第17話 マッスル体操

 寝起きから苦しい。

 息苦しいどころか息ができない。


 いやなにこれ!? と飛び起きたところで伊織は顔面にウサウミウシがのって爆睡していることに気がついた。そりゃ顔の穴という穴を塞がれれば苦しいわけだと納得する。

「寝起きから苦しいっつーか苦しくて起きたのか、……ん?」

 朝の何時頃だろうか。まだ辺りが薄明るくなってきたところで、あちこちに夜の名残が見て取れる。

 そんな中、外から人の気配がして伊織は首を傾げた。

 見ればリータはまだ夢の中だが、静夏とミュゲイラの姿がない。

 鼻ちょうちんを出しているウサウミウシを摘まんで下ろし、そうっと外に出てみると――朝露滴る清々しい朝の景色の中、静夏とミュゲイラが揃ってボディビルポーズを取っていた。


(なんで?)


 呆けている伊織が見ているのに気づかず、ふたりはにこやかにサイドチェストのポーズに移る。

 胸元、腕、背中、脚などの筋肉の厚みを強調し、しばらくそのポーズを維持。次に背中を向けて両腕を曲げながら背中を強調するダブルバイセップス。そこへ小鳥が飛んできて肩にとまる。


(だからなんで?)


 朗らかな雰囲気とムキムキした雰囲気が融和していたが、伊織には何がなんだかわからない。わかりたくないのかもしれない。

 呆然としている間にふたりはアブドミナル・アンド・サイに移った。

 両手を頭の後ろに置き、腹筋と脚を中心に見せていくポーズだ。くびれた腰を彩るシックスパックと外腹斜筋は彫刻のようで、男でも女でも見惚れる代物だったがとりあえず伊織は視線を外す。

 すると延々と無言でポーズを取っていたふたりが伊織に気がついた。

「伊織! 起きていたのか……いや、起こしてしまったか?」

「えっ、あっ、いや、たまたま起きただけだよ。そっちはそのー……何、今の?」

 正直に訊ねると静夏は嬉々として腕の筋肉を見せながら言った。


「マッスル体操だ」

「余計に謎が増えた!!」

「筋肉の神のご加護にあずかろうという古くから伝わる体操だな。体操中は一切言葉を交わさず、笑みと筋肉だけで語り合うのが普通だ。こうして伊織たちが起きるまで毎朝やっていたんだが、最近ミュゲが加わってくれるようになったんだ」

「マッシヴの姉御とマッスル体操をできるなんて光栄っす!」

「それ毎朝やってたんだ……」


 とんでもないことを知ってしまった気分になりながら伊織は遠くを見る。

 違和感を感じつつも母親がこの姿のため受け入れていたが、この世界には『筋肉の神』がわりと一般的に知られていた。特にベタ村の周辺はその信仰が厚く、そのため静夏が聖女マッシヴ様であるとすぐに浸透したのである。

 他にも様々なものを司る神がいるらしいが、伊織はまだこの世界の宗教文化については勉強が追いついていない。

 つくづく不思議な世界だなぁと思っているとミュゲイラにつんつんと肩をつつかれた。


「折角起きてきたんだしさ、イオリもやろう! マッスル体操!」


 そんなラジオ体操に誘うみたいな気軽さで!? とツッコミかけてここにラジオはないなと飲み込む。その間に静夏にまで「そうだ、健康にも良いぞ」と加わられてしまった。凄まじい加勢である。

「い、いやー……けど僕、見ての通り必要最低限の筋肉しかないから……」

「知ってるか、あたしらは立って喋って生きてるだけで筋肉の恵みを授かってるんだぞ。だからマッスル体操は生きとし生けるもの誰がやってもいいんだ」

「随分受け皿が広いんですね!?」

「ほら、伊織」

「やろうって、イオリ!」

 ずい、ずいっと二本の逞しい手を差し出され、伊織は口の端を引き攣らせつつ半歩引く。

 目を覚ますのに最適かもしれないし、小屋探しのウォーミングアップにもうってつけかもしれない。


 しかし!

 しかしこれは自分には向かない!


「……」

 そうわかっていながら、期待しているふたりの顔を見ていると伊織は誘いを断れなかったのだった。


     ***


 昼間より少し涼しい空気に頬を撫でられ、ゆっくりと目覚めたリータはきょろきょろと辺りを見回す。

「あれ、誰もいない……?」

 もしや突然奇襲でも受けたのか、それとも村や小屋に関する新事実が判明して三人とも急いで出ていったのか。

 一気に夢から現実に引き戻されたリータは慌てて起き上がる。


(マッシヴ様がついてくれてるなら大丈夫だとは思うけれど……)


 後者ならまだいいが、前者なら最悪の事態も想定しなくてはならない。

 いくらマッシヴ様がいるとはいえ、もし自分の息子やミュゲイラを人質に取られる等のイレギュラーが発生したらどうなるかわからないのだ。

 リータはそんな光景を思い浮かべながら息を整えて外に出る。


 サイドチェストをしている三人と目が合った。


「……」

 様になっている静夏、ミュゲイラ。

 なぜか赤くなって震えている伊織。

 リータはもう一度丁寧に息を整えてから言う。朝の澄んだ空気ですべてがどうにもよくなりかけたが、口に出すべき言葉は決まっていた。


「なにこれッ!?」


 渾身の一言にミュゲイラが爽やかな笑みを浮かべて片手を上げる。

「よう、おはようリータ!」

「なんで普通に挨拶できるの!?」

「よかったリータさんは僕寄りの感性だ……!」

「イオリさんも何を普通に混ざってるんです!?」

「あっ、えっと、これには深い訳が!」

 筋肉の神のマッスル体操ということはなんとなくわかるが、エルフには馴染みが薄いものだった。

 マッシヴ様の息子ならそれを毎朝行なっていてもおかしくはないが、伊織の様子を見るに自ら進んでやっているようには見えない。

 リータから見ても伊織はお人好しだ。

 それが長所でもあるが、巻き込まれているならもっと強く断ればいいのにと思うこともある。今回もそのパターンだろうかと考えているとミュゲイラに手を引かれた。


「丁度筋肉も温まってきたところなんだ、リータも朝食の準備する前にやらないか?」

「やらないけど!?」

「リ、リータさん、あの、母さんがマッスル体操は大勢でやった方が楽しいみたいなんだ、だからもしよかったら……」

「母想いなのは良いことですけど限度――……うっ……」


 期待でそわそわしている静夏を見てリータの勢いが止まる。

 なるほど、伊織が敵わないわけだ。実子でなくても何かしてあげたくなる。

「……」

 リータも静夏には沢山守ってもらった。恩も山ほどある人物だ。

 自分が何か奪われるわけではない――とりあえず目に見えるものが奪われるわけではないのだから、ささやかな望みを叶えるくらいいいのではないだろうか。

 そうリータはポーズを思い返しつつ耳を赤くし、心底迷った後「……し、仕方ないですね」と小さく答えた。



 はっと起きたウサウミウシはのろのろと壁を上り、壊れて四角い穴と化した窓から外を見る。

 家から出た先では静夏、ミュゲイラ、伊織、リータが何やら力んだポーズを取っていた。


 ウサウミウシにボディビルポーズの知識はない。概念もない。

 そのためしばしぱちくりと瞬いた後――ウサウミウシは、何が起こっているかわからないが平和なようなので二度寝した。

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