に魔力の奔流があった。
緑色のガラス片をいくつも投じたような色。
一系統の色のみで構成された万華鏡を覗いている気分になる。
シァシァはその目に伊織を映したまま「三、二、一」とカウントした。
そして落ち着いた声で語り掛ける。
声はなぜか普段以上に耳の奥へと届き、状況に関係なく安らいだ気持ちになった。
「さあ目をよく見て。――キミの目の前には穴がある。穴の中は緩やかな坂だ。ゆっくり前へ進むと足が水に触れるが、恐ろしくはない」
シァシァは一度手を叩いて伊織の意識を引き寄せてから口を開く。
それは再びカウントを言葉にした。
「……まだキミは意識の浅瀬にいる。しかし深い海はもうすぐそこだ。また前へ進もう」
さっきよりも深いところへ誘うような声で続けながら再び手を叩く。
手の周りに魔力による光の残滓が散った。
三度目のカウントの後、シァシァは伊織の両耳を手の平で覆う。
「温かな海水に腰まで浸かると聞き覚えのある音が聞こえてくる。キミが一番心地いいと思う音だ」
一番心地いいと思う音。
伊織が初めに思い浮かべたものが耳の奥から聞こえてくる。
それは転生を決めた時に聞いた音――歌だ。静夏の、母の子守歌だった。
すでに幻聴なのかシァシァが聞かせているのか判断がつかない状態で、伊織はその歌にじっと聞き入る。
シァシァは今度は意識を引き戻さずに続けた。
魔力の残滓があちこちで小さく弾けている。
「頭の先まで海に浸かるが苦しくはない。音と共に眠りに落ちていくほど深く沈んでいく。でも大丈夫、その先は怖いところじゃない」
大丈夫、と繰り返してシァシァは言葉を継いだ。
「次に目覚めた時、キミは何も考えなくて済むただの獣に戻る。何も心配いらない」
心配いらない、と再び復唱し、伊織の瞼を閉じさせる。
金色の瞳が瞼の向こうに消えた直後、伊織の頭の周りに緑色の光が現れ、まるで緑の蔦の冠のように連なった後ぱちんと弾けて消えた。
胸元に倒れてきた伊織を抱き留め、寝息を聞きながらシァシァは小さな背中を撫でる。
「おやすみ、名もなき小さな子供」
――直後。
消えかかっていた緑の光がシァシァの右腕に集まったかと思うと、大きな何かで叩かれたような反動が体を伝った。
シァシァは薄い唇を噛んで一瞬の衝撃に耐え、そして血が滲む前に離す。
しかしなぜか唇の代わりに袖が真っ赤に染まり、袖に吸収されきらなかった血の塊がぼたぼたと地面に落ちた。
「……やっぱりごそっといったなァ」
シァシァは眉をハの字にすると回復魔法を右腕にかける。
だが失った血が元に戻るわけではないため、白い顔で息を整えると眠る伊織の衣服を正し、途中で見つけた小さな懐中時計を胸に抱かせた。
シァシァにはどういった謂れのものかはわからないが、こうして持ち歩いているなら大切なものなのだろう、と。
そのまま片腕だけで伊織を抱え上げたところで、背後の川の岸辺に鈍色の何かが着陸する。
――シァシァが作り、オルバートとヘルベールに提供したホバーボードだ。
「シァシァ、不死鳥を見つけたのかい」
「あァオルバ、丁度いいトコロに来たネ! ウン、今捕獲したんだ」
ホバーボードから下りて歩いてくるオルバートに笑みを向ける。
その姿を見てヘルベールが眉を顰めた。
「怪我をしているのか?」
「ン? そうそう! いやァ、なかなかの抵抗を受けてさ〜」
そう笑うシァシァの袖が真っ赤に染まっているが、指が落ちた時は血の一滴も出なかったことをヘルベールは思い出す。
ちゃんと血が出るんじゃないかとなぜか感心したが、口に出すことはない。
「さ、とりあえずササッと帰って準備しよ。この様子じゃ長持ちしないヨ」
「待てシァシァ、片方に乗っていく気か」
「そっちはヘルベールがオルバを抱えればイイ。姿勢の自動誘導機能付きだし大丈夫大丈夫!」
「また勝手に。待――」
ヘルベールはシァシァを止めようと腕を伸ばす。
角度的にそこしか掴めなかったため、赤くなった袖を引いた。
負傷しているところにそれはどうなんだとヘルベールも思わないこともなかったが、普段すぐ面倒事を増やしている罰だと思えば手を止めることはできない。
「……?」
引いた感触がおかしい。
まるで抵抗感を感じない。
それは――そう、そこに腕など入っていないかのようだった。
一体これは何事だ。いくら抵抗されたからといってあのシァシァがここまでの負傷をするのか。なぜ涼しい顔をしていられるのか。ヘルベールがそうやって順に問おうとした時だ。
映像資料で聞き慣れたエンジン音。
それが木々の間に響いたかと思うと、バイクに跨った伊織とその後ろを走る静夏が三人の前に飛び出した。
二人もシァシァたちに気がつき、その腕に自分と同じ顔が抱かれているのに気がつくと目を見開く。
五人の視線が交差したのはその直後のことだった。
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