第141話 彼女の記憶
リータから搔い摘んだ話を聞いたヒルェンナは何度もそれは真実なのかと訊ねた。
致し方のないことだろう。一般に浸透している技術力では脳移植など到底出来るものではない。他の臓器だってそうだ、いくら魔法を併用しているとしても限界がある。
しかしリータの話を信じれば今のヨルシャミ、もといセラアニスの状態も説明がつくとヒルェンナもわかっていた。
要するにセラアニスはヨルシャミの肉体の元の持ち主で、それを覚えていた肉体や魔力の記憶を頼りに『昔の脳』を再生した影響で人格に影響が出てしまったのだ。
この体の中で脳だけはヨルシャミ本人のものだったが、その一部がセラアニスに置き換わった状態にあるわけだ。
まさかこんなことが起こるなんて、とヒルェンナは顔を覆った。
「すみません、これではヨルシャミさんを殺してしまったも同然です……」
「あ、謝らないでください。助けてくれたヒルェンナさんには感謝の気持ちしかありません!」
意気消沈するヒルェンナの体を支えながらリータは力強く言った。
あのまま放置していれば肉体すら危うかったのだ。全力で治療師としての責務を全うしたヒルェンナを責める気などリータには毛頭なかった。
しばらくヒルェンナは肩を落としていたものの、はっとしてリータを見る。
「けれど、前代未聞だからこそ今後ヨルシャミさんの記憶を取り戻せる可能性は大いにあります」
「……!」
「それに再生させたのは一部のみのはず。今はセラアニスさんの記憶しか無い状態なので、もしかするとヨルシャミさんとしての記憶は頭への衝撃で一時的に思い出せないだけかもしれません」
「記憶喪失、ってことですか?」
ヨルシャミとしての記憶が思い出せず、彼の人格が眠ってしまっているため表に出ている人格が完全にセラアニスになっているのかもしれない、ということだ。
ヨルシャミが完全に消えてしまったわけではない。
その可能性にリータは笑みを浮かべるも、すぐにあることに気がついて両耳を下げた。
「もし思い出した場合、セラアニスさんは……」
「どうなるかわかりません。ヨルシャミさんの人格に飲み込まれてしまうかもしれないし、そのまま残るかもしれない。二重人格のようなパターンも考えられますが、脳の大部分がヨルシャミさんのものだということを考えると……これは可能性としては低いかもしれませんね」
リータは壁を隔てた先を見るように隣室のある方向を見た。
セラアニスとはついさっき会ったばかりだが、可愛らしい印象の強い女の子だった。そんな子がヨルシャミの入れ物になっているということは、過去にナレッジメカニクスにより何らかの処置を行なわれたということになる。それもうんと非人道的な処置だ。
今はその記憶はないようだが、そんな目に遭った女の子が再び消えるか消えないかという状況に立たされているのは可哀想だった。
「リータさん、とりあえずこの件はセラアニスさんには伏せておく形で宜しいですか?」
「……はい、今は。その後どうするかは姉とサルサムさんにも相談してから決めます」
わかりました、とヒルェンナは頷く。
「ではその形で。本人には一緒に旅をしていたが頭を負傷したため記憶が混乱しているらしい、ということにしておきましょう」
リータは不安な気持ちを抱えつつもしっかりと頷き返した。
***
ヒルェンナが先ほどの理由をセラアニスに説明している間、リータはミュゲイラ、サルサムを廊下へ呼び出して話し合いの結果を説明した。
ミュゲイラは納得しつつも食い下がるように言う。
「それがいいっていうのはわかるけどさ、やっぱこういうことは本人に包み隠さず話すべきだってあたしは思うぞ」
「うん……私もそうしたいんだけれど……」
「まずは様子見でいいんじゃないか、本人もまだ混乱してることだしな」
サルサムはリータたちが隣室にいる間もセラアニスが一生懸命思い出そうとしていたのを見ていた。
――知ったのは最近だが、バディを組んでいたバルドも記憶喪失だった。あっけらかんとしていた彼とは対照的だったが、きっとセラアニスの方が『普通の反応』に近い。
不安定な状態で自身の自我が再び消えてしまう可能性を示唆するのは危ないだろう。落ち着いた時に話すにしても、セラアニスがそれに耐えられる性格なのかどうかサルサムたちにはまだわからなかった。
「……そうだな、まずは様子見か」
難しいことを言っているのは承知の上だったのか、ミュゲイラはゴネずにすぐ了解する。
そこへ部屋からヒルェンナが顔を出して三人を呼んだ。セラアニスへの説明が終わったらしい。
三人で部屋の中へと戻るとセラアニスは不安げな顔をしていた。
「あのっ、私、何か思い出したらすぐに皆さまにお知らせしますね……!」
「わかった、けど無理はするんじゃないぞ」
頭を下げるセラアニスにサルサムが言う。
とても腰が低い性格なのはこの時点でもよくわかった。他の面も見ながら考えていくか――と思ったところで、どこからともなく獣の唸り声のようなものが聞こえて一同はきょとんとする。
音の発生源がわからない。
野犬かもしれない、とミュゲイラが窓に近寄ったところでセラアニスがおずおずと手を上げた。なぜか顔を真っ赤にして。
「……わ、わた、私のお腹の音です……」
ヨルシャミの時はそんな音しなかったのに? という言葉を三人は必死に飲み込んだという。
***
短い休憩を終えた伊織とネロは再び街を目指して進み始めた。
伊織には伏せているがネロの補助魔法は半日限定であり、それも休憩の少し前に解けている。
それでもネロは黙って伊織を背負い続けた。日が暮れて周囲が暗くなり、視界が悪くなっても持ち前の夜目が利く目を活かして進んでいく。
途中で何度かネコウモリを見失いかけたものの、ネロが遅れていると気がつくとあちらから迎えに来てくれたので事なきを得た。ネコウモリはネコウモリでこちらを気にかけてくれているらしい。
そうして更に数時間が経過した頃。
「……っあ、あった……!」
小さな村や寂れた場所でもない限り、この地域の街道は大抵均されている。藪の向こうを横切る道は明らかに人の手が入っていた。
思わず歓喜の声を漏らしたネロは背負った伊織を軽く揺らす。
「イオリ、起きてるか。道が見つかったぞ」
「う……、?」
伊織は目を何度か瞬かせて反応したが、意識が朦朧としているのか明瞭な反応は返ってこなかった。
ネロは「無理に返事はしなくていいぞ」と体を更に前に傾けて道を進み始める。伊織が自力で背中に掴まる力がなくなってきたため、強めに角度をつけないとずり落ちてしまうのだ。
――伊織の体力もそろそろ限界だ。
それを再確認し、ネロは足が痛むのもお構いなしに歩き続けた。
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