第五章

第129話 仲間だから見捨てたくない

 ニルヴァーレが攫われた。


 ――正確にはニルヴァーレが転じた魔石が大きなカラスに攫われた。


 なぜもっとしっかりと握っていなかったのだろう。

 そんな後悔を何度もし、そして熱で朦朧とした意識の中で後悔は何度も溶けて霧散した。

 その日の夜はまともな思考すら纏まらず、伊織がはっきりと物事を考えられるようになったのは翌朝を迎えてからだった。


 朝露が熱い頬に落ちて目を開ける。

 脂肪の関係で普段は比較的冷えている太腿すら熱い。だというのに全身が寒く感じられ、その中で唯一燃えているかのような熱さを伝え続けているのが右肩だった。

 視界の端に捉えた右肩からは薄汚れた包帯が取り払われ、代わりに黒い布が巻かれている。それがネロの袖だと気がつくのに数秒を要した。


「イオリ、起きたか」


 果実を採ってきたらしいネロが歩いてくるのが見えた。

 その片袖が無いのを見て伊織は慌てて体を起こす。やはり眠っている間に取り換えてくれたらしい。

「っすみません、包帯の代わりに……」

「え、いや、むしろそんなのしか無くてすまん、一応しっかり洗って内側に殺菌作用のある葉っぱを挟んでるんだが……、……その、イオリ、やっぱりその傷は早く医者か治療師を探して診てもらった方がいい。ついでに聞き込みもできるし、まずは人の住んでいるところを探さないか」

 ネロの言葉を聞いて伊織はしばらく沈黙した。

 昨日も言っていたが、すぐにニルヴァーレを探しに行くのはやめよう、ということだ。


「――すみません、ネロさん。せめて一日だけ探させてくれませんか。記憶頼りですけど前に地図で見た時に近くの村はトンネル向こうの村だけだったと思うんです。街は反対側だろうし、元の村もこんな下流じゃ恐らく遠い。だから……」

「やっぱりそれだけ大事なものなんだな?」

「はい」


 伊織は自分でも驚くほど即答した。

「……あの人を嫌う人、恨んでる人もいるかもしれない、そんな人なんですけど……僕にとってはもう師匠の一人なんです。仲間を一人連れ去られたのと同じ気持ちなんです」

 たとえば同じシチュエーションでヨルシャミが攫われれば、伊織は今と変わらない気持ちになっていただろう。

 それだけニルヴァーレを仲間の一員だと認識している。

 きっと他のメンバーはここまでではない。なにせ伊織とヨルシャミ以外はニルヴァーレとの交流があの戦闘で止まっているのだ。

 静夏は理解を示した上で伊織の気持ちに寄り添ってくれるだろうが、バルドたちの反応を見るにニルヴァーレの印象は昔のままで、仲間というより魔石になった不思議な存在として見ている気がする。

 それでも伊織にとっては仲間で師匠なのだ。


「それにニルヴァーレさんの魔石はヨルシャミが魔法を使う補助もしてるんで、本人は嫌がると思うけど……居なくなられたらヨルシャミも困ると思う。だからあの鳥から奪い返したい、っていうのが今の僕の考えです」

「そうか、うん、仲間を攫われたらそりゃ気が気でないよな」


 ネロは視線を落として考えを巡らせると、小さな声で呟いた。

「……そうやって最優先に出来るのが救世主らしいよ」

「え……?」

「いや。じゃあ一日だけだ。それを過ぎたら一旦切り上げるぞ、いいな?」

 きょとんとしていた伊織だったが、ネロがそう問うと力強く頷いた。

 その揺れで頭の中がぐらぐらとしたが、気力だけでそれを抑え込む。今は可能な限り回復し、そして大カラスを探さなくてはならない。


 そんな意気込みの中、ネロから差し出されたリンゴのような果実を齧ると、見た目に反した予想以上の酸味に伊織は盛大にむせ込んだ。


     ***


 午前中は高い場所を探して周囲の様子を探り、午後になって小型の大カラス同士が小競り合いをしているのを見つけて後をつけたが見失ってしまった。

 しかし派閥争いをするほど近くに大カラスの群れが二つあることはわかった。

 魔石を奪った大カラスはかなりの巨体だ、恐らくどちらかのボスを務めている可能性がある。


 大カラスは時折水辺に現れて水を飲むこともわかった。

 ほんの少しの間だが足を休めるために河原で腰を下ろしていた際、突然中型の大カラスが現れたのである。

 伊織は熱で乾燥した目を凝らしてそれを見た。


「一羽だけ……みたいですね。どうにかしてしがみついて捕まえられないかな……」

「言っとくが捕まえて巣へ案内させるなんて無理だぞ。もし振り落とされなくてもそのまま飛ばれたら俺らなんて一巻の終わりだ」


 ネロの言葉で伊織はバルドとサルサムが巨鳥の魔獣にしがみついて落ちてきた時のことを思い出した。

 バルドの現状を思うと心が締め付けられたが、あの時だって大丈夫だったじゃないかと意識をわざと明るい方向に持っていくことで楽になる。――この「楽になり方」を多用したせいで先ほどのような楽観的な思いつきが口から出るようになったのだが、伊織は自覚していない。


「……!」


 またあの大カラスを追ってみようか。

 そう考えていた時、頭上から両足を突き出して急降下してきた巨大な大カラスが水を飲んでいた個体を鷲掴みにして川の中に押し付けた。

 二羽はばしゃばしゃと水飛沫を上げながら暴れ回る。

 しかし大きい個体に利があり、中型の大カラスはあっという間に命を奪われてしまった。

 ぽかんとしていた二人はその大カラスが石を奪ったのと同じ個体だと気がついて身構える。


「その場で食えるだけ食ってる……本来大カラスは長く飛ぶために小食なんだ。ってことはアイツ、多分子育て中だな」

「子育て中――あっ、じゃあこの後は巣に帰る?」

「ああ、多分」


 これは今度こそ見失えない。

 伊織はもう一度バイクのキーを取り出してそれを見つめた。

 あの時呼びかけに応じなかったのは本調子ではなかったというのもあるだろう。しかしなんとなく、こちらの体を気遣ったバイクがわざと拒否したような気がした。

 熱を出して呼び出したことがなかったので余計に心配されたのかもしれない。

「……」

 伊織は心の中で語り掛ける。

 大切な仲間を助けるために、君の力が必要なんだ、と。


(僕は大丈夫。だからあいつの巣を見つけるまでの間だけでもいい、力を貸してくれないか)


 愛車にそう心から頼み、一度だけバイクキーをぎゅっと握った後、伊織はそれを何もない空間に挿し込んだ。

 回した直後から感じた僅かな手応え。

 ぐるりと回りきったと同時に車体にキーが挿さったバイクが現れ、エンジン音を響かせる。そのエンジン音がいつもより小さい。


 ……ああ、大カラスに見つからないようにしてくれたのか。


 そう気がついた伊織は笑い、協力してくれた愛車を手の平で優しく撫でた。

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