第221話 察してほしいんだが

 温泉は露天風呂で、岩で囲まれた湯船の周りは白く雪が積もっていた。

 それでも寒さを感じにくいのは温かな湯気のおかげだろうか。

 見上げれば薄青い空が広がり、体を洗うスペースには屋根が設けられている。洗い場には木製の桶が備え付けられていた。


「おお……ここだけ見るとまさしく日本の露天風呂って感じだ……」


 バルドは感動しながら中へと入っていく。

 逆にサルサムには見慣れない雰囲気なのか、少し緊張した面持ちで周囲を見ていた。新しい部屋に警戒する猫の如しである。


「複数で入る風呂は慣れてるが……こういう形式の風呂は初めてだ。これ熱いのか? 湯気が凄いぞ」

「多分外との温度差のせいだと思う。でもこの温度差がいいんだよなぁ~」


 そううきうきしながらバルドは髪を高い位置で縛る。その隣で伊織は冷たい空気と温かい空気の入り混じった空間を物珍しそうに見回した。

 ただ単に『広い風呂』には静夏の前世の実家へどうしても出向かなくてはならなかった際にとんでもないものに入ったことがあるが、銭湯や温泉といった類に触れるのは初めてだ。どうやら他の客はいないようだが、何かマナーはあるのだろうか。


 ――と悩みつつも、これだけは確実だろうと掛かり湯を始めるとバルドと行動が被ってしまい、なんとなく生まれ変わっても消し去れない日本人の血を感じ取って伊織はバルドと笑い合った。


 サルサムはサルサムで見様見真似で掛かり湯をし、さあ次はどうするんだという目でバルドを見る。

 バルドはあることに悩みつつ伊織に顔を向けた。


「……伊織って先に体洗う派?」

「へ? どっちでも……あ、なんか地域によって違うんだっけ。なら他に客はいないけど入れ替え式だし先に洗おう」


 掛かり湯のみで先に入る流れと体を洗ってから入る流れ。

 どちらでもマナー違反ではないが、この後に静夏たちが入ることを考えると綺麗に使っておきたいと伊織は思う。

 それにはバルドも頷き、まずは体を洗おうということになった。


 この宿屋ではスポンジの類はなく、体を洗うのは専用のタオルを使うらしい。

 貸し出されたそれを使って石鹸を泡立て、伊織は約束を守るべくバルドの背中を洗う。


「なんか人の体を洗うのって久しぶりだなぁ……」

「久しぶり?」

「ええと、前世でさ。母さんがどうしても上手く動けない時に、僕が補助して洗ってたことがあったんだ」


 入院せず自宅療養をしていた時期があり、その頃は伊織が時折補助に入っていた。

 申し訳なさそうにしつつも洗われる母の背中は骨が浮き、なんだかとても寂しい気持ちになって壊れ物を扱うように洗ったことを伊織は思い返す。

 今は鬼の顔でも見えそうな背中で頼もしい限りだ。

 それが嬉しいのだと言うと、バルドは「そりゃあそうだろうな」と笑みを浮かべた。


 そうしてバルドの背中を洗い終えたタイミングで、今度はそっちの番な! と伊織はイスに座らされる。

 全力で激しく洗われたらどうしよう。そんな不安が一瞬伊織の頭の中を過ったが、バルドの手つきは存外優しかった。それでいて弱いわけではなく、とても良い塩梅である。

 伊織が目を細めているとバルドがサルサムに訊ねた。


「つーかサルサムは本当にいいのか? 俺二人同時でも洗える自信あるぞ?」

「どこから何のために湧いた自信なんだよそれ」


 俺はいい、と首を横に振るサルサムを見てバルドは「ああ」と手を叩く。


「傷痕とか気にしてるのか? いいんだぞ、べつにここには俺たちしかいないしさ」

「いやそういうわけじゃないんだが……!」


 伊織の肩では未だに火傷痕が目立っているが――サルサムはその比ではなかった。

 サルサムは普通の男性という印象が強いが、服に隠れている部分には新旧様々な傷痕が残っており、背中だけ見ると堅気に見えない。

 普段から着替えの際にちらりと覗くことはあったものの、伊織には他人の着替えをじっくり見る趣味はないため、今まで特別気にしたことはなかったがなかなかのものだ。


「……というか、その、サルサムさんって各地でお仕事してたんですよね? やっぱり旅をするって危険――」

「ああいや、これは実家の関係っていうか」

「じ、実家の!?」


 もしや想像以上に複雑な家庭だったのだろうか。伊織はそう地雷を踏んでしまったかと焦った表情を見せる。

 そんな伊織の顔を見たサルサムはしばし悩みつつも口を開いた。


「俺の実家は何でも屋をやっててな、……察してほしいんだが、本当に『何でも屋』なんだ」


 要するに汚れ仕事でも何でもやる、ということだ。

 この世界の犯罪の線引きを伊織は完全には理解していない。しかし道中での経験を元に考えると、前世の世界と倫理観が似た地域は多かったように感じている。

 そんな場所での汚れ仕事というだけでも色々と想像ができた。

 しかし伊織が敢えて深く追求はせずに頷いたのを見てサルサムは話を続ける。


「で、両親がその家業のサラブレッド同士でさ、兄弟全員それなりの教育を受けてきたわけだ。それが他所の家庭と違うって気づいた頃には日常になってたから、俺としては特に文句はないんだが」

「強かだなー……」

「教育の中に兄弟喧嘩をするなら得物を持って全力で、っていう教えがあってな。この辺の傷は大体兄弟からつけられたやつだ」

「強かだな!」


 そう驚くバルドの様子を見るに、サルサムは今まで彼にも身の上話をしたことがなかったのだろうか。

 しかしこうして少しでも話してもらえると、それがなんだかサルサムの信頼の証のように思え、伊織は口元を緩めるようにして笑った。


     ***


 湯はやや熱めで薄緑色をしており、説明を読むに傷や関節痛に効果があるらしい。

 そんな湯に並んで入りながら伊織は「そうだ」とバルドとサルサムを見た。


「ワイバーンの名付けのことなんだけど、名前を考えるなら相手のことをもっと知るべきだと思ったんだ」

「おお、悪くない考えだと思うぞ」

「そこで……ええと、たしかあのワイバーンってニルヴァーレさんのお世話役? みたいなことやってたんだよな。もしよかったらバルドたちがワイバーンと知り合った時のことを教えてもらえないか?」


 知り合った時のこと? とバルドとサルサムの二人は顔を見合わせる。

 サルサムは首元を掻きながら言った。


「そんなに参考にはならないかもしれないぞ?」

「それでも大丈夫です。……適当に決めるのだけは嫌だな、とずっと思ってて。少しでも参考になることがあれば助かります。お願いできませんか」


 食い下がる伊織の様子に表情を崩した二人は頷き、じゃあ長風呂にならない程度にな、と話し始めた。

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