第144話 恋は盲目

 セラアニスに明瞭な記憶はない。


 しかし自分の仲間だという人たちは優しい人ばかりで、状況に対して不安はあるものの恐怖はあまり湧いてこなかった。

 実際には『この人たちは優しい』と判断するにはあまりにも時間が足りず、普通の人ならば未だに疑って警戒を続けていただろう。その結果精神的に疲れてしまうとしても。

 だがセラアニスは良くも悪くも箱入り娘だったため他人を信じることに長けすぎていた。


「この人も私の仲間の一人なんですよね?」


 未だ眠り続けている伊織を覗き込み、セラアニスは首を傾げる。

 ヒルェンナはリータたちに了承を得ず肯定することに少し躊躇ったが、彼女らの仲間であることは一目瞭然だった。

 じつは特殊な事情があって共にいるだけの他人ということはないだろう、と判断し首を縦に振る。


「そうですね。恐らくセラアニスさんとも交流があったと思いますよ、見覚えはありますか?」

「それがまったく思い出せなくて……でも、何でしょう、少しホッとする感じがします」

「ホッとする感じ?」

「お父様と狩りに行った時に、怖かったけれどきっとお父様が守ってくれると思ったらホッとできたような……そんな感じなんですけれど、すみません、上手く言葉にできなくて」


 この少年は過去にセラアニス――ヨルシャミを助けたことがあるのかもしれない。

 ヒルェンナはそう考えながらセラアニスに笑みを向けた。

「感情を動かされるということは深い繋がりがあったのかもしれません。お見舞いしたくなったらいつでも声をかけてください」

「ありがとうございます。皆さんとも沢山お喋りをして、早く記憶を取り戻さないといけませんね……!」

 がんばります、とセラアニスは握り拳を作ってみせる。

 記憶を取り戻すということはセラアニスの自我が溶けて消えてしまう、薄まってしまう道に繋がる可能性が高い。

 それを思うと必ずしも良いことだとは言えなかったが、ヒルェンナは笑みを崩さないように注意しながら続けた。セラアニスは何も知らないのだから。

「あの」

 そんなことを考えていると、セラアニスがおずおずと声をかけてきた。


「なんでしょう?」

「あ……あた……」

「あた?」

「頭、を……撫でても大丈夫、でしょうか? えっと、この人の」


 頭を撫でる? とヒルェンナはきょとんとしたが、傷に障らないか気にしてのことだろうかと思い「大丈夫ですよ」と返す。

 それを聞いたセラアニスは嬉しそうに伊織の頭を優しく撫でた。

「なんだかとても撫でてあげたくなったんです、年下の子をよく頑張ったねって褒めてあげたくなるみたいな……」

 セラアニスは満足げに少しちくちくとする髪の毛を撫でつける。撫でた先からピンピンと元の形状に戻るのが面白いのか何度も同じ場所を撫でていた。

 その横顔を見ながらヒルェンナは己の誤解に気がつく。


(傷に障らないか気にしてたんじゃないわ。この子……)


 それがヨルシャミの感情なのか、今新たに湧いたセラアニスの感情なのかはわからない。

 わからないが、ほぼ確実に。


(……この少年のことが好きなのね)


     ***


 パトレアにとって誰かに恋をするということは青天の霹靂であった。

 生存本能に基づいた恋愛感情の喚起は経験がない。年頃になった頃にはそれが許される環境で生きていなかった。

 ナレッジメカニクスに入った後は恋愛などそっちのけで速さを追求し、それで満足し日々充実していたため完全に用無しな感情だったのだ。


 それが今やぴかぴかと輝く宝物のように感じる。

 とても素晴らしい感情だ。


 いや、その感情を湧き上がらせてくれたあのお方――バイク様が素晴らしいんだ、とパトレアは目を輝かせる。恋は盲目というものである。

 盲目ついでにテンションを上げ、監視対象を放り出して『走る』ことで感情の昂りを発散させた恋する乙女もとい恋する暴走馬は気がつけば徒歩でナレッジメカニクスの本部に戻っていた。

 そこでようやく気がついたのだ。


「……あれ? なんで私は帰って来たのです?」


 ――恋に盲目なのと同じように、パトレアは速さにも盲目的だ。

 なにせこれがほぼすべての原動力なのだから仕方がない。何ものにも代え難い最優先事項である。

 ナレッジメカニクスはそういった偏った者を好き好んで集めている節があるため、こういう事態はそう珍しいことではなかった。が。

「しかし……まさかここまで見事な失態を犯すとは」

「申し訳ありません、申し訳ありません……!!」

 パトレアは平謝りする。

 彼女から事情を聞いたセトラスは腕を組んで気だるげにイスの背もたれに体重を預けた。隣ではヘルベールが終始眉間を押さえている。


「まあ不測の事態があった、そしてサンプルの検査結果次第で対応を考え直す必要もあった。故にそう痛手ではないが」

「ですがヘルベール博士、私が任務を全う出来なかったのは事実。如何なる処分でも受け入れるであります!」


 処分については上司のセトラスに一任されているが、放棄した任務はヘルベールのものであるため幹部同士で話し合って決める形になるだろう。

 しかしヘルベールはセトラスに任せるつもりでいた。処分を考えるのも色々と面倒だ。そこに時間を割くよりは早く検査の続きに戻りたいのである。

 そこでセトラスが腕組みを解いて言った。


「叱っても逆効果でしょう。得られるものはない。なにせ我々は我々のやりたいことのためにここに所属しているんですからね、所属しているからこそ望みを叶えられないなんて本末転倒だ。それよりもこの繋がりをどう活用するか考えましょう」

「この繋がりを……?」

「ええ。パトレア、貴女は聖女の息子たちにまた会いましょうといった旨のことを伝えたわけですね?」


 パトレアはゆっくりと頷く。

 今度は本当の名前と姿でお会いしましょう、とあの時伝えた。

 それは何か考えがあってのことではなく、ほとんど衝動的に発した言葉だったが、セトラスは納得したように頷き返す。

「どうやらあの集団は理由さえあれば勝負に応じる性質が強いらしい。そこでパトレア、貴女はリベンジマッチを仕掛けなさい。こちらの任意のタイミングで、ですが」

「よ、宜しいのですか……!?」

「なに、検査結果次第ではもっと詳しいサンプルが必要になったり……そうですね……聖女の息子、彼の魂についても少々調べなくてはならなくなるかもしれません。その時に隙を作るため利用させてもらうだけです」

 それでもパトレアにとっては願ったり叶ったりだ。

 喜んで頷くと、そこでセトラスはぎいっと音をさせてイスから立ち上がった。

 長い髪をくるくると巻き上げて留め、片目でヘルベールを一瞥する。


「私はこれからパトレアの脚を改良してき――」

「改良ッ!? よいのでありますかッ!?」

「――少し落ち着きなさい。改良してきますので、ヘルベールは検査の方へ戻ってください」


 ヘルベールは眼鏡の奥で目を細めた。

 真面目に見える顔つきに反していつもどこかだらしがないセトラスにしては活動的である。

「珍しくやる気だな」

「私のやる気が出ないのは世界のせいですよ。けど今回の件は少し面白そうだ」

 だからほんの少し楽しむことにします、とセトラスは緩く口の端を持ち上げて言った。

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