第186話 伊織の失敗
吹雪が緩まるまでの間、寝起きするたび伊織は夢の中で訓練を積んだ。
時には現実世界でバルドに武器の使い方を教えてもらい、残り時間で日常生活を行なう。日常生活については代表的なのが三食をとることとその調理だ。
宿の一階にある酒場は閑古鳥が鳴いていることもあり、宿の主人は調理場を快く貸してくれた。
もちろん使用料としていくらか払って使わせてもらっている。
調理は各々が好きなものを――というのが理想だったが、そうすると調理場の占拠時間が長くなるため、調理スペースをどこかで借りている時も野営する際と同じように一人が全員分を纏めて作ることが多い。外へ買い出しや外食に行けない時は猶更である。
調理担当は料理できる者が持ち回りで受け持っていた。ちなみに静夏は本人も意図せずとんでもないものを作り出すため除外されている。
今日の担当は伊織。
調理も手慣れたものだったが――ついにやってしまった。
「……」
「……」
スプーンを咥えたまま虚を突かれたような表情の面々を見た伊織は自分もそれを口に運んで同じ顔をする。
否、口に運ぶ前から大体理由は想像がついたため、今後のことを考えて同じ表情を作ってみせた。
今日はオムライスを作ったのだが、恐らく調味料を間違えたのだろう。伊織は自分の口の中で舌を動かす。
味覚は未だに戻っていない。
伊織はそれを仲間には伏せていた。
時間の経過で元に戻る可能性もあることで余計な心配をかけたくなかったのだ。こうなった原因は自分のせいだと自身を責める人がいるかもしれない、という危惧もあった。
(きっと皆そこまで後ろ向きじゃないだろうけど、黙ってても支障ないならいいかなって思ったんだよなぁ……食の娯楽が減るのは辛いけど命に別状はないし……)
そうして今までは長年の料理の勘で味見無しに作っていたが、今日はついに味付けのミスをしてしまったのである。
ミュゲイラがごくんと音をさせて飲み込んでから固い笑顔を作った。
「あ、甘いライスっていうのも斬新で良いな! うん、こんなの初めて食ったかも! な、リータ!」
「えっ……あ、うん!」
「ごっごごごめん! すみません! し、塩と砂糖を間違えたかな、めちゃくちゃ初歩的な失敗をしちゃって申し訳ないです……作り直してきま――」
伊織がスプーンを置いて立ち上がるなり「ふんッ!」と突如自分の髪の毛を後ろで束ねたヨルシャミが怒涛の勢いで砂糖オムライスを口に掻き入れ始めた。
「ヨルシャミ!?」
「ふぁんはほおふぇはぃふぇふほほふぃ!」
「待って一言一句わからない……!」
口いっぱいのライスをもぐもぐと咀嚼し、飲み込み、水を飲み、口元を拭ったヨルシャミは落ち着いて言う。
「そんなことで破棄せずともよい」
まだ口元に米粒を付けたままヨルシャミは残りのライスをスプーンで掬った。
「味は奇抜だがこうして食べられる。更には腹を下すこともなく消化できるのだ、れっきとした食べ物ではないか。無駄にすることは私が許さん」
「あ……その、新しいのを作ったら皆の分は僕が責任を持って食べようかと……」
「お前の腹がはち切れるわ!」
そうですよイオリさん、とリータが握り拳を作る。
「ちょっとびっくりしましたけど、甘いご飯が主食の地方もあるって聞きましたし、作り直すような失敗じゃないです!」
「あー、あれだな、桜でんぶみたいなもんだと思えばいいんだよ」
「俺も昔似た間違いをしたから落ち込むな」
「みんな……すみません、ありがとうございます」
また同じ失敗はしないよう気をつけます、と伊織は頭を下げたが――ひとつの気がかりが残った。
こういう時に真っ先に声をかけてくれることが多い静夏が黙ったままなのである。
何か考え事をしていた静夏自身もそれに気がついたらしく、はっと顔を上げるもタイミングを逃した様子で黙り込む。
代わりにオムライスを口に運ぶと「安心していい」という風に笑みを浮かべてみせた。
***
伊織が味覚を失っていることをリータは知っている。
それはヒルェンナとの会話をたまたま耳にしてしまったからであり、周囲に言ってはいない。
伊織が皆に話さないのは何か理由があるのだろう。そんなプライベートなことを本人に断りなく伝えるのはご法度だとリータは感じていた。
(でも……)
傍目からでもわかるほど様子のおかしかった静夏を思い返す。
静夏は伊織の母親だ。
この件について知っておいた方がいいのではないか。
伊織本人に訊ねるのは憚られ、更には訊ねる勇気もなかったが――もし静夏が伊織を心配しているのなら話した方がいいかもしれない。もちろん話した後は伊織にも正直に謝ろうとリータは決意する。
よし、と自分に気合いを入れて静夏が食器を片付けに廊下へ出たタイミングで後を追ったリータだったが、しかし自分から声をかける前に静夏から呼ばれてしまった。
「リータ、ちょっとこちらへ来てくれないか」
「あっ……はい!」
静夏は隠れるように廊下の端へ寄り、リータへと手招きをする。
駆け寄ったリータは真剣な眼差しの静夏が何か重要なことを話そうとしている気配を感じ取って背筋を伸ばした。
「折り入って頼みがある」
「頼み……ですか?」
「私に料理を教えてはくれないか」
「……ッわ、私がマッシヴ様に料理を!?」
思わぬ申し入れにリータはぎょっとする。
静夏は少し恥ずかしそうにしながら言葉を続けた。
「先ほどの伊織の失敗、あれはとても……伊織にしては珍しいことだ。伊織も疲れているのかもしれない。そこで私が代わりに料理担当を買って出る――ということすら出来ないのが心苦しくてな。皆も知っているように私は料理の経験が浅すぎる」
母親失格だ、と静夏は僅かに視線を下げて言う。
リータはきょとんとしながらも静夏を見上げた。
「……どう見たってマッシヴ様はイオリさんのお母さんですよ。大丈夫です」
伊織の味覚障害。この話は今ここで自分がすべきではない。
そう感じたリータは静夏の暖かい目の色を見ながら言う。
静夏のこの優しい心配は『母』のものだ。もちろんこの感情がなくても子供にとって母は母だが、リータは静夏の気持ちを大切にしたかった。
(だから、あのことを言うのは私じゃなくてイオリさん自身でないと)
きちんと伊織に話を聞いてしまったことを言って謝り、静夏に本当のことを伝えるよう説得しよう。
リータは今そう決めた。
伊織は心配をかけまいと黙っているのかもしれないが、このままでは別の方向から結局心配をかけてしまう。それは伊織も本望ではないだろう。
「マッシヴ様、私が真心込めて料理を教えます。でもその前に少しだけ時間をもらってもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。ありがとうリータ」
リータと静夏は笑みを浮かべ合い、一緒に食器を洗いに下りた。
そしてその十数分後、部屋に戻ったリータは伊織に小さく声をかける。
「イオリさん、――ちょっとお話いいですか?」
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