第169話 おやすみなさい
宿に戻り、ベッドに横になった伊織は今日あったことをひとつひとつ思い返していた。
これまでセラアニスを『誰』として見るか悩む場面が多々あったが――公園で口にした通り、やはりセラアニスはセラアニスという個人に他ならない。
そんな彼女が今現在置かれている状況は当事者でなくとも胃の痛くなるものだと伊織は小さく呻いた。
セラアニスの一番の願いを叶えられたらどれだけよかったことか。
しかし、そう、これもあの時口にした通り。
(やっぱ僕、ヨルシャミが好きなんだな……)
伊織は言い切ってしまったことに自分でも驚いたが、あの強く尊大で天才肌なのに人道的で思いやりのある、そんなヨルシャミが好きなのである。
そこまで大きなきっかけはあっただろうか、と回想してみたが心動かされる瞬間はあった。ほんの少しの動きでも積み重なればある時ことりと落ちるものなのだろうかと不思議な気持ちになる。
日本ではどうだっただろうかと考えてみるも、こうしてすぐ前の人生を参考にするのはどうなんだと自問自答する。実際には参考にすべき人生経験が多いのは圧倒的に前世のため致し方ないことではあるのだが。
セラアニスはそんな伊織の気持ちをすでに知っている。
そして、それを曲げてまで自分に応えてほしいとも思っていない。
ならせめてもう少し心を軽くしてあげる方法はないものか。
そう考えながら伊織は真っ暗な部屋の中で天井を仰ぎ見た。
(――明日、改めて何かやってみたいことがないか訊ねてみよう)
***
セラアニスはなかなか寝付けないでいたが、気がつくと心がすとんと闇に落ち込むように眠っていた。
それに気がついた瞬間、明晰夢のように夢の中にいることを自覚して自然と両足が地面を探す。たたらを踏んで降り立ったのは古びた門のある山の中だった。
どことなく故郷の山に似ており、それにより先日見た恐ろしい夢のことを思い出したセラアニスはぶるりと身を震わせる。
しかし門に見覚えはない。
(この門は一体……)
左右に伸びた柵は視界の中に終わりがなかった。
錆びてはいるが黒く頑丈で、そう簡単には登れそうもない。だが心配ご無用とでも言うように門に鍵はかかっていない様子だった。
門の表面に触れてハッと気がつく。
思わずその場から一歩跳び退いたセラアニスは食い入るように門を見直した。
この向こう側は、生きたいと思うのならば決して行ってはならない場所だ。
「……」
しかし逆に、この門をくぐってしまえば消えることができる。
ヨルシャミを伊織たちに返してあげられる。
そんな確信も同時に得た。
この未練がましく現世に残っている自分ができる最後の善行ではないか?
そう考えたセラアニスは恐怖に竦む足に鞭打って再び門に手をかけようとし――真後ろから肩を掴まれて引き離され、素っ頓狂な声を上げて驚いた。
「何を愚かなことをしている」
「……ヨルシャミさん?」
恐る恐る振り返るとそこに当たり前のように立っていたのはヨルシャミだった。
自分と寸分違わない、しかし表情作りが目に見えて違う存在。
この体を使うべき人だ。セラアニスは目元に力を込めて言う。
「どうして止めるんですか。ヨルシャミさんならわかりますよね、ここを抜ければ私は消える。そうすればヨルシャミさんは元に戻れるんですよ」
「ああ、そうであろうな。この門と柵はお前の精神が死ぬために生み出したものだ。放っておいてもじきに消えるであろうセラアニスの贖罪の塊のようなもの。……まったく、自暴自棄にも程がある」
とはいえ気持ちはわかるが、とヨルシャミはセラアニスの肩から手を離した。
「結果的にそうなるとしても私に体を『返したい』などと思うな」
「でも私はもう死んだ存在です」
セラアニスは視線を足元に落とす。
「……過去から蘇った紛い物が、人のものを奪って居座っちゃだめなんです」
「紛い物? そんな世迷い言は寝言でも言うものではないぞ」
ヨルシャミはじっとセラアニスを見ると、ゆっくりと上げた手で彼女の胸の中心を指した。
「セラアニスとして世界で生き、見聞きし、学んだ日々があったのだ。脳と記憶の再生により魂も再編された」
「……魂が?」
「うむ、この体と魔力が覚えていたからこそ起きた奇跡であるが。……自ら望んで完全に消え去ることはない。もはやお前は私の一部だ。様々なことを陰ながら見てきた上でそう認めよう」
あの視線や声はヨルシャミだったのか、とセラアニスは納得した。
そして己の胸元に手をやり、手の平で鼓動を感じる。夢の中だというのにそれは随分とはっきりしていた。
その心臓に寄り添うようにして魂が存在しているのだろうか。
「魂も精神も我々は同義語として使うことが多いが、お前に関しては少し特殊故な。脳さえ復元すれば同じ魂を量産できることになってしまうが、本当はそうはならん。魂として確立していなければ不確定な存在となり、一日と経たず私に体を奪い返され消えていただろう」
しかし、とヨルシャミは言葉を重ねる。
セラアニスを説得するために手ずから組み立てた言葉だ。
「今はこうして馴染んでいる。意識の交代も私の記憶を思い出したことで優位性が逆転したからだ。私は意識を取り戻してからこの世界……夢路魔法で構築した世界から外を見ていたが、消えたわけではなかった」
「つまり私もここに居続ける形になるだけで、消えなくてもいい……ってことですか?」
「そうだ。ただお前は回復魔法に秀でている治療師に近い。それ以外の魔法はてんでだめ、魔力操作にも癖がある。それではここでサポート無しに意識を保ち続けるのは難しい」
「う……」
「更には再編されたばかりなせいか魂が脆くダメージも受けている故、しばらくは眠って休息を取ることになるだろうが――」
ヨルシャミは自信満々な顔をして言った。
「セラアニスも恋愛だけでなく色々とやりたかったことがあるだろう。今すぐではないが、幸いにも我々は長命種である。いつかお前の肉体となるものを用意してみせよう。その体で自由に生きろ、お前は紛い物などではなく本物なのだから」
「ヨルシャミさん……」
精神だけ別の肉体に移す魔法をセラアニスは知らない。恐らくヨルシャミもだ。新たな肉体を用意する件についても同じだろう。
しかしそれは『方法が存在しない』と同義ではない。
もしも無かったとしても、ならば新たな魔法を生み出す方向へシフトするだけだとヨルシャミは笑った。
セラアニスは泣きそうになりながら笑い返す。
「ヨルシャミさんはお優しいですね」
「そうか? そう称してくれる者はそれほどいないが」
セラアニスは羊の魔獣を相手にした時のことを思い出し、そろりと手を伸ばしてヨルシャミの手を握った。
「……あの時、これ以上私に負荷がかかるといけないからって気を遣ってくれましたよね」
「よく気づく娘だな。……私は慣れているがお前はそうではないであろう、召喚も攻撃魔法も使えるがそうすれば苦痛は増す。それを与えたくなかった」
あれは普通の少女が受けるべき苦痛ではない。
そうヨルシャミは考えていた。だからこそ短い間だったが交代したのだ。魔力が体の中で暴れ回り、血管や神経を傷つけるあの激痛はヨルシャミにとってはもう慣れっこだが、セラアニスはそうでないとわかっていたからこそである。
体を労わりつつもセラアニスの気持ちを汲み、あの時できる最善の策として伊織を支援した。
その結果が伊織の手による魔獣退治の成功だ。
セラアニスは目を瞑って考える。
消えなくていい、と言われて安堵した。
本物だ、と言われて泣きそうなくらい嬉しかった。
それを吹っ切ってでも消えてしまいたくなる気持ちはまだ残っていたが――これから先、こんな自分でも伊織たちの手助けをできる時が来るかもしれない。
セラアニスはそうゆっくりと考える。
「……わかりました。消えるのはやめます」
消えずとも肉体をヨルシャミに返せるのだ。
世話をかけるのは本望ではなかったが、セラアニスはヨルシャミの提案を呑むことにした。
その瞬間背後の門と柵が風に散らされた粉雪のように消え去り、天高くへと昇っていく。
それを見送ってセラアニスは小さく笑い、ヨルシャミの手を引いてお願いをした。
眠るなら木の上が、故郷の生家が寄り添っていた大きな木の上がいいです、と。
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