第192話 童貞、ここに極まれり

 ――外から雪の落ちる音がする。


 その音で不意に目覚めた伊織は布団の中で冷えた足を擦り合わせた。

 こういう時は日本の暖房器具が懐かしくなる。そう栓のないことを考えながら、起きたついでだと手洗いへ向かおうと部屋を出た。

 道中もとにかく寒く、室内だというのに息が白い。


(鍋や風呂で大分温まってたけど、さすがに深夜ともなると冷えるなぁ……)


 手を洗ってから廊下に戻ると、出た先にヨルシャミが立っていた。

 もしかしてヨルシャミも手洗いに用だろうか、と伊織は道を譲ろうとしたものの、何やら神妙な顔つきのヨルシャミに首を傾げる。

「どうしたんだ?」

「いや、まあ……眠れなくてな、お前が起きていくのが見えたから丁度いいと思って追ってきたのだ」

「丁度いい……?」

 小声でこそこそと話しながらヨルシャミは廊下の端、皆が寝ている部屋から一番遠い突き当りに伊織を手招いた。

 たしかに今夜は夢路魔法の世界への招待がなかった。事前に示し合わせていない場合は気まぐれで呼ばれるためさほど気にしていなかったのだが、もしやヨルシャミが眠れなかったからなのだろうかと伊織は考えて心配した。


 何かあったのだろうか。

 そういえば少し様子がおかしかった気がする。


 ならきちんと話を聞こう、とそう心に決めている間にヨルシャミはもごもごと口を動かして伊織を見上げる。

「イオリに、そ、そ、相談があるのだ。あまりニルヴァーレには聞かれたくない故、あちらでは話せなかった」

「……! 聞くよ、何か悩みでもあるのか?」

 ヨルシャミはこくりと頷くと、意を決したように口を開いた。


「嫉妬だ」

「……ん?」

「恋愛的な意味での嫉妬というものを生まれて初めて味わっている。これをどうにかしたいのだが、いくら考えても一人では解決出来ん」

「……んん?」

「そこで苦肉の策極まるが、イオリ本人に助力を願おうと思ったわけだ」


 伊織はゆっくりと自分の手を額にやると、更にじっくりと考えた上で質問を口にする。


「それはつまり、ヨルシャミが僕関連のことで嫉妬してるってこと?」

「う、うむ」

「……」

「な、情けないであろう、いくら人間より長く生きていようが経験が薄すぎて感情を持て余す。いなせん。大人はどうやってこれを処理しているのだ? ひたすら我慢か? 出来る気配がないのは私が幼稚すぎるだけではないか? イオリはどう思……って、な、なにを笑っているのだお前は……!」


 笑っているのではない。にやついているのだ。

 伊織は「いやそのごめん」と早口で言いながら首を横に振る。


「ヨルシャミが嫉妬してくれるなんて思ってなかったから、なんか妙に嬉しくて……。ニルヴァーレさんに対して似たような感じになってたけど、あれはちょっと別枠というか」

 小さく咳払いしつつ伊織はヨルシャミの顔を見た。羞恥心のせいか暗くてもわかるほど顔が赤い。

「それで、ヨルシャミはなんで嫉妬を?」

「ストレートに聞くではないか……」

「ヨルシャミがストレートに言うからだよ」

「ぐぬ……!」

 そして伊織は声を潜めつつもしっかりと言った。


「――僕はちゃんと聞く。だから話せることなら話してほしい」


 ニルヴァーレ以外に伏せているとはいえ、ヨルシャミは伊織の『大切な人』だ。

 そんな人の悩みの発端を真面目に聞かないはずがない。

 ヨルシャミはしばらく視線を彷徨わせた後、ゆっくりとした動きで足元を指さした。


「……ここでお前とリータが話しているのを見た」


 きょと、としつつも伊織は記憶を手繰り寄せる。

 味覚について、そして静夏について話していた時だろうか。

 リータとはそれまでも会話しているため、わざわざ「ここで」と指定したからには会話以外のことに要因があるのだろう。

 そして伊織はハッとし、口を引き結んでヨルシャミを再度見た。


「手を握られた上で前のめりになってた気がする……」

「なっていたぞ」

「あああああいや、あれはそういう変な意味でやったんじゃなくて、その、リータさんも多分同じで、えっと……!」


 しどろもどろになりつつ伊織は両腕を動かす。

 思っていた以上に嫉妬されても仕方のない光景だった。本人たちにそんなつもりながなくても、自分のいない場所でそんなことをされていては心にもやくらいはかかるだろう。

「そ、そんなに狼狽えなくていい。わかっている。初めは驚いたがイオリは言ったことは守るし、リータも……関係には気づいてはいないが、私を応援してくれている故な」

 この辺りの文化ならあの程度のスキンシップはよくあることだ。

 そう言ってヨルシャミは自分の髪を指先でくるくると回す。


「……と、頭ではわかっているくせにこの体たらく。リータにもこのような感情は向けたくないというのに。その上私はイオリの異変を知らなかった。気づけなかったのだ。リータの方がよほどお前をよく見ている」


 それが情けなくて敵わん、とヨルシャミは潜めた声を更に小さくして言った。

 伊織は浮かせていた腕をヨルシャミに伸ばすと両肩に手を置き、拒絶されないか確かめつつ抱き寄せる。

「……わかってたとしてもごめん、僕ももうちょっと気を遣うべきだった。あの時は母さんに料理を教える話をしてたんだ。ちょっと熱くなりすぎて必要以上に近づいてた気がする」

「い、いいと言っているだろう。あー……あと、今後変に行動を規制せずともいいぞ、リータも不審に思うかもしれん」

 リータの観察眼はなかなかのものだ。

 さすがに会う人会う人全員ではないが、少なくとも自分たちのことは見てくれているとヨルシャミは感じていた。ちなみにリータがその観察眼で時折暴走気味な勘違いを勃発させていることは知らない。

 わかったと頷きつつもこれからはもう少し気を遣おうと考えつつ、伊織は固かった表情を崩して笑みを浮かべた。


「夢の中じゃないけどここならいいかな」

「む……?」


 抱いていた腕を緩め、顔を寄せて額に軽く口づける。

 再び真っ赤になったヨルシャミを撫でながら伊織は言った。

「リータさんは多分……真実を知ったらこの件をヨルシャミが気にしている方が心苦しく感じると思う。あと、うん、僕の味覚については黙ってた僕のせいなんだから気にしないでくれ。……っていうのも難しいかもしれないけどさ」

「ぬ、ぅ、うむ」

「そして――これでヨルシャミの気持ちが軽くなるかわからないけど、僕がこういう気持ちで触れるのはヨルシャミだけだって宣言しとく。覚えててくれるか?」

 じっと目を見つめてはっきりとそう言うと、ヨルシャミは脱力して気が抜けたような笑みを浮かべた。


「まったく、なんとお人好しなことだ。……そういうところが好きなのだな、私は」


 互いに視線を交わして小さく笑う。

 それと同時に部屋のドアが開いて二人は叫びそうになるほど仰天した。


 寝惚けまなこのバルドだ。水でも飲みに行ったのかふらふらと階下へ降りていく。

 一方それとは反対側の突き当りにいた二人はバクバクと暴れる心臓を胸の上から押さえた。

「さ、さすがにその辺のお化け屋敷より驚いたぞ……!」

 ドアが開くなりヨルシャミは伊織を引っ張り寄せ、立ち位置を反転させた上で咄嗟に隠蔽魔法を発動させたのである。

 森の施設で使ったものと同じ魔法だ。静夏ははみ出てしまったが自分たち二人くらいなら隠れられるはず、と思ったのだが――胸を押さえる自分の手にわしゃわしゃしたものが当たっているのに気がついてヨルシャミは目を瞬かせる。


「……」

「……」


 伊織が尻もちをついている。

 そんな状態で膝立ちしたヨルシャミに壁ドンされたせいで、伊織の顔が胸元に埋まっていた。

 ヨルシャミは冷静に視線を上げて天井を見る。


 事故だ。

 仕方がない。

 しかもいつバルドが戻ってくるかわからないためすぐには動けない。


(いや、いや、うむ、身に触れられる恥ずかしさはあれど生まれてからずっと女人であるわけでもない。これくらいのことで動揺などするものか。大丈夫だ。大丈夫……っだから! 変に心拍数を上げるな私! イオリに聞こえるだろうが!)


 深呼吸をしてみるがそれも聞こえているだろうことには気が回らなかった。


 しばらく経ち、眠気からふらふらしたバルドが部屋に戻ったのを確認してからヨルシャミは体を離す。

 伊織は神妙な面持ちで口を開いた。

「……言っていいかな」

「い、言え」

「これ、セラアニスさんに怒られる気がする……」

「キスまでしておいて今更何を言う……!」

 これはセラアニスの体だが、もはやセラアニスは自分の一部だという感覚があるヨルシャミはあまり気にしていない。そしてセラアニス本人も体は今はヨルシャミのものだという認識が強かった。

 いつかは返してやりたいと思っているが、とヨルシャミが付け加えて話すと伊織は少し安堵したようだった。


「たしかに今までこういうこと以外でも酷使しまくってたなぁ……」

「それはどうにかしたいところではあるがな。とりあえずお前が触れることに関してはあまり気にするな。……それと私も言っていいか?」

「……? うん」

「それ、拭いた方がいいのではないか」


 伊織は緩く首を傾げ、それにより温かいものが口に流れて初めて自分が鼻血を流していることに気がついた。


 ――童貞、ここに極まれりである。



 その後鼻血を止めてから妙にそわそわした空気のまま部屋へと戻り、皆に気がつかれないよう自分の布団に潜り込む。

 長い間外に居たというのに布団から出る前より温まってしまった。

 その理由についてお互いにわかっていたものの、敢えて口にはしない二人だった。

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