第29話 忘れ物
時が止まった──ように鳴子は硬直した。それはつまり、俺の言いたい事を理解してくれた、という理解で良いのだろうか。まあどうでも良いが、それでも何か引っかかるものがあったのなら、それで良い。
思いは言葉すると嘘になる。
彼女は俺の問いに対して一度目は曖昧に返答し、二度目は口を噤んだ。自分の気持ちを言葉にしなかった。
中庭で話しているのは誰か、そう聞いた彼女は、自分の嫉妬を隠そうとした。
彼女は他人を信用していないが──自分を信じている。そんな彼女が思いを言葉にすることを──躊躇った。躊躇などせずに引き金を引ける筈の彼女が、躊躇した。思い、留まった。
彼女は失礼ではあるが、愚かではない。これまでのやり取りで凡そを理解した筈だ。
「は、ハハハ……そういうこと、ね」
「お前が何も変わる必要はない。何も間違っていない。俺の言葉は全部、嘘で良い。俺の事を信用しなくて良い。これまでもこれからも、お前は全部を嘘だって、信用出来なくていい」
分かっている。これは詭弁だ、荒唐無稽だ、矛盾だらけだ、徹頭徹尾イカれてる。
「お前は、お前だけを信じていい。だからもし──俺が好きなら、お前はお前の思いを信じればいい」
だからこそ俺は彼女の逃げ道を潰した。彼女に自分を信じていると、そう言わせる為、自覚させる為に。そうすれば彼女は認めるしかない、だって自分を信じているのだから──自分以外を信じられないのだから。
自分の思いを、信じるしかない。
「……一つ聞かせてよ」
「なんだ?」
「いつから、歳平はアタシの事が好きだったの?」
その質問は正直困りものだ。いつからと聞かれても、自覚したのはあのトイレ周辺の期間なのだから、具体的な日付では答える事が出来ない。それでも、まあ敢えて答えるとするならば、
「……分からん、もしかしたら最初からだったのかもな」
そう答えるしかないだろう。初めて会ったあの時、彼女に引き金を引かれてから、撃ち殺されることはなかったが、ハートを撃ち抜かれてしまったのかもしれない──いや、やっぱ今のナシ。ちょっと気持ち悪すぎた。
夕暮れ時に、彼女の儚く憂うあの拒絶を見た瞬間、俺は恋に落ちてしまったのかもしれないな。よしこれでいこう。
「じゃあ友達になりたいって言ってくれたあの言葉は、やっぱり嘘だったってわけだ。あの時から下心満タンでそんなこと言ったわけだ。あーあー、アタシ結構泣いたりして嬉しかったんだけどなー。そっかー、嘘だったかー、ショックだなー」
あの土砂降りの日、うっかりおっちょこちょいにも、彼女の名前を忘れてしまった日のことだろうか。
「ああ……そうなるかもしれないな」
思えば忘れ物が付き物なこの関係、今日は何か忘れていないだろうか。宿題は、スマホは──よし、大丈夫。両方ともどっちでも良い。
「そっかそっか……うん、でもそれならアタシも、やっぱり嘘つきだったかも。アタシも最初に会った時から、撃ち抜いたつもりが、撃ち抜かれちゃったのかもしれないね──もしかしたらさ」
「……おう」
まさかお前がそれを言うとは、全く恐れ入りました。
「アタシは歳平が好き──どう?」
悪戯っぽく笑みを浮かべて、彼女は悪あがきをする。
「それでもいい。お前のことはお前が分かってるから。俺にとって嘘でも、それでもいい」
「そうだね。アンタのことはアンタが分かってるから。アタシにとって嘘でも、いいよね」
なんだか、とてもややこしくて──とても暖かい。どうしてこんな感じになってしまったのだろう。まあそれは全て俺のせいであり、俺が招いたことなのだが、
ともかく、これで色々収まっただろうか。まるっと収納出来ただろうか。
18時58分、最終下校時刻まで、残り2分。
俺と鳴子は、黒板の上、秒針を黙って眺めていた。
名残惜しむように流れる針を見て、分針が動いても、ずっと眺めていた。
16分程の短い時間の中で、俺は彼女へ言葉を尽くし、彼女は思いを隠して、
二人して──嘘だと言い、思い合った。
しかしそういえば、全くもってはっきりとした言葉で聞いていないのだが、結局彼女は俺の事が好きだった、という事で良いのだろうか、ちょっとややこし過ぎて曖昧になってしまった気がするのだが、
結局のところ、彼女は思いを語っていない。
そんな事を思っていると、一つ空席の向こうから鳴子が口を開いた。
「そっか……そうだったんだ」
手を伸ばして、何かを掴み取るように。そこには何もなく、何も手にしていない。泣き腫らした瞼に、また、涙を溜め込みながらも、鳴子は笑っていた。その笑顔を俺に向けていたのだ。
「分かっちゃったよ」
彼女が何をしようとしているか、理解出来てしまった。
最終下校時刻まで1分を切っている。
だから──それさえ過ぎれば──今日は終わる。終わってくれる。
今以外ならいつでも良いのにと、そんな事を思いたくもなる。
「ずっと、これは、アタシの……」
「鳴子、お前」
「ごめ──」
鐘が──鳴り──響く。
途切れた言葉の端、俺はその瞬間、彼女の言っていた事を思い出した。
そうだ、確か、
『ねえ、どんな見た目してると思う?』
黒い、全身タイツ。
『頭の先から爪先まで、すっぽり入るような、全身タイツみたいな真っ黒』
彼女は人差し指をピンっと立て、その小さな顔を縁取るようにくるっと回していた。
『そんでこう顔の部分に、白く丸が書いてある。ここが的ですよって感じで。そんなバカみたいでふざけた見た目の化け物。どう?』
笑っちゃうよね、そう言っていた、だが笑える筈がない。
目の前で実際に──見えている今、笑える筈が無かった。
俺はその時、彼女の苦悩の全てを理解し、実感した。日常の中で抱えているものだけでなく、異常の中で抱えてしまった問題について、俺は今、初めて共感し共鳴し、同情している。
「……どう、して」
確かにそこにいた筈の彼女は、もうどこにもいない──いや、いる、そこにいるのが、彼女なんだ。
机の上から転げ落ちた──取り憑かれている、彼女が。掌とか膝とか肘とか、体の節々に走った痛みが──これは現実なのだと、そう告げている。
今目の前に見えている──これ──これこそ、彼女の言っていた化け物だ。間違いなく撃ち殺そうとしていた、それで、彼女は銃を手に取ろうとした筈だ、コイツが目の前に現れた、その瞬間に。
鳴子はどういうわけか、銃を取り出せず、取り憑かれた。
目の前に迫っているにも関わらず、彼女は最後に何と告げようとした? 何を謝ろうとした?
「やめろ……鳴子……」
崩れた体を引き摺って、後ずさる。それだけで充分な程に──それは遅かった。ゆっくりとこちらの顔を覗き込むように、弄ぶように見回して、這い寄って来ている。
どうして、なんで、どうして、なんで。
無数の単純な疑問が脳内を這いずり回っていた。こんなものが現実に存在するわけがないと、御伽ちゃんの言っていた事を初めて理解した。そして、俺はこんなものに耐えれられないとも、そう思う。
「鳴子……鳴子……なんでだよ……」
だからだろうか、俺は無意識の内に手を伸ばしていた。
黒く深く、沈んでしまったが──彼女に触れたいと、そう思ったのかもしれない。白く縁取られたその頭部に、愛おしさと哀れみを込めて、手を伸ばした。
しかし、撫でるどころか触れる事すらも叶わないと知る。
「……え」
俺の手には、掌には──銃が握られていたから。
化け物と同じように、黒色の、手に収まる程の大きさ。
鳴子や御伽ちゃんのものと比べれば、随分小さい──拳銃が。
「な、なんで──俺が」
化け物を見てしまったから? 元々持っていたから? 覚醒したから? ──違う、俺はこんなものいらない。彼女を、他人を傷付けるだけの、こんな銃なんて、武器なんていらないのに。
彼女を救えれば──それでよかったのに。
滲んだ視界の中で、思い浮かんだのはある言葉。相手が嘘つきなら、自分だけを信じればいいと、そう思うきっかけを与えてくれた──家族。
『初志貫徹だよ。トシ』
と姉さんは言っていた。嘘つき姉さんのことだから、きっと適当に言ったのだろうと思う。だが、とても業腹だけど、奇しくも、この状況にはピタリと当て嵌まってしまった。
俺は銃を持っている、そして化け物が見えている。
俺は彼女を助ける為に、ここにいる。
なら、俺がするべきことは簡単なことじゃないか。どういう結果になろうとも、彼女は救われる。これまで通り異常に身を置くことになったとしても、もう不眠で化け物に追われることは無くなるのだから。もしかしたら、化け物が見えなくなる、なんてこともあるかもしれない。
どちらにせよ、こうなってしまったのなら、もうこれしかない。
「っ……ごめん……ごめん……鳴子」
震える手元、歪む景色、そんな中でも浮き出た目の前の獲物に、照準を定めるのは容易だった。
引き金を引く事を、躊躇いはしなかった。
反動は殆どなく、本当に弾が発射されたのかと疑わしい程。きっとこの銃も本人の妄想から生まれたものなんだろう。銃の見た目をしておきながら、その仕組みが銃とは離れているのはそういう理由だ。
大きな音、白い縁のど真ん中を撃ち抜いたと思う。
だから化け物は姿を消したのだろう──鳴子の姿がそこにあるのだろう。
「……ん? あれ……アタシ……何を」
彼女が俺に目もくれず、自分に何が起こったのかを懸命に探っているのは──化け物を撃ち殺せた証拠だった。
「……あれ……アンタ……」
他人に取り憑いた化け物を撃ち殺した場合──何が起こるのか、彼女は俺に語り聞かせてくれた。
「……誰?」
記憶を失う、つまりそれは──彼女がその思いを──失うということだ。
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